日紅(ひべに)の寝顔を見ながら、『彼』は想う。




 日紅の、変化を恐れる気持ち。その気持ちを、『彼』は身を切られるほどよくわかっている。




 『彼』にとって日紅は、人生のほんの一瞬を共にするしかできないもの。




 時は、泣きたくなる位の速さで進む。子供から大人へ、大人から老人へ、そして死が訪れ、また命は廻(めぐ)る。日紅もすぐに老い、死んでいく。『彼』が日紅を見送るのは定められた未来。逆はあり得ない。そしてそれは決して遠いさきの話ではない。




 そうすれば、『彼』はもう独りだ。




 日紅と出会うまでの4千年余り、『彼』は孤独をたった独りで生きてきた。すべてのものに傍観者であり続けたそれは別に苦でもなんでもなかったし、自分がまさかヒトと馴れ合う日が来るだろうなんて予想だにしなかった。




 例えば。




 今日紅が死んで、『彼』を知る者が犀しかいなくなったのならば、『彼』は間違いなくすぐ眠りにつくだろう。




 目覚めたときには犀(せい)はいない。ヒトの命は本当に短い。日紅を知っているものはもう誰もいないだろう。日紅の家もきっともうここにはない。『彼』が居座るこの枝も、この大木も、日紅が好んで買ってきたこのカーテンも、日紅の太陽のような笑顔も、その笑い声も、日紅と、犀と、『彼』とふざけあっていた思い出さえ、もう微塵もないのだ。




 それを見たときに、『彼』はどうするのだろう。




 死を持っている身は幸せだ。終わりがあると知っていれば楽だろう。終わりがあるということは始まりがあるということ。ヒトだけでなく、妖にも寿命はあり、死は舞い降りる。ただそれがヒトよりほんの少し長いだけのこと。生と死は生けとし逝ける遍(あまね)く全てのものへ平等だ。例外はひとつ。『彼』のこの身だけ。




 延々と流れる時の中、『彼』はひとりで立ち尽くすしかないのだ。変化のない『彼』は命を持つものと一緒に生きることはできない。循環する命を見送り身守るのが定め。




 ヒトは幸せだ。




 死ぬことの出来ない『彼』には、終わりという言葉はない。ヒトの世には転生という言葉があるが、それもない。もしも、『彼』が死ぬとしたら、その時は消滅。完全なる無だ。




 4千年の末(のち)、『彼』は日紅に逢った。けれどこれ以上生きて、生きて、生きて。一体何があるというのか。もう4千年生きたら再び日紅に逢えるというのなら、『彼』は喜んで眠りにつくだろう。けれどそんな保証を一体誰がしてくれるというのか。




 何もかもを持っていて全て奪われるのと、最初から何も持っていないのは、一体どちらが苦しいのだろう。




 日紅との別れ、それはいつか必ず来る。今日か?明日か。40年くらい先よと日紅は笑うが、そんなの『彼』にとっては今日明日も同じこと。




 『彼』はやりきれない思いで日紅を見る。




 いつか。…いつか、日紅と同じくらい、いやそれ以上のヒトが現れるだろうか。そうして、『彼』に手を差し伸べてくれるのだろうか。




 だとしたら、それはいつ?何千年、何億年先のこと?不確かな未来を当てにして生きられるほど、『彼』は強くない。




 だからといって、死ねもしない。




「…日紅…」




 日紅よりも、『彼』の方が時の移ろいを恐れていた。




 頼むから何処にも行くなと、離れなければならない日は必ず来るのだから、どうかその時が来るのが一秒でも長引くように…。




 『彼』はそれだけをいつも身が切れるほど願っている。

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