第8話 深い海の底
駿が旅立った後、私は猛然と受験勉強を始めた。駿に出会う前から、私は看護師になろうと決めていた。中学生の頃あこがれていた職業で、あまり強くない自分には無理だとあきらめていたが、30歳という区切りを目の前にして思い切ってやりたいことをやってみようと思ったのだ。看護師になるためにはまず看護学校に入学しなければならない。ボロボロの身体と心を引きずりながら、バイトをし勉強をした。
郵便受けに合格通知のはがきを見つけた時は、膝を抱えて泣いた。
駿とは、時々手紙で近況を伝えあい、それは看護学校に入ってからも続いた。厳しい勉強や実習の合間にもメールでやり取りを続けていた。彼がフランスへ行って1年が過ぎたころ、突然フランスから相談の電話をかけてきたことがある。離れてから声を聴くのは初めてだった。
「おじいちゃんが病気になって先がもう長くないかもしれない。日本に帰ってそばにいてやりたいんだけど。」
と彼は言った。
私はそんな駿を押し留めた。
「そんなことをしてもおじいちゃんは喜ばないよ。フランスでやろうとしていたことは全部やったの?おじいちゃんを言い訳にして逃げ出そうという気持ちがかけらでもあるなら、おじいちゃんは怒るよ、絶対。孫がやりたいことをあきらめて自分のそばにいることを喜ぶようなじいさんはいないよ。」
彼はこの電話の後、フランスに残る決意をしてパリへ進出した。本格的に写真家として作品作りを始めたようだった。
看護学校の一回りしたの同級生たちと遊び、カポエイラを習い…充実しているかに見える生活のなかで、私はあがいていた。駿の前に堂々と立てる自分になるために、何かをしなければならないという焦り。フランスで暮らす彼と狭い日本の小さな町に暮らす自分との間に大きな隔たりができることを心の底から恐れていた。
3年間の看護学校生活が半分過ぎた頃、私は思いきって韓国へ留学した。といっても夏休みの1ヶ月間だけである。
とにかく自分も海外で暮らせるのだという自信がほしかった。留学中は毎日本当に楽しく、メールで駿に心踊る体験を何度も伝えた。
駿が日本に帰りたいと言った時、私が彼に伝えたことは本心だ。彼に成功してもらいたかった。でも、私の心の奥底には少なからず、今帰ってきてもらっては困るという思いもあった。今の自分はまだとても彼に見せられる段階じゃない。だから純粋に彼を想って励ましたふりをして、彼を遠ざけようとしたのだった。
私は深い海の底で微かな灯りを見つけては泳ぎ寄る魚のようだった。泳ぎ寄って灯りに透かして自分の姿を見る。自分は深海魚のような冴えない色をしている。光に向かって必死で進むのだけれど、鱗が鮮やかに輝く熱帯魚にはなかなかなれない。駿は遠い南の海にいる。私は本当の姿を隠して偽の鱗をまとい、美しい熱帯魚のふりをして見せる。自分が本当に熱帯魚になりたいのかどうかすらわからないまま、ただひたすら南の海に向かい漂っていた。
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