第37話 “初めて”の予定

「知華っ!? どうした!?」

 襖のすぐ外から先輩の声がする。

 私はサックス部屋に敷いた布団を頭からかぶって縮こまる。


「どうもしませんっ!!

 どうもしないから…。


 いつもみたいにほっとけばいいじゃないですかっ!!」


「…俺がいつ知華をほうっておいた?」


 先輩の声が、低く悲し気にトーンを落とす。

 それでも私の八つ当たりは止まらない。


「ほっとかれてますよ!

 一緒に買い物行っても!ご飯食べても!髪乾かしてもらっても!デートに行っても!

 …最後にはいつもほうっておかれるんです!」


 自分でも子どもっぽいと思う。

 可愛げがないと思う。

 ギャップ萌えなんて、私には無理だ。


「しょうがないですよね!?

 私、可愛げないもん!


 …可愛くないから、先輩何もする気が起きないんだ…」


 最後の一言は布団の中でつぶやいたつもりだった。


 スターーーンッ!!!


 襖が壊れるんじゃないかと思うほど強く開け放たれる音。


 ずかずかと先輩がサックス部屋に入ってきて、掛け布団をがばっと乱暴に引き剥がす。


 布団を握っていた手で、私は自分の顔を覆う。

 先輩は私の両手首を掴んで顔から引き離すと、じっと私を見据えた。


 眉間にしわが寄っている。

 前に見たことのある、怒りと悲しみがい交ぜになった表情だ。


「何もする気が起きない、だと?」


 顔を横に向けたら、いつのまにか出ていた涙が目からこぼれて、こめかみをつたった。


「俺が毎日どれだけ理性と戦っていると思っている?」


「…えっ…?」


「知華が可愛くて仕方がない。

 俺の作る飯をうまそうに食べ、髪を乾かすときは顔を赤らめ、ボウリングでは向きになって勝負を挑んでくる。

 そんな真っ直ぐで可愛い知華と一つ屋根の下に暮らして、何もする気が起きないわけないだろう」


 仰向けになった私に覆いかぶさるように、天井を背景にした先輩が私を見つめている。


「本来ならば、知華が高校を卒業して結婚するまで待つべきだと考えていた。

 だがそれでは長すぎて待てそうにないから、せめて知華の16歳の誕生日までは待とうと思った」


 先輩の抑えていた思いが、熱い眼差しとなって私の心臓を射抜く。

 息ができないくらい苦しくなる。


「俺がこの合宿中に必死で自分を律しているのは、知華を大切にしたいが故のことだ。

 そんな風に拗ねられたら、己が一層御し難くなる…」


 眉間にしわを寄せたまま、ふうーっと深いため息をつくと、先輩は私の手首から指を離して体を起こした。

 胡坐をかいて、片手を額に当て、ふうっともう一度ため息をつくと、ゆっくりと立ち上がる。


「おやすみ」


 そう言って、サックス部屋を出て行こうとする鷹能先輩。


 私は先輩を傷つけた。

 先輩は私のことをちゃんと考えていてくれていたのに、私は自分のことばかり考えて勝手に不満を抱えていた。

 拗ねて余計に先輩を困らせてしまった。


「ご…めんなさい…っ」


 泣きながら体を起こす。


「先輩はいつも私のこと、考えてくれてるのに…。

 私、自分のことしか考えてなくて…っ。

 抱きしめてほしいとか、キスしてほしいとか…

 勝手なこと、思ってました…」


 あふれてくる涙を手の甲で必死にぬぐう。

 部屋の入口に行きかけた先輩が踵を返してゆっくりと私の横に来てしゃがみ込む。


「そうか…。

 俺は知華に寂しい思いをさせていたのだな。

 俺も自分を律することに必死で、知華の思いを汲んでやれていなかった」


 先輩が膝をついて、優しく私を抱き寄せる。


「今はただ、知華の思いがたまらなく嬉しいし、愛おしい」


 先輩の腕に力が入る。

 私も先輩の背中に回した手にぎゅっと力を込める。

 先輩の胸から、ドキドキと早鐘のような鼓動が聞こえる。

 私の顔の熱さもきっと先輩の胸に伝わっているはず。


「今日は俺が己を律して知華の思いに応えよう」


 先輩はそう言うと、腕をほどいて私の頬を両手でそっと包み込んだ。


「そのかわり…」


 そのかわり…?


 後に続く言葉の代わりに、先輩はゆっくり3回、キスをくれた。

 甘い魔法ですっかり力が抜けてしまった私を先輩がもう一度ぎゅうっと抱きしめる。


「この借りは、秋に知華が16歳になったら…100倍にして返してもらうぞ」


 その言葉で、はっと我に返る私。


「100倍…って!?」


 あわわわわってなって、慌てて先輩から離れようとしたけれど、がっちり抱きしめられていて逃げられない。


「そういう取引はもっと前に提示してくれなきゃ困りますっ!!」


 やっとの思いでそれだけ叫ぶと、先輩はいつものようにはははっと声を出して笑って。

 もう一回キスをした後に「これで200倍だ」っていたずらっぽく微笑んだ。


 さっきは3回のキスで100倍だったのに、1回追加でなぜ200倍になるんでしょーか!?


 そんなツッコミが鷹能先輩に通じるわけがないのはわかってる。

 仕方ないので、私はもう一度先輩の胸に顔をうずめてぎゅうっと抱きしめた。



 ――――――



「知華。じゃがいもは先に切って水にさらしておく方が効率がよいぞ?」

「知華。玉ねぎは芯を切り取っておかねばほぐれないぞ?」

「ちは…」

「だあぁっ!もう!

 先輩は2階ででも待っててくださいっ!

 出来上がったら呼びますからっ!」


 先輩との青雲寮うんりょー合宿最後の夜。

 私は初日に宣言したとおり、先輩のために夕食を作ることにした。


 この合宿で、先輩が私を大切にしてくれてるのがひしひしと伝わった。


 ううん。合宿だけじゃない。


 私が剣道を辞めた理由を知った先輩に、朝稽古に誘われたとき。

 紫藤家の事情を知って騙されたと誤解したとき。

 志桜里さんの思いに触れて心が揺れたとき。

 蒼翔あおとと心を通わそうと鷹小屋に籠ったとき。


 そう。

 先輩はいつだって私を大切に、大切にしてくれていた。


 だから、私も鷹能先輩をもっともっと大切にしたい。

 私と一緒にいることを、もっともっと幸せだと思ってほしい。


 この肉じゃがは、そのための努力の小さな一歩なんだ。


 そう意気込んで調理台に立っているのに、先輩ときたら私の手際の悪さが心配らしく、私の周りをうろうろしながら覗き込んでくる。


「肉じゃがなら調理実習で作ったことあるし(グループでだけど)、一人で作れますっ」


 …多分。


 包丁を片手にジロリとにらむと、先輩はやれやれという顔をしながらボーン部屋を出て行った。


 絶対に先輩に「おいしい」って言わせてみせる!

 絶対に先輩を喜ばせる!!


 ――――――


「これは…和風ポトフか?」

「…肉じゃが…のつもりでした…」


 ボーン部屋の大きなテーブルに置かれたお椀の中には、湯気を立てたじゃがいもとにんじん、透き通った玉ねぎ、白っぽい豚肉が、琥珀色のスープの中から顔をのぞかせている。

 水が多かったのか、じゃがいもに火が通ってもなかなか汁気がなくならず、とうとう煮崩れ出してきたためにあきらめて火を止めたのだった。

 途中、お玉で煮汁をかき出したんだけど、それでも多かったんだなぁ。


 鷹能先輩が食器棚の引き出しからスプーンを二つ出してきた。

 先輩、あくまでもスープとして食すつもりなんですね?

 言い知れぬ敗北感が押し寄せてくる。


「いただきます」

 手を合わせた後、二人とも恐る恐るスプーンを手に取り、和風ポトフ(ってことでもういいや)にスプーンを沈み込ませる。

 じゃがいもをすくったスプーンを先輩が口に運ぶ。

 私はスプーンを沈ませたまま、緊張して先輩の反応をうかがう。


 口の中のじゃがいもを何度か噛んだ後、先輩は「うん」と言って飲み込んだ。


「肉じゃがとするならばもっと甘味を強くして煮詰めた方が俺の好みだが、和風ポトフということであれば程よい塩気があって良いのではないか?」


「なんだか褒められてる気がしないんですけど…」


 私のイメージトレーニング(妄想とも言う)ではもっと美味しい肉じゃがを作って先輩を喜ばせていたんだけどなぁ。


「手放しで褒めてはいないが、手放しで喜んではいるぞ?」


 俯きがちにもそもそと食べていた私の顔を先輩が覗き込む。

 確かに、その笑顔はいつにも増して芸術的なやわらかさをたたえている。


「初めからうまくいかないのは当然のことだ。

 ただ俺は、知華が俺のために肉じゃがを作ってくれたことがとても嬉しい」


「先輩…」


 よかったぁ…!

 先輩が喜んでくれている。

 和風ポトフとして扱われたのにはちょっと落ち込んだけど、次こそは肉じゃがとして美味しいと言わせるぞっ。

 先輩をもっと喜ばせて、もっともっと幸せだって思ってもらうんだ!


 新たな決意を胸に秘め、煮汁スープをすくう私に向かって先輩が言葉を続ける。


「それに、この肉じゃがは知華が初めて誰かのために作った料理なのだろう?

 知華の“初めて”を俺がまた一つもらえたことがとても嬉しい」


「えっ…」

 私の“初めて”って?


「“初めて”のキスは俺がもらった。

“初めて”の手料理も俺がもらった」


 そこまで言った先輩が、無邪気な笑みを浮かべた。


「そして、次の“初めて”も俺がもらう予定だ」


 カチャンッ!


 あまりの動揺に、私はスープをすくっていたスプーンを落としてしまった。


 ちょっと待って。



 私の次の“初めて”って…。




 先輩の中では何の予定なんですかぁっ!?

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