第2話 再会
「はぁ~っ。」
周囲の人が振り返るくらいの大きなため息が漏れる。伸びをして椅子の背にもたれかかった。後ろの席のユンが笑いながら声をかけてくる。
「疲れたの?」
私は後ろに向き直った。
「昨日がんばって予習したけど、外国語で専門分野の資料を読むのはもう大変で。」
私はソウルでユンが、特別に席を確保してくれた研修会に参加していた。最先端の治療をやっている精神科専門病院へ見学に出向いたり、今日のように研究論文発表形式のシンポジュームがあったりと5日間の中にいろんな企画が凝縮されている。国際学会ではないから、もちろん通訳はいない。外国人らしき人の姿はちらほら見かけるが、ほとんどが演者として招かれたゲストのようだ。
ユンとは数年前にたまたまソウルの書店で知り合った。
一緒に旅行をしていた友人と日本語で話しながら、私が職業としている精神科領域の本をパラパラめくっていた。ふと気づくと隣で同じ分野の本を読んでいる女性がいる。
この人も同じような仕事をしてる人なのかと思い、興味を抱いて様子を伺っていたところ、彼女が突然本から目を上げて私の方を見た。
急に目が合って気まずくなった私があわてて目をそらすと、彼女も視線を本の上に戻した。
しばらくの間、並んだ状態で立ち読みを続けていたが、私の友人が不満気に
「飽きてきちゃったからご飯食べに行かない?この文字見ててもさっぱり読めないから、図を見るしかないんだもん。」
と言い出し、私は仕方なく本を棚に戻した。
その時、彼女が
「日本の方ですか?」
と日本語で声をかけてきたのである。それがユンだった。
後で聞いたところによると、ユンは初め私が日本人だとは思わなかったらしい。
精神科関連の本をみているから、同業者かなとは考えていたようだが、ハングルで書かれた本を普通に読んでいるのでまさか外国人だとは思ってもみなかったようだ。
ユンはその頃、ちょうど日本語を勉強し始めていた。書店を出て韓国語と日本語で立ち話をしたあと、名刺を交換してその日は別れた。日本へ戻ってからメールを通じてやり取りをするようになり、少しずつ親交を深めてきたのである。
彼女は大学病院の精神科で働くカウンセラーだった。同じ精神科で仕事をしている私が日本でどんな仕事をしているのか、日本の精神科病院はどんな感じなのかを知りたがっていた。
一度彼女が日本へやってきた時は、私が勤めている病院の中を案内し、私が上司に掛け合って院内を見学させてもらった。
今回はそのお礼にとユンが私を自分が勤めている病院が主催するシンポジウムに招待してくれたのである。
休憩時間になり、ユンと気分転換をするためにロビーへ出てみた。
「コーヒーでも飲んで休憩しない?」
とユンが誘い、2人はロビーにあるカフェに席を移した。コーヒーを飲みながら何気ない世間話に興じていると、すぐ近くのテーブルに10人ほどのグループがやってきた。
会話の中にフランス語や英語が飛び交っているところを見るとヨーロッパから来た人々のようである。中に数名アジア系の人が混じっており、その中の一人は韓国人の通訳のようだった。このビルではたびたび国際会議やシンポジュームが開かれているらしいので、こんな光景も珍しくないのだろう。
コーヒーのカップを手に、二つほど離れた丸いテーブルを囲んで盛んに話している外国人たちをぼんやりと眺めていた。その時・・・。
突然ズンと何かが胸を突き抜けた。衝撃が先にやってきて、あとから自分が目にしたものを認識したようだ。私の目はグループの中のあ る一人の男性をとらえていた。細身の身体に黒のジャケット。身にまとった少し芸術家的な雰囲気。
しばらく見つめていると、相手の視線が何気なくこちらに流れてきて私の顔に止まる。視線がぶつかり合って音のない時間が数秒流れた。
動揺した私は思わず視線をそらし、手にしていたコーヒに視線を落とした。
急に表情を変えた私を見て、ユンは一瞬不思議そうな顔をしたが、特に何も訪ねることはなく、再び会話の続きを始めた。
相手をもう一度見る勇気はなかった。彼がその後どのような表情をし、どう動こうとしたかそれはわからない。突然の衝撃に思考が停止してしまい、ユンの話は全く頭に入ってこなかった。おそらく適当な相づちに終始していたと思う。
ユンが少し怪訝そうな表情で
「どうかしたの?」
と尋ねてきた。
私はハッと我に返り
「ううん。知ってる人に似た人がいてちょっとびっくりしたの。人違いだったわ。」
と答えた。
「借金取りにでも遭遇したのかと思った。」
とユンが笑う。
そして時計をちらりと確認し、あわてて飲んでいたコーヒーの紙カップを握りつぶした。
「始まるから戻ろう。」
と私を促す。私はうなずいて彼女に従った。背中に私の動きを追う視線を感じながら。
それから後のシンポジュームの内容は全く覚えていない。心のざわつきがおさまらず、流れてくる言葉は何一つ耳に入らなかった。
あれは間違いなく彼だ。なぜここに彼がいるのか、それはわからなかった。フランス語が堪能な彼なら、ビジネスの会議などでこういう場所に出入りしていても不思議はないが。
私はぼんやりとパワーポイントの画面を眺めながら思い出していた。シャルル・ドゴール空港の出発ゲートで振り返った時に最後に見た彼の表情を。何かをあきらめたような、寂しげな、でもそれでいて揺らぐことのない決意を秘めたあの表情、何度思い出しても胸を切り裂かれるような彼のまなざしを。
あの頃、彼はいつもカメラのファインダー越しに私を見つめていた。私は彼をカメラのレンズ越しに見つめていた。
今日ここで、10年あまりたったこの場所で、彼と再会したことには何か意味があるのだろうか。静まらない鼓動を感じながら私はただぼんやりと座っていることしかできなかった。
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