第7話 秋の始まり

 忘れもしない、あれは9.11テロが起きた年のことだ。駿がフランスへ行くのは9月20日と決まっていた。

私はリアルタイムで航空機が高層ビルに突っ込んでいくところを目撃した。一体何が起こっているのだろう。大切な人を海外へ送り出す直前だ。不安が沸き上がる。

ほどなく駿が家にやって来て、私が見ていたニュースの画面を覗きこんだ。

「俺、自分が海外に出る前にこんな事件が起こるなんて、きっと一生忘れないだろうな。」

興奮しているようではあるが、決して不安そうではなかった。

「ねぇ、初めて海外へ行くのに不安とかはないの?」

私が尋ねると。彼は晴れやかな笑顔でこう言った。

「ぜーんぜん!むしろ楽しみ。楽しみでわくわくする。」


出発までの間、彼は実家の離島へ帰って家族と過ごしたり、私の家を起点に友人と別れの挨拶をしたりして過ごした。

駿は自分の家族ととても仲が良かった。離島にある実家へ帰ると、姉、妹、お父さんとバーベキューをしたり、釣りをして楽しんでいるみたいだった。私はそんな時、何とも言えない疎外感を感じた。自分の家族にはない強い絆のようなものを駿は持っている。とても健康的な世界にいる駿とそうではない私を隔てている壁がある、そんな気がした。


 8月の終わりごろ、自分が住んでいた部屋を引き払って、勝手に私の部屋に転がり込んできたのはいいが、友人と会うのが忙しく、ほとんど家にいない。どこへ行くのか、いつ帰るのか、こちらも聞かなかったので、仕事から帰ったら彼がベッドで熟睡していて驚いたこともあった。


 あの頃、私と駿の目の前には常に「別れ」がぶら下がっていた。楽しく自転車で走り回っていても、体を寄せ合っていても私はいつも切なかった。それを知られまいとして明るく振る舞うたびに、胸がキュッと音を立ててきしんだ。

 

一度だけ、彼の目の前で涙をこぼしたことがある。「寂しい」とは言っていない。思いがあふれて、不覚にも涙がこぼれてしまったのだ。

彼は暗く冷たい声で言った。

「泣かないで。」

と。私は激しく後悔した。ここまで頑張ってきたのに、こんなところで彼に本心を悟られてしまった。私が涙を拭いて謝ると、彼は明るく言った。

「先のことを考えて今の時間を無駄にするのはもったいない。」

どこまでも前向きなのだ。私とは明らかに異なる種類の人間だった。


 これで本当にお別れだという日、私はスーパーでかき氷の試食販売をしていた。3つ目のバイトだった。最後の日だというのに何の連絡もない。バイト中、何度も何度も携帯を見たが、いつも「新着メールはありません」というメッセージがむなしく流れるだけだった。

心も身体も疲れ果てていた。寒い売り場での仕事、長時間立ちっぱなしで足もパンパンに張り、体は冷え切っていた。帰りの電車の中で、涙がこぼれ落ちた。

「もう疲れた。」

疲れすぎて泣いたのは初めてである。もう限界だった。


 さらに悪いことに家の近所の駅からの帰り道、向こうからやって来た自転車の若い男に、突然胸をわしづかみにされた。その瞬間、悲しみが怒りに変わり、噴き上がった。カバンを道にかなぐり捨て、夢中で

「待て!」

と走り去る自転車を追いかけ、狂ったように走った。あの男を引きずりおろして殴るつもりだった。しかし若者のこぐ自転車は恐ろしいスピードで走り去ってしまい、私は肩で荒い息をしながらなす術もなく立ち尽くす。のろのろともと来た道をたどる。カバンを拾い上げ、足を引きずるように家へ戻った。


 家に着いて鍵を開けると、予想通り部屋の中は真っ暗だった。日暮れが早くなっているんだから当然だ。部屋に彼がいないことは明らかだった。もう本当に限界だった。彼を待つのはもうイヤだ。それならいっそ、会わないで別れてしまいたい。

携帯からメールを送った。

「今日は私には気を使わず、友達との別れを思いっきり楽しんで。鍵はポストに入れておいてくれればいいから。明日は朝から仕事に行くけど、荷物は勝手に入って持って行ってね。気をつけて。」

私は精根尽き果てて、荷物を床にまき散らしたままベッドに倒れ込んだ。


 どれくらい眠っただろう。鍵の開く音で目が覚めた。時計は0時を回っている。ドアの開く音がして駿が部屋へ入って来た。

「ごめん遅くなった。なんか食べるものない?」

まるで学校帰りの小学生だ。仕方なく

「お帰り」

と起き上がると冷蔵庫を開ける。鶏の照り焼きなら何とかできそうだった。うれしそうにしている彼に怒る気にもなれず、私は料理を始めた。できあがった食事をすごい速さで平らげる。

「うまい!」

もう笑うしかなかった。


初めてここに泊まった日の彼は、雰囲気こそ上手に作るけれどSEXに関しては独りよがりだった。あまり経験がないのか、若いからなのか、それはわからなかった。ずいぶん後になって、彼はこんなことを言って私を驚かせた。

「俺、SEX嫌いだったんだ。女の子は好きだし、するんだけどでも全然好きじゃなかった。でも楓とするようになって、SEX好きになった。」

そういって私の首元に顔を埋めた。

確かに、駿はどんどん変わっていった。体を重ねるたびに繊細な感覚をつかみ取り、お互いに高まっていくのがわかった。感性や相性というのもあるかもしれない。そうやって私たちはていねいに紡ぎ合ってきた。


 そんな夜も本当にこれで最後。私たちは心を込めてお互いの体を慈しんだ。

2度目の交わりの後、駿は箪笥の上に載っている大きな猫の人形を下ろしてきた。この猫はロシア生まれのヤーコップという名前なのだが、駿はいつも「山本さん」と呼んでかわいがっていた。


「楓が食べすぎて腹を壊したりしないように山本さんに注意してもらわなきゃ。

部屋が汚れたら、山本さんが片づけてくれるかな。鏡にホコリがたまったら山本さんが拭いてくれるかも。俺が行った後のことは山本さんに託して・・・。」

その瞬間、私の目から涙があふれ出た。にんまり笑っている無邪気な猫の顔を見ているとはもうこらえきれず、とめどなく涙が流れる。私は駿の首に抱きつき、顔を見られないようにした。気持ちを抑えようとすればするほど激しくこみ上げてきて、ついに嗚咽がもれてしまった。

また泣くなと言われないよう、声を殺したつもりだったがもう隠しようがなかった。


 駿は意外にも私をやさしく、強く抱きしめた。そして何も言わずにいたが、不意に背中に温かいものがぽたりと触れるのを私は感じた。初めは一滴だった温かい雫は何滴も何滴も私の背中に落ちて流れる。その瞬間、私ははっとした。泣いてる?もしかして駿は泣いている?

駿は何度も息を吸って嗚咽をこらえていた。でもあとからあとから涙はこぼれ、私の背中を濡らした。駿も別れがつらかったのか・・・。初めて知った駿の本当の気持ち。そうだったんだ。

抱き合ったまま言葉のない時間が流れた。しばらくたって駿が背中越しにつぶやいた。

「俺・・絶対かっこよくなる。」


 その夜、二人で裸のままアイスクリームを食べた。裸のままきちんとイスに座り、行儀よくテーブルに向かって。

「知ってる?マドンナとガイ・リッチーって家で裸で暮らしてるらしいよ。」

駿は教えてくれた。

「マドンナとガイ・リッチーならいいけど、この姿、人から見たらただの変態だよ。」

私は笑った。


翌朝、私は仕事に出かけた。駿はアイスクリームを食べた後、気持ち良さそうにスヤスヤと眠っていたが、私はとうとう一睡もできなかった。膝を抱えて座り、壁にもたれて黙って彼の寝顔を眺めていた。


声をかけると、駿はあわてて起き上がり、玄関までついてくる。

「じゃあ、気をつけて行ってきてね。」

そう言って私は軽く彼の身体に腕を回した。彼も同じようにして静かに言った。

「また会いましょう。」


 胸の中に切り裂かれるような痛みが走る。私は最後に精一杯の演技をした。笑って手を振り、玄関のドアを開け、

「元気で!」

と声を張って出かけて行った。一度も振り返らずに。


仕事場まで、やみくもに自転車をこぎ、風を切って走った。

とうとう聞けなかったな、「待っていて」という言葉を。


秋の気配を体中で感じていた。

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