第6話 波動
翌日の目覚めは最高だった。昨日のサウナが効いたのか体が軽い。今日は午後から大学病院の見学が予定されていた。午前中はカフェでのんびりメールチェックでもしようと、朝早くホテルを出た。
大きな道の角にあるカフェに入る。店の中は人もまばらでとても静かだ。窓際の席に座り、ゆっくりコーヒーを飲む。通りを行きかう人の流れをぼんやり見ていた。
留学のために韓国へ来た時は、韓国語がまだ満足に話せなかった。カフェラテを頼もうとしたのに、店員がしてきた質問が分からず、適当に受け答えしていたら出てきたのはただのホットミルク・・なんてこともあったな。あの時は悲しくて涙が出そうになった。
あの頃の自分がこの窓の外から今の私を見たらどう思うだろう?あんなおばさんになっちゃうの、と嘆くか?それとも、あんな大人になれたのかと喜びを感じてくれるだろうか?
そんなことを考えていると、誰かが窓の前で立ち止まった。ふと我に返った次の瞬間、私は凍りついた。窓ガラスを隔ててこちらを見ているのは、駿だ。不意打ちを食らった私は、反応することができなかった。向こうも戸惑った表情でたたずんでいる。 笑顔で手でも振るべきなのか、立ち上がって外へ出て挨拶するべきなのか・・。
私が戸惑っている間に彼が歩き出した。そしてゆっくりとカフェの扉を開け、こちらへ向かって落ち着いた足取りで歩いてくる。反射的に私は席から腰を浮かした。
ゆっくりと私の前にたどり着いた駿は、やさしい目で言った。
「楓、久しぶり。」
穏やかな口調だった。私はわずかに微笑んで
「久しぶり。昨日姿は見たんだけど声かけそびれちゃって‥。」
と答えた。
「仕事で来たの?」
駿の態度には大人の落ち着きがあった。
「うん。駿も仕事?」
私の声は上ずっていたに違いない。なんといっても心の準備ができていなかったから。
「うん、仕事。」
しばらく間があって、駿がポケットから何かを取り出した。一枚の名刺だった。
「もし時間があったら連絡して。メールでもいいから。」
駿が差し出した名刺をおずおずと受け取る。私はあわてて席に置いたカバンの中から職場の名刺を取り出した。
「一応私のも。」
彼はすっと受け取って、名刺をちらっと見た。
「メールアドレス変わってないんだね。」
そういえば20年ほどメールアドレスを変えていない。
「うん。変えるといろんな人に連絡しなきゃいけないから面倒で・・。」
私は少し笑って答えた。
「俺、今から仕事だから行かなきゃいけないけど、もし時間があれば会いたいな。」
駿はやさしい笑顔で言った。
「うん、時間があれば連絡する。仕事がんばって。」
私は軽く手を振った。
「お互いにね。」
駿は笑顔で頷き、出口に向かってゆっくりと歩いていった。
駿の背中を見送ったあと、しばらくの間何もせずにぼんやりと前を見つめていた。そして改めて認識した。
私がメールアドレスを変えなかったのは、彼からメールが来るのを待っていたからだ‥。
突然訪れた再会について思いを巡らせながら、何をする気にもなれず、ゆっくりとマグカップを口に運んだ。
彼とここで再び出会ったことには、なにか意味があるのではないだろうか。長い間心に潜んで離れなかったものをついに洗い流す時がきたのかもしれない。
私は携帯をカバンにしまうと静かに立ち上がった。
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