8
気がつけば、日紅(ひべに)はたった一人で屋上にいた。犀(せい)はいない。
食べかけの日紅の弁当が、そのままある。
「おまえ、本当に気づいていなかったの?」
犀の声が頭を巡る。
「今まで、本当に、気づかなかったの?」
日紅は頭を抱えて座り込んだ。
ぽつりと呟く。
だから大人になるのが嫌だったのに。
気づいていなかった。わかっていなかった。知らなかった。
でも本当は、きっとわかっていた。
日紅はそんなに鈍くない。思い当たることなんて、山ほどあった。
日紅自身が、ただそれに頑(かたく)なに目を向けていなかっただけ。
犀は『彼』のことをとてもとても気にする。
日紅がクラスの男子と話をしていれば割り込んでくるし、いつも日紅に優しい。とてもとても優しい。
それがただの優しさなのかと首を傾げる心を日紅は今まで押し込めてきた。犀はとっても優しいから。皆と同じようにあたしにも優しくしてくれるだけ。それだけ。特別扱いしているように見えるのも、小学校からの付き合いだから。ただそれだけのこと。別に変に思うこと、なにもない。
「あのね、日紅ちゃん。私ねぇ、木下君のこと、好きなんだぁ?」
その、言葉を聞いたとき、日紅は眩暈がした。
にこりと日紅を覗き込んでくる桜の瞳が、どろりと醜悪に歪められている気がした。
実際は、そんなことない。にっこりとかわいらしく笑う桜。ただ、桜は犀と仲がいい女友達の協力を仰ごうとしているだけ。勿論多少の牽制が入っているかもしれないが、それは、仕方がないだろう。下心が溢れているように見えてしまうのはー…それは、日紅の問題だ。自分が、犀のことを好きな子にとって邪魔でしかないということは重々承知だった。
だって、自分が逆の立場で、好きな人の近くにこんなに仲のいい女の子がいたら絶対不安だ。
犀は、高校に入って人気が出た。
何度か告白もされているようだったが、なぜか今まで「犀と一番仲のいい女」として嫌がらせを受けることも、そんな日紅と仲良くなって犀に近づこうと言う女も、いなかった。
「ね?だから日紅ちゃんに協力して欲しいの。日紅ちゃん、木下くんと仲よさそうだったから。好きな人とか、聞きだしてもらえないかなぁ?」
だから、日紅は油断していたのかもしれない。
ずっと、このままでいられると。日紅と犀と『彼』。三人で、このまま仲良くやっていけると。何も変わらないまま、のんびりと過ごしていけると。そんな、勘違いをしていたから。だからーーー…。
不変なんて、そんなの、あるわけがないのに。
邪魔ものと分かっていながらも、それでも犀から離れないのは自分のため。だってあたしは小学校から犀とずっと一緒だもの。後から来て彼が好きだなんだのといって引き離そうとするのはおかしい。あたしも犀のこと好きだから。犀だってそんなこと絶対望まない。恋愛じゃないよ。そんなのじゃない。だから、もう少しだけそばに居させて。
いつか、犀の隣には日紅じゃない人が寄り添っていくだろう。微笑みあって、手と手をとって支えあえる人が。
大丈夫、それはわかってるんだ。
ただ、ただ…それまでの、ほんの少しの間だけでいい、一緒に居させて。何も考えずに3人で笑っているだけでいい、あたしの日常を奪わないで…。
なんて高慢で、独善的で、汚いこころ。
…くるしい。
何も変わっていないように見える日常も少しずつ変化している。
日紅はその全てに耳を塞いだ。目を瞑った。何も気づかないフリをしていた。
日紅の足元は大きく崩れかかっている。それは決して止まらない。日紅が変わらない限り。
何もかもが日紅の手からすり抜けてしまう。
ほら、答えなんて、こんなにもすぐそばにあるものなんだ。
日紅のなか。
考えないようとしている頭の中、心の底で、ずるい計算して、何も知らないって顔で、ずっと、ずっと、犀を傷つけ続けてた。
一緒にいるか、離れるか。
きっと、犀は明日には笑ってくれる。
日紅が気にしないように、また、いつもみたいに笑ってくれる。
でも、それじゃ、だめなんだ。
離れることを犀は望まないだろう。日紅だって嫌だ。でも、犀のこころにちゃんと正面から向かうには、だらだらと甘えるだけじゃダメなんだ。
ちゃんと日紅が自分の心と向き合って、答えを出さなきゃいけない。
日紅は空を見上げた。
あおいあおい空だった。
どこまでもひろがるそら。
明日も、変わらずそれはそこにあって、好きとか嫌いとか苦しいとか楽しいとか、いろんな感情を全部その腕に抱えて上からこの世界を包んでいるんだろう。
日紅は泣いた。
日紅から見えないところに犀がまだいたことも全く気づかずに声を上げて咽び泣き続けた。
もうこどものままじゃいられない
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