『彼』とおまえとおれと
1
「巫哉(みこや)。あたし、犀(せい)が好きかもしれない」
ピンク色のかわいらしいベットの上に日紅(ひべに)はクッションを抱えて両足を折り曲げて座っていた。
今日、帰ってきてから、日紅はまた窓を開けなかった。
『彼』は窓の外でやきもきしていた。『彼』は時の流れに縛られない。形あるものにも、この世の条理にも縛られない。こんな窓など越えて日紅の前に姿を現すのは簡単だし、日紅が学校にいる時のように日紅に悟られないよう寄り添うこともできる。
でも、『彼』はそのどれもしなかった。日紅の様子を透視(すかしみ)することもせずただ窓の外で日紅を待った。なぜか、『彼』にとって日紅が自らの意思でこの窓を開けてくれなければ、そうしなければいけないような気がしたのだ。
そして、望み通り窓は開いた。夜半のことだ。
部屋の電気は消されていた。これも、いつものことだ。『彼』と日紅と犀が三人で密会するときは夜半。電気がついていると両親や姉に怪しまれるからだ。だから、いつもは小さいスタンドライトをつけていた。
今日、そのスタンドライトはついていなかった。
「なんだよ、こんな夜遅くに起こすなよ」
いつもどおり軽口をたたきながら『彼』は窓枠に手をかけて部屋に入った。
部屋が真っ暗なのは『彼』にはどうでもいいことだ。夜目が効くとかいう問題ではなく、『彼』には見ようとすればそこにあるものがなんでも見えたから。
「巫哉」
そう言われて日紅を見た。
『彼』は、その瞬間、その身が凍ったように感じた。
日紅の目。
なにかー…なにか、違う?
日紅の瞳は静かだった。日紅の口が開く。『彼』は確かに恐怖を感じた。やめろ、言うな!それは直感だった。
クッションを抱えたまま日紅はぽつりと言った。
「巫哉、あたし犀が好きかもしれない」
「………………………………………」
『彼』は日紅の言葉を胸の内で反芻(はんすう)した。
日紅が、犀を、好き。
それは別に普通のことだろう。好きでなければ夜半にわざわざ自らの家に招いて人外のものと一緒に遊ぶなんて酔狂な真似をするはずがない。
けれど、日紅が言った「すき」には違う意味があるのだろう。でなければ、今更「かも」なんて曖昧な言葉は使うまい。
「そうか」
『彼』は早口でそう言った。自分が今どのような顔をしているのか想像するのを恐ろしいと思った。
その表情と考えていることが、必ずしも連動するわけではない。『彼』は表情を表に出す必要がない。本来、ヒトがそうするのは周りに自分とは違う他人がいることが前提であり、それはコミュニケーションのツールに他ならない。ただ、『彼』は違う。もともと、他の生き物との交流を図らなくてもいい身であった『彼』はまず、自らにヒトの言う心に近いものがあったのも驚きであった。
日紅と出逢って、ヒトと限りなく近く振舞うようになった。
日紅に異形の者として怖がられるのではないかという恐れから。
それに、慣れすぎたのか。
自らの面の皮一枚思うがままにならぬとは。
共に笑い、怒った。地に足をつけて歩くことを覚えた。触れた血肉の通う肌は温かいということを知った。
日紅に逢ってから、『彼』はいろいろな感情を学んだ。それは良いものだけでなく、『彼』から奪うものも多くあった。
「あたし、ずっと、ずっと、失うのが怖くて犀を傷つけていたの。ばかみたい。まだなんにもしてないのに、悪い結果だけ考えて、諦めてたの。おいしそうなケーキが目の前にあるとするでしょ?あれを食べたらおなかが痛くなるかもしれない、だから捨てようって。ずっとそう思ってたの。ホント、バカだよね」
日紅の目線はクッションを抱えている手元に降りていた。照れくさいのか足をもじもじと動かしながら一人で喋る。
「あ、あたしいきなりなんだよって話だよね!巫哉わけわかんないよね!ごめんね!あの、今日、犀にね、…好きだって言われたの。友達で、って意味じゃないよ!あたしも好き、って言ったら違うって怒られた。はぐらかすな、って。・・・あたし、わかってたんだ、きっと。犀があたしのこと好きでいてくれるってこと。でも、あたしが臆病すぎて、もしかしたらずっとこのまま楽しくやっていけるんじゃないかって、思ってたんだ。けどね考えるまでもなく、あたし、犀のこと好きみたい。まだ、戸惑いも大きいけど、あたしがバカで犀を傷つけてきた分」
日紅がふっと顔をあげて『彼』を見た。瞬間声が止まった。驚きで睫毛が震えた。
「みこ、や?」
茫然とその名を呼ぶと同時に『彼』の姿がふっと日紅の眼前から消えた。
今まで、『彼』が日紅の前でこんな風に掻き消えたことはなかった。
「巫哉?」
真っ暗な部屋の中、もう一度日紅はつぶやいた。
消える寸前、無表情の『彼』の右目からひとすじ涙が、流れていた。
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