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肩から流れ出る血は止まったようだった。腕を伝う滴がない。
ずいぶん深く齧られたようだったのに、もしかしたらウロが何かしてくれたのかもしれない。
日紅(ひべに)はじんと痺れる頭で考えた。
齧ってみたり、その直後に治してみたり、本当に妖(あやかし)は気まぐれなものだ。
日紅を放したっきり、ウロの声がしなくなった。言いたいことを言って、満足していなくなったのかもしれない。それを確認するために首を巡らすことさえ億劫(おっくう)だと思う自分を日紅は自覚していた。
このままここで眠れたら、どんなに楽だろう。
でも『彼』に会えるまでは。
ぐっと日紅は膝に力を入れた。鉛の塊を引きずるように重かった。
どれくらいの時間をかけたのか、ようよう立ち上がって、一歩踏み出そうとして、日紅は前のめりに倒れた。
だめだ。動けない。今日紅は一体どこにいるのだろう。家に戻ろうにも戻れない。そもそも『彼』はどこにいるのかさえわかっていないのに。
自分の無力さにじわりと目尻が熱くなったが、日紅は必死にこらえた。
今泣きたくない。いま、こんなことで泣きたくない。だってまだ日紅は何もできていない。巫哉を探し当てることも、なにも。
「そのようになってまで行く必要があるのか」
ふいに声がした。ウロだ。もういなくなったと思っていた日紅は驚いた。では、日紅が無様に地面に這い蹲(つくば)る一部始終を見ていたのか。けれどそれに対して恥ずかしいだとか思う気持ちももはや薄れていた。日紅が思うのはひとつだけ。
ただ、巫哉のそばにいきたい。
「ヒトは面倒だ」
日紅はふわりと体が浮いた気がした。重力や、自分の体重といった日紅を地面に押しつけていたものがすべてなくなったかのような不思議な感覚だった。ウロの声は、すぐそばで聞こえた。
「喰うのは容易(たやす)いが、生かすのは面倒だ。ほんの少し、力を籠めただけで死ぬ。ヒベニ、永久(とわ)の命が欲しくはないか。そうすれば、あいつとも共にいることができる」
どうしてウロがそんなことを聞くのだろうと思いながら、日紅は迷わず首を振った。
「いらない。あたしは、すぐに傷ついて血を流すヒトでいい。あたしはあたしのまま、巫哉は巫哉のままでも一緒にいれるよ、ウロ」
「ふん」
ウロは鼻で嗤(わら)った。
日紅だって『彼』より短い命に狼狽(うろた)えないわけじゃない。
でも、ずっと一緒にいたいというのは多分、日紅のわがままなのだ。あの天邪鬼(あまのじゃく)な態度でも、『彼』に好かれているのは分かっている。少なくとも嫌われてはいないだろう。だけど、永くを生きる『彼』を日紅の生に縛り付けることはできないと思う。
日紅が命を終えた時、『彼』は確かに悲しんでくれるだろう。けれど、悠久を一緒に生きたいと思うには日紅はまだまだ役不足だ。『彼』の世界は日紅の知らない事も多くて、きっと日紅よりも大事に思う人が沢山いる筈だ。それをちょっと寂しいとも思うけれど、嬉しい気持ちの方が大きい。
『彼』の世界が日紅中心で回っているなんて自惚れたこと、考えるわけがない。
「ヒトはいつの世もかく愚かだ」
ウロが呟いたその言葉には、なぜか悲しみが混ざっている気が、した。
ああ、ウロは…。
日紅の体に重力がゆっくりと戻ってきた。頬に暖かい風を感じた。
ウロの気配が遠ざかる。今度こそ、去っていく。
「あなたは虚(ウロ)なんかじゃないよ」
だって、こんなにも優しいんだから…。
日紅は囁くようにそう言った。
暫(しばら)く静寂が下りた。りりり、と鈴を転がすような微かな虫の音を日紅の耳は拾った。
ゆっくりと目を開けて、その時初めて、日紅は長い間目を閉じていたことに気がついた。
手の下にじゃりっとした砂が刺さった。辺りを見渡すと、錆びれた遊具、滑り台…公園だ。どうやら日紅の家の近くにある公園に日紅はいるようだった。小さいころからよく遊びに来ていたところだ。
いつのまにか、こんなところまで来ていたのだろうか。ウロと話していた時、日紅は確かにアスファルトで舗装された道にいたと思っていたのに。
なんとなく、きょろきょろとあたりを見回して、日紅は息をのんだ。
日紅から十足余りも離れた先に、『彼』が、いた。
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