3
「待て」
日紅はそれが最初、空耳だと思った。
「ヒベニ、待て」
「痛!」
思わず日紅は呻いた。左耳をいきなり何かで挟まれたと思った直後、薄皮を剥がされたような痛みが走った。
足元がふらついて日紅はそのままその場に座り込んだ。
「止まれと言うに聞かぬお主が悪い」
後ろから声がして、蹲った日紅の目の前に草履をはいた足と黒い着物の裾(すそ)が見えた。
「しかしお主予想以上に旨いな。もう少し齧っても死なぬな?」
「え何いたいいたいいたい離して!」
がしっと日紅は目や鼻のあたりを押さえつけられて再び耳を固いもので挟まれた。そして強く耳を引っ張られた。いや引っ張られるなんて生易しいものではなく、引きちぎろうとされたと言うほうが正しい。
日紅はあまりの痛みに訳も分からず目の前のものを両手で突き飛ばした。離れるときに、ぬるりとしたものが耳を掠めた。
日紅は耳を手のひらで覆いながらきっと顔をあげた。そして言葉を失った。
目の前にいたのは、闇よりも深い色の着物を着た、目を疑うほどの美人だった。
左右対称の顔もさることながら、その無駄のない引き締まった体つきも芸術品のように美しい。動作の一つ一つが軌跡を描いているかのように秀美で端麗だ。
男形であることがまた壮絶な色香を漂わせている。
「なんだ。二つもあるのに一つぐらい寄越(よこ)してもいいだろうが」
目の前のものはぺろりと唇についた赤いものを舐めた。
あれは日紅の血だ。日紅の耳を食べて旨いだ何だのと言っているということは、間違いなく妖(あやかし)でしかも人食いの類いだ。ヒトに対して魅力的な外見はヒトを捕食しやすくするためのものだ。日紅は今になって夜中に外に出てきたことを後悔した。逃げなければ!
日紅は踵(きびす)を返した。しかし即座に腕を取られる。
「待てと言うに。あやつに会いに行くのではないのか?」
「…あやつ?」
思ったより真剣な声に、日紅は耳を両手で覆ったままそのものと向き合った。
「む。お主、体がどこか悪いのか」
「そんなこといいから。あやつって?」
日紅は相手の瞳を覗き込んだ。底が見えない暗い瞳。けれども今は怖いと思わなかった。その答えのほうが気になった。
「自らの名を持たぬものだ」
『彼』だ!
日紅は思わず叫びそうになった。
「ねぇ巫哉(みこや)はどこにいるの!?いまなにをしてるの!?なんで戻ってこないの?あたしのことが嫌いになっちゃったの?それとも怪我してるの?それで戻ってこれないとか?ねぇどうなってるの!?巫哉は無事なの?」
日紅は妖の襟元をつかんでぎゅっと握りしめた。その手は震えていた。
「ヒベニ、お主はあやつを選ばなかったのだろう」
「…なに、選ぶって」
「お前が選んだのは人間の小僧だろう。ならば戻るがいい。ヒトはヒトの中で生きるのが幸せだ」
日紅はカッとした。
どうしてみんな、選ぶの、選ばないのと言うのだろう。日紅は、ただ、ただ3人で一緒にいたいだけなのに!
誰かを選んだら誰かを選べないなんて、そんなことあるはずがない!
「巫哉には会う。それはあなたには関係ない!」
日紅は掴まれていた腕を強引に振り払った。
「ヒトはヒトの中で生きるのが幸せ?そんなの、誰が決めたのよ!あたしは、巫哉にあえて幸せだった。それは巫哉が妖だったからじゃない。巫哉が、巫哉だったからよ!妖だヒトだなんて、そんなので差別するなんて違う!あたしは、犀が人間じゃなくても好きだし、巫哉が人間でも好きよ!そんなことで、あたしの幸せを勝手に決めないで!」
日紅は溢れる涙を拭いもせずに叫んだ。
「お主の心には自由がある」
妖は、そんな日紅を嘲(あざけ)るでもなくそういった。
「だから、あやつを見つけることができたのかも知れぬな。だが、ヒベニ。生まれ持ったものは、抗えぬのだ。いくら嫌がろうとも、変えられぬものもある。そのことをわたしは言っているのだ。お主は純粋で美しい。それを失うのは惜しい。あやつのことは忘れるのだ。ヒトの理で生きろ」
「…あなたは、なぜ、そんなことをあたしに言うの?わざわざ…」
「ふん…。悠久の古より知る者のために、一つぐらい何かしてやるのも良いと思っただけだ」
「あなたは、巫哉のことがすきなのね」
「すき、か。人間の感情は分からん。だが、直(すぐ)な瞳を持つヒトよ。お主のことも失うには惜しいと思う」
「…巫哉のためじゃないの?あたしが巫哉に会いたいと思うのは巫哉のためにならないの?あなたが止めるってことは、そういうことなの?」
「そうだ」
「なぜ」
「わたしから言うことはできない。ただ、あやつの考えていることはわかる。会えばお主は必ず後悔する。あやつも同様だ」
「…………」
日紅はじっと黙った。日紅が『彼』に会うことは、果たしてお互いが後悔するようなことなのだろうか。しかしこの妖が悪意でこんなことを言っているとは考えられなかった。
日紅は迷った。後悔する事とはなんだろう。悪いことなのか、だとしたらそれは何なのか。
どうしたらいいのだろう。日紅は、一体どうすれば。
わからなくなって日紅は立ち尽くす。
『日紅』
はっ、とした。じわりと胸の奥が熱くなる。
呼んでいる。『彼』が。
そうだ。日紅を待っている。暗闇の中、たったひとりで。
「…行かなきゃ」
「これだけ言っても分からんか」
妖がやれやれとでも言うように、日紅に向かって手を伸ばした。
「あ!?う…」
日紅の喉に、一瞬で妖の陶器のような指が巻きつく。
「…は、…ぁ…」
ぎりりと締められて日紅は声も出せない。
「帰れ。何度も言うが、お主らのためだ。それとも足の一本でも千切れば大人しく諦めるか?」
言葉の通りに、日紅の喉を絞めていない方の腕で日紅の右腿をつかむ。じわりと強い力がかかり、多分指先が肉に食い込んでいるのだろうが、日紅は息がつまってそれすら認識できないほど朦朧としていた。
その脳裏では蹲る『彼』がぶれて瞬いていた。
…巫哉。
一瞬、日紅の意識は飛んだ。
気がつけば、日紅はぐらぐらと揺れる頭で、変わらず暗い道端にいた。
右肩がやけに熱く、なにか暖かい水で濡れているような気もする。
ず…ずる…と日紅の耳の近くで音がする。
その水を触った手を見て、日紅は焦点の合わない目のまま、口を開いた。
「ねぇ」
「…なんだ」
耳の横で囁くような声がする。
「なまえ、なんていうの」
「名?わたしのか?」
笑ったような気配がして、日紅の体がぐらりと揺れた。下腹部に固い腕を感じて、日紅は自分が妖に抱えられているとぼんやりと思った。
「聞いてどうする」
「聞きたい。ただ」
「ウロ」
またふっと一瞬日紅の意識が飛ぶ。
「あやつはそう呼んでいた」
すぐに焼けるように熱い首元と、ずるりという水音が意識を呼び戻す。
日紅は唇だけで笑みを作った。
虚(ウロ)。ひねくれている『彼』が言いそうな名だ。
「ウロ。あたしは帰らない」
水音が止まる。
「あたしを食べてもいい。でも帰らない。だって巫哉があたしを待ってるから。心配してくれてありがとう。あたしには妖の理はわからないから、あなたが何を心配しているかはわからない。でも、巫哉があたしを待っているのなら、あたしは行かなきゃならない」
「…ヒベニ。その、まっすぐな純粋さこそが、お主が大切に思うものを失うことになると、心得ておけ」
すっと日紅を抱える腕がなくなった。
そのままへたりと日紅は座り込んだ。
「行け。お主の為でなく、あやつのために。愚かなヒトよ」
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