『彼』のことは好きじゃない。




 人格のことだけで言ったら、別に好きでも嫌いでもない。




 ただひとつ、犀(せい)には譲れないものがあって、それはきっと、『彼』も同じように譲れないのだろうと思う。




 それを半分にもできないし、他の誰かに渡すなんて絶対に考えられない。




 だからと犀は思う。眠れない夜。次の日の朝の日紅の答えをいくつも想像しながら。




 だから月夜(つくよ)、お前には渡さない。



















「おはよ」




 日紅(ひべに)が犀の肩をぽんと叩いた。犀は考え事をしていたので驚き、声をかけたのが日紅だと確認すると胸をなでおろした。




「驚かせるなよ。おはよう」




「ん?別に大きい声出してなくない?いこっ」




 犀と日紅は並んで歩きだす。いつもの光景だ。




 ただ、今日は昨日までと違う筈だ。昨日、犀は日紅に積年の気持ちを伝えたのだ。日紅は犀の気持ち、自分の気持ちと向き合わされてさぞ混乱しているに違いないと犀は思っていた。




 こうして一時間以上前からいつもの待ち合わせ場所で待っていたのも、正直混乱した日紅に無視されるのを恐れていたから。なのに。




 犀の頭の中は疑問でいっぱいだ。日紅が至って普通の態度なのもわからない。緊張している様子もない。どういうことだ?日紅と下らない会話をしている間も頭の中はぐるぐるといろいろなことを考えてしまう。会話の内容は犀の頭をどんどん通り過ぎていく。




 そして、犀は一つの考えに辿りついて固まった。




 今まで考えもしなかったけれど。まさか、日紅は犀の告白をなかったことにするつもりではないだろうか。それなら態度が変わらないのも頷ける。今まで犀が考えていたのは日紅が犀のことを意識して今までのように接してくれなくなること、断られた時のこと、それだけだった。




 かっと頭に血が上ってそれと同時に胸に痛みが走る。




 犀だって、簡単に日紅に好きと告げたわけではない。言った後のこともずっと、ずっと沢山悩んで考えてきた。八年間の片思いだ。大きな意味が詰まった告白だった。




 日紅が恋に関して幼い考えなのはわかっている。でもその無邪気さが、わかってはいても、犀の心を傷つけた。




 犀の足が意識せず止まる。




「犀?」




 訝(いぶか)しんだ様に日紅が立ち止まるのをぼんやりと認識して、犀は自分が立ち竦んでいたことを知った。




「なに、どうしたの?」




 にこりと笑って犀の顔を覗き込む日紅が憎かった。ここで犀が日紅に詰め寄ったらどうなるだろう。好きという気持ちは綺麗なだけのものじゃないことを犀は知っている。そのどろどろしたものを今ここで日紅にぶつけたらどうなるだろう。日紅の泣き顔ですら自分のものにしたいと言ったら、日紅はどうするだろう。




 その一方で、今犀の態度がおかしくなったら日紅が困惑するだろうとも考えていた。だけどもう犀は笑えなかった。




「犀」




 犀がおかしいことに気付いた日紅の手がそっと犀の手を握った。犀は日紅の考えが読めなくて目線をあげた。目の前に、視線を伏せた日紅がいた。困ってるような顔。それを見た途端、犀は思った。もう、だめかもしれない。日紅は犀に何かを言おうとしている。その瞳を伏せたままで。




「犀、ごめんね」




 犀は目の前が暗くなった。恋についてまだ何もわかっていない日紅に答えを出せというのは無理かもしれないと、犀は半分断られるかもしれないと覚悟していた。だが、予想はしていてもやっぱり堪えた。




 しかし、日紅はさらに言葉をつづけた。




「ほんとに、ごめん!なんか、昨日から考えてて、あたしのなかではもう決まってて、だからなんか犀もわかってるって気でいつもどおりにしてたけど良く考えたらあたしなんにも言ってなかったよね!?だから、えっと…」




 日紅はそこで顔をあげた。ちらりと犀を見てまた視線を落とす。その頬は真っ赤に染まっていた。




「こ、れからよろしくお願いします」

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