犀(せい)は、本当のところ、日紅(ひべに)がどう出るか全く想像がつかなかった。




 考えることは一つだけ。家に帰り母が自分を呼ぶ声にも気づかず、傍目には怒っているとも思われそうなしかめっ面で自分のベッドにどさりと倒れ込んだ。




 そもそも、こんな急に気持ちを伝える予定ではなかったのだ。




 犀は、日紅が考えていることはすべてわかっているつもりでいた。日紅がわかりやすいと言うことを差し引いても、伊達にずっと一緒にいるわけでもないし、ずっと見ていたわけでもない。




 実は知り合う前から犀は日紅が好きだった。大勢の友達に囲まれて話をしていても、日紅が近くにいれば常に意識せずにいられなかった。話しかける切っ掛けになればとやけに大きな声でバカ笑いしてみたりもした。知り合うまでの一年間、犀はそんなささやかな主張をしていたのだが当然ながら日紅には全く伝わらなかった。




 隣の席になってから、やっとおはようが言えるようになった。小学校5年生の春のことだ。そこからじりじりと距離を詰め、周りからも仲良くなってきたねと言われるようになったある日、犀は知ることになる。日紅の秘密を。




 その瞬間を、犀は一生忘れることはないだろう。




 日紅に真夜中に呼び出され、犀の気持ちは弾んでいた。親の目を盗んで家を出て、電灯の疎(まば)らな夜の道を走るのも十一歳の犀には冒険のようでその鼓動と足を速くさせた。




 家の屋根にも隠れないのっぽさまが見えてくる。日紅の家に夜行くのは初めてだ。月明かりが紅潮した頬を照らす。はやく、はやくー…。青暗い闇夜の中、日紅の家だけが明るく光って見える気がした。




「せーくん!ここ、ここ!!」




 のっぽ様の前で歩調を緩めた時、控え目な声がした。きょろきょろと見回すとのっぽさまの陰に日紅がいた。学校には決して着てこない日紅のやわらかいタオル地のワンピースを見て犀はとっさに目を背けた。ね、寝巻だ…。




「よかったぁ来てくれて。あのね、あのね、うわーなにからはなそうっ?えへへ」




「その俺にだけ話したいことって、なに?」




 緊張を隠そうとついぶっきらぼうな口調になってしまう。それでも、犀にだけ、という言葉に心が震えた。自然と口元がゆるむ。




「みーこーやー」




「?日紅」




「あれ?巫哉ーみこやーみこやーみこやー」




「どうしたの?日紅?」




 きょろきょろとあたりを見回しながらミコヤとしきりに言う日紅に犀は首をかしげた。




「巫哉!いじわるしないで。出てきて。お願い」




 日紅が言い終わるとすっと日紅の後ろに影が差した。それは人だとは思うが陰になって姿は見えない。犀は知らず息を呑んだ。怖い。




 足が逃げを打つ。だめだ。日紅がいる。あんなに近くに。危ない、日紅を残してはいけない!犀の中で恐怖よりも日紅を想う心が勝った。




 震える足を叱咤してずかずかと日紅に近づくと驚く日紅の腕を掴んで自分の後ろに回した。もしかしたらそれは、全く意味のないことなのかもしれない。目の前に対峙するものは、全く得体が知れなくただ本能が怖い逃げろと告げてくるようなもの。犀がひとり日紅の盾になったぐらいではどうにもならない存在なのかもしれない。でもー…。犀は瞳を閉じて歯を食いしばった。どうか、神様。俺はいいから日紅を助けてくれ。お願いだ俺はどうなってもいいから!




「せーくん?どうしたの?」




 場違いなのんびりした声が響く。日紅はこのとてつもないものに気づいていないのだろうか?だったら尚更犀が守ってやらなければ。




 犀は覚悟を決めて相手をねめつけた。そして、驚きに声を失う。




 風が吹いた。ざわざわと大木が枝を騒がせる。雲が晴れ、月光が一部の隙もないその男の顔を照らした。




 犀より幾分か高い背、陶器のような肌、漆黒の髪、つりあがった眦(まなじり)。その瞳も漆黒だ。燃えるような苛烈な視線で犀を射抜いている。




 月夜見命(ツクヨミノミコト)。犀は確信した。こいつは夜の神だ。




 きっと、日紅を連れに来たんだ。




「巫哉!」




 日紅が嬉しそうに言った。なんと、男に向かっていこうとするではないか!




「日紅!だめだ!」




 犀は自分を通り過ぎようとした日紅を後ろから抱きしめた。必死だった。日紅が連れて行かれてしまう。犀の頭にあるのはそれだけだった。




「いっちゃだめだ!」




「日紅」




 『彼』がはじめて口を開いた。犀はぞわっと鳥肌が立った。と思ったら腕の中から日紅が消えていた。目の前に『彼』がいた。一瞬のうちにこんなに近くまで来れるなんてやっぱりこいつは月夜見命だ!




「やめろ、日紅を離せえ!」




 犀が必死でその足に蹴りを入れたり殴ったりしていたら上からため息が聞こえた。と同時に腕を掴まれてほおリ投げられた。あ、と思った時には地面に落ちていた。強かに手の平と腹をぶつけて涙が滲んだ。




「せーくん!巫哉!やめてなんでこんなことするの!せーくん!」




 『彼』に抱えあげられた日紅はその腕から逃れようともがいた。犀に手を伸ばす日紅に『彼』はしれっと言った。




「先に手ェだしてきたのはあのクソ餓鬼だ」




「だからって巫哉のほうが背も高いし力も強いし年上だしなんでいつもそんなにおとなげないの!巫哉のばかぁ!せっかくあたしが巫哉は一緒に遊んでくれる友達もいないし紹介してあげようって思って連れてきたのに!ふたりとも仲良くしてほしかったのに!ばか、もう、きらいっきらいきらいきらい離せばかーーーーっ」




 日紅は『彼』を抓ったり引っ張ったり暴れながらえぐえぐと泣きだした。それでも『彼』は手を離さなかった。




 そうして、犀の腫れた手首と青痣になった腹とともに、最悪な初対面は過ぎたのである。

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