第3話 温かな雫石

 彼との出会いは、はるか16年前にさかのぼる。その頃、私は20代の終わりに差し掛かっいた。離婚したばかりで正式な職もなく、バイトを掛け持ちしながら、生きることに必死だった。若くして結婚し、専業主婦をしながら羽を伸ばしていたことが悔やまれる。女が一人で、しかも30歳を目前にして生きていくのは案外楽ではなかった。孤独や疲れで荒みかけていた心に、突然ふわっとあかりを灯したのが彼だった。


 当時受付業務をしていたアルバイト先の整形外科に、彼が患者として現れたのは春先のことだ。交通事故にあったことで腰を痛め、治療に通うようになったのである。カルテには「金谷 駿」とあった。まだ大学を出たばかりのどこにでもいる若者といった印象だった。

派手ではないが、センスの良い着こなしをしている。持っている洋服の数は少ないが、少し高くても自分の好きな服だけを買って長い間大切に着続けるタイプのようだった。



 ある日、私が窓口に座っていると、低周波治療を終えた彼がヒョイと顔を覗かせた。

「診察の順番まだですか?」

と人懐っこい笑顔で尋ねる。

「あ、ちょと待ってね」

と私はカルテの順番を確認するため席を立った。

「次の次の次だよ。」

と知らせると彼はにっこり笑ってうなずいた。これが彼と初めて交わした会話だった。


 交通事故の治療の場合、毎日病院に通う人が多く、彼も例外ではなかった。私も生活のために毎日勤務していたので自然に毎日顔を合わせることになる。短時間ではあるが、毎日挨拶の他に二言三言会話を交わすようになった。少しずつ、彼の笑顔を見ることが私のひそかな楽しみになっていた。


 そんなある日、ふとした拍子に、今何の仕事をしているのかと尋ねたことがある。彼は、派遣社員として工場でアルバイトをしていると答えた。そしてもうすぐフランスへ留学するのだと語った。

「フランス?語学目的で?」

私は少し驚いて聞き返した。以前に留学する若者のための予備校で働いていたのだが、生徒の多くは軽い気持ちで語学習得を目指す若者たちだった。留学先もアメリカやオーストラリアが圧倒的に多かった。そんな中でフランスというのは珍しい。ある程度本気でやりたいことでもないと選択しない場所である。


「写真の勉強をしたいんです。写真家になるのが夢で。」

と彼は言った。アメリカは文化の蓄積がないからいやなのだ、だからヨーロッパを選んだ、と急に知性的なまなざしになって語った。

「そうなんだ。」

 ただの今どきの若者だと思っていた私は少し彼を見直した。大それた計画を持っている割には淡々としている。見かけはヒョロヒョロだが意外と大物なのかもしれない。急に彼に興味がわいたところで彼が言った。

「今度飲みに行きません?」

内心少し驚いた。年下の男の子の他愛もない誘いである。それなのに微かなときめきが心をよぎった。

しかしそこは年上女の意地である。いかにも気さくなお姉さんといった風に

「いいよ。」

と承諾した。


今になって思えば・・・。あの時私は彼の持つ独特の雰囲気と世界に、すでに心惹かれ始めていたのかもしれない。そして、涙も出ないほど渇れ果てていた自分の心に、暖かな雫石がポツリと落ちるのを感じていた。雫はじんわりと乾いた地面にしみこみ、その下で何かが芽生えようとしていた。長い長い時間眠っていた何かが。


 季節は春の終わりを迎えていた。そして私にとって忘れることのできない夏が訪れようとしていた。

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