第4話 水のある風景
「さぁ、登るぞ!」
駿が声を弾ませた。長い峠越えの始まりだ。
「ちょっと待って!」
私は一旦横向きに座っていた自転車の荷台から飛び降り、荷台をまたぐ形に座り直した。平地では横向きに座って足を揃えていても平気だけれど、急な坂道で駿に立ちこぎをされるとバランスを崩して転げ落ちるかも。女子としてはあまり美しくない姿だが仕方がない。私は駿の腰ではなく、サドルにしっかりとつかまった。
「よしっ!いいよ。」
私の掛け声と共に、駿が力一杯ペダルを踏む。ぐらぐらっと激しく揺れながら自転車は急な坂を登り始めた。この峠を自転車で越える、しかも二人乗りでと駿が言い出した時は、そりゃ無理だよと思った。
駿は普段からとんでもない距離を自転車で移動したりランニングしたりする。足には自信があると言うが、この坂道は県境の山である。ただの坂道じゃないんだから。
しかし、彼は停まることなくぐいぐいと自転車をこぎ続けている。ありったけの力でこいでいるのは後ろ姿でわかるが、バテる気配は全く感じられない。ひたすら頂上を目指して前進していく。すぐそばの道路では車がアクセルを強く踏んで坂を上って行き、道路を挟んだ線路には今は珍しい路面電車が独特の音を響かせて走っている。
この電車には子どもの頃何度も乗った。ここは私の生まれた町。幼児期や小学校の低学年時代を過ごした場所だった。ここを離れてからはほとんど通ったことがないこの道。まさかここを自転車の二人乗りで走るとは。
しかもこの自転車はロード用でも何でもない。お母さんが買い物に行く時に乗っている、いわゆるママチャリである。後ろに乗っていても硬い荷台にお尻がバウンドして痛いのなんのって…。
そうこうするうちに、自転車は登り坂の最後にさしかかった。スピードは全く落ちていない。駿が前を見たまま大声で言った。
「坂道ってさ、この登りきった瞬間がたまらなくいい気持ちなんだよね。」
声は弾んでいる。私は信じられない思いで彼の後ろ姿を見つめていた。こんなやつがいるんだ…。
「見えた~!」
駿が叫ぶ。眼下には湖が広がっている。二人で歓声を上げながら、今度は坂を勢いよく下っていった。
「最高っ。」
駿が笑った。私は立ちこぎをやめてサドルに腰を下ろした駿の背中を叩いて、素晴らしい脚力をたたえた。腰に手を回して後ろから軽く抱きしめる。額を背中につけると汗のにおいがした。駿も片手を離して私の手を軽く握る。
湖に着くと自転車を降り、二人で岸辺を歩いた。夕刻が迫った湖では、ライトアップされた噴水が吹き上がっている。豪華客船風の周遊船がのんびりと湖上に浮かんでいた。お互い貧乏だった私たちは、手をつないで岸辺からその船を眺めることしかできない。
駿はカメラを取り出すと、イルミネーションにきらめく水面やそのそばに立つ私をゆっくりと撮り始めた。
景色を眺め、歩き回り、気に入ったアングルを探す。何度もカメラを構え直し、時間をかけて撮り続ける。近寄りがたい雰囲気はないのだが、自分の世界に没頭しているのが感じとれた。私はなにも言わず、噴水を見たり石に腰かけたりして彼の仕事を見守った。
駿は私から見ると、まだ少年に近い。いたずらっ子のような無邪気な印象だった。時々ふと大人の表情や態度を見せることはあるが、体つきなどもまだ少年のようである。
どれくらいの時間がたったのだろう。私は彼の気がすむまでなにも言わずそっと座っていた。
満足そうな微笑みで戻ってきた駿は、突然軽く私にキスをすると、
「帰ろっか。」
と言った。私はうなずいて彼の手をとり、自転車の方へ歩き始めた。
帰りも同じ峠を越えて帰ったが、途中で駿は車道へ出た。こっちの方が走りやすいしスピード出せるからね、と。オバサン自転車が車に負けない猛スピードで自動車道路を下る。まるでバイクの後ろに乗っているようなスリルに
「怖えーっ!」
と叫びながら私は声をあげて笑った。気持ちいい、本当に心から気持ちがいい、叫びだしたくなるくらい。
私は、何年かぶりに心の底から笑った。すごい勢いでぶつかってくる風に髪をなびかせながら、心が浄化されていくのを感じていた。
それからというもの、デートと言えばママチャリの二人乗りが定番になった。どこへでも自転車で行く。何十キロあろうが自転車で。
二人で行く場所にはなぜかいつも水があった。湖、大河川、小川…。あらゆる水の風景に 出会った。自転車ごと渡船に乗ったこともある。水の都にかかる螺旋状の橋にも登った。
気に入った場所があると、駿は写真を撮り始める。時々私にカメラを向けてくるが、カメラを見ていいものか目をそらした方がいいものかよくわからなかった。あえて尋ねもしなかったが駿も何も指示しない。私のどんな表情を狙っているんだろう?彼の写真の中の私はどんな雰囲気なのだろう?全く見当がつかなかった。
それは、つかみどころのない駿そのものだ。なぜ私といるのか、なぜ6つも年上の私を選んだのか、遊びなのか真剣なのか、私は彼の本心をはかりかねていた。
初めて二人で飲みに出かけた日、お互い興味を持つものが似ていたのもあって話はつきなかった。感性や心の揺れるものがとてもよく似ていたのである。店さえ閉まらなければ、朝まで話し続けたかもしれない。店を出て二人で歩き始めた時、
「楽しかったね。」
と私は心から言った。すると彼は唐突に私の腰に手を回し、自分の方にひきよせながら言った。
「神様に感謝しなきゃ」
そのまま街を歩き、川べりを散歩して、私の部屋へ来た。翌朝、Tシャツを着ながら駿は言った。
「なんとなくこうなる気がしてた。」
と。
こうなったのは自然の流れだ。なんの無理も計算もなかった。夏が終われば確実に「別れ」が待っている。わかってはいるけれど、私はそこから目をそらした。彼がどういうつもりなのかは知らない。もしかすると彼にとって私は、フランスへ行くまでの数ヵ月を楽しく過ごすための遊び相手なのかもしれない。
それでも良かった。この短い間なら、本当の自分を見せなくてすむ。数ヶ月ならば、こうなりたいと願う自分を演じ切ることができる。私のいいイメージだけ焼きつけて彼を送り出すことができる。だからこのまま何も詮索せずに楽しい思い出を紡いでいこう…。
彼がひと夏かけて撮った写真のタイトルは「風」だった。写真の中の私は、どれも優しい顔で笑っている。水辺で風の声を聞いているかのように、透明な笑顔で。
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