会話、遠くから聞こえる微かな喧噪、ツクツクボウシの鳴き声、ゲームのオプション画面BGM、僕の鼓動、息づかい。息づかい。

 それから。

 食事を終えた僕たちは、各々の準備のため、一度解散した。

 勘定は当然のようにお姉さんが全て持ってくれた。僕もいつか、あんな風にさりげなく人に奢ることができる人間になってみたいものだ。


 お姉さんと沙池さんと別れ、僕は自宅に帰る。

 ちょうど自宅にはお父さんとお母さん、妹の三人が勢揃いしていた。

 兄さんと姉さんが実家を離れて暮らしているので、現在の我が家最大人数が揃っていたことになる。

 お父さんとお母さんに、今日外泊したいとの旨を伝えると、二人は二つ返事で首肯しゅこうしてくれた。

 受験生の息子を心配する意思は、二人にはないらしい。よっぽど信頼されてるんだ、と前向きに受け取っておこう。

 ちなみに、妹は当然のようになにも言ってくれなかった。それは普通に寂しい。


 鞄に荷物を詰め込み、自宅を後にする。沙池さんの自宅の最寄りの駅に寄り、改札で待っていてくれた二人に手を振る。三人で駅を離れ、沙池さんの住まうマンションに足を踏み入れた。


 五階建て、五十世帯以上が住まう中型マンション。沙池さんに連れられ、僕たちはロックの内側に入り込んだ。パッと見に見てみても、まあ簡単に入り込めるとは思えないロックだった。


 一階。『105号室』が沙池さんの部屋らしい。部屋の前まで行くと、一人、高校生くらいの少年が掃き掃除をしていた。僕、いや恐らく沙池さんに気づき、挨拶をしてきた。


「こんにちは、沙池さん。お友達ですか?」

「うん……こんにちは、よしき君」


 少年は僕の姿を見つけると、一瞬、怪訝そうな顔をした。人に不審がられるのは慣れてるとはいえ、別にいい気分がするものでもないので、僕らしくもなく、自分から友好の輪を広げてみる。


「こんにちは。沙池さんの友人の––––」


 僕が丁寧に自己紹介するも、


「……こんにちは」


 僕の自己紹介をまるで意に介さず、少年は沙池さんやお姉さんと軽い挨拶を交わし、掃除に戻って行く。なんというか、いい気分はしないな。別に怒るほどのことでもないけどさ。


 なんとなく意気消沈した気分で沙池さんの部屋に入る。と同時に、沙池さんが遠慮がちに話しかけてきた。


「あの……」

「なんですか?」

「よしき君のこと、怒らないであげてください……。あ、よしき君っていうのは、隣に住んでる高校生だけど……きみと同じ、高校三年生ね」

「いや、別に怒ってないですよ」

「ごめんね……。よしき君、今年受験だからかな……最近ちょっと、調子が悪いんだよ」


 なんと。僕と同じ受験生か。ならキレるのも無理はない。自分が必死こいて勉強してる時に、隣の部屋では同じ受験生が女二人と密会しているのだから。


 そう考えてみると、僕の現在の状況は、他の受験生と比べても大分勝ち組といえるかもしれない。まったりお姉さんと日々を過ごし、沙池さんの家に泊まり、それでいて第一希望A判定常連だ。リア充の極みといっても過言ではない。


 悪いな、よしき君。君があくせく机と睨めっこしてる間、僕はお姉さんと沙池さんといちゃいちゃさせてもらうよ。

 ひとを見下すのは、やはり気分がいい。


***


 沙池さんの部屋はシンプルな造りの1LDKだった。簡素な家具、小綺麗な部屋の中に、たまにまみえるレコードや(驚いたことに本物らしい)文庫本が(全体的に新本格が多かった)沙池さんの人となりを地味に表している。


「じゃ、もうそろそろ夕方だし、夕飯作ろっか。アンタ、手伝いな」

「わかりました」

「……? きみって、料理できるんですか?」


 沙池さんが小首を傾げた。まるで僕の人相風体が、料理なんて器用な真似ができるような上等なものではない、と言いた気にも聞こえなくはなかったが、それは杞憂きゆうだと思っておこう。


「小学生のころから、自主的に母の手伝いをしてたんですよ。自慢できるほどじゃありませんけど、それなりにはできますよ」

「へえ。なんで?」

「僕、他の姉弟と比べて、特に努力してたことがなかったんですよね。兄さんは格闘技、姉さんはお父さんの研究の手伝い、妹はピアノの稽古。僕だけ、大した取り柄がなかったんですよ。それで」

「ほう。かわいい時期もあったんじゃん」

「あとモテそうだったから」

「成果は?」


 ………………

 答えは、『沈黙』


「ああ、沙池さん。醤油ってどこにあります?」

「ええと……台所の棚の……どこか」


 アバウティな。沙池さんにしては珍しい、おざなりな回答だ。


「……ああ、あった。調味料ってどこかにまとめて置いてあります?」

「ううん……バラバラだと思う」

「……沙池さん?」

「…………」


 答えは沈黙、と。沙池さんも漫画好きなんだろうか。って、んな訳あるか。


「沙池さん、もしかして普段家で料理してないんですか?」

「……うん」


 なんてこった。沙池さんの持つ優美なイメージに、僕は『沙池さんなら料理なんてお茶の子さいさいだろう』という先入観を抱いてしまっていたのか。

 慌ててゴミ箱や冷蔵庫の中を確認してみる。きちんと生ゴミとプラゴミでわけられたゴミ箱。しかし、生には全然物が入っていないのに対して、プラゴミには洗われたカップ麺の容器やコンビニ弁当の容器が詰め込まれている。几帳面なのかがさつなのかわからない。


「いつもコンビニ弁当なんですか?」

「いや……普段は、孝ちゃんが作ってくれるから……」

「…………」


 なんだか、女の厚意に甘えるダメ男と、『私がいないとダメだから』が口癖の女の夫婦みたいだ。残念だが、その男はあなたがいたらますますダメになる。


「……じゃあ沙池さん。夕飯の手伝い、一緒にしませんか?」

「ええ……」


 沙池さんは露骨に嫌そうに顔を歪めた。

 こいつ。大人しそうに見えて結構クズ気質だ。


「ほら、今回のことでもわかるように、いつまでも縁さんがいる訳じゃあないんですから。沙池さんもお料理できるようにならないと」

「うう……はい」


 がっくしうなだれて、沙池さんは埃をかぶっているであろうエプロンを取り出しに行く。沙池さん、しっかり者に見えて意外と子どもっぽいところがあるようだ。幼いころの妹を思い出す。なんだかお世話してあげたくなる人だ。


 あ。

 僕も縁さんと同じ状況に陥ってる。沙池さんマジック、恐るべし。


***


「ふう……」

「あ、お風呂終わった? ちゃんとブラインド開けた?」

「あー、後で……」


 それから。

 コロッケに醤油を入れようとする沙池さんに四苦八苦しながら夕食を作り上げ、三人で仲良く食べた。残った分にラップをかけ(当然のようにタッパーはなかった)、明日の朝食を確保し、僕たちは早々にお風呂に入った。沙池さん、お姉さん、僕の順番で入り、現在の時刻は午後八時。まだまだ夜は始まったばかりだ。


 お姉さんから牛乳を受け取り、隣に腰掛ける。お風呂に入るまでプレイしていたFPSゲームのコントローラーを受け取り、僕は戦場で沙池さんと雌雄を削る戦いに舞い戻った。


 あまりにもリラックスし過ぎていて、なんだか自宅にいるような感覚になる。

 ここ最近、僕はよっぽど疲れていたようだ。元々友人の家で寝ることもままあったような男だが、ここまでのんびりしるのは久しぶりだ。のんびりというか、ぐったりというか。


 ああ、楽しいなあ。

 ほんとに、安心だなあ。

 ここ最近、気が休まることがなかったからなあ。

 受験勉強なんて片手間だと思っていたが、そうでもなかったらしい。心身ともに、自覚しないうちに疲弊し切っていたようだ。

 気を抜けば眠り落ちてしまいそう。


 ああ。

 このまま、ずっとこんなぬるい時間が続けばいいのに。


 そんな僕の願望は、あっさり裏切られる。


***


「!……う……ぁあ……!」


 ゾク。

 僕の背筋を、百足の足が撫で付けたような感覚がした。

 途端に僕は、シャツの上から背中を撫でる。当然、背中にムカデなんて走ってない。当たり前だ。

 しかし、それでも僕は安心できなかった。シャツをまくり上げ、肌を直に触り、確認する。


「! ……な、なに……?」

「お、どうしたの。もう一回風呂?」


 二人が、いや沙池さんの動揺をよそに、僕は半裸になる。だが、どれだけ触っても背中にムカデないし何らかの異物は確認できなかった。


「……ううむ」


 いそいそとシャツを着直す。

 ただの勘違いだろうか。心底、背筋が凍るような異物感を感じた。沙池さんかお姉さん、いやお姉さんのいたずらかもしれないとも思ったが、お姉さんの顔を窺うに、そうでもないらしい。

 

「おいおい、どうした。いくら思春期だからって、ここで盛られてもねえ……」

「……その口は、そのダサいジャージを脱いでからきいてくださいよ」


 お姉さんにこづかれつつ、僕はゲームに戻る。

 大丈夫、大丈夫、僕は平気だ。さっきの感覚は気のせいだ。人の家に泊りにきたから、空気が合わないとかそんなのだ。

 

 首を振ってテレビに集中する。

 それでも、あの異物感が僕にもたらしたちょっとした疑念が、脳裏にこびりついてとれなかった。


***


 三人でゲームをし続ける。

 しかしなんだろう、僕はさっきから一度も二人に勝てない。集中力が途切れて仕方がない。


 異物感が、背後から離れないのだ。

 この沙池さんの部屋に、異物感を感じる。天井、テレビ台、窓、カーテン、棚、台所。その全てに異物感を感じ、落ち着かない感じだ。


「アンタどうしたの? さっきまで連勝してたのに」


 お姉さんが不思議そうに僕を見る。大丈夫です、本当に。


「……だいじょうぶ?」


 心配なんてしないでください。僕は可笑しくない。絶対、僕は可笑しくなんてない。


 

 じゃあ、可笑しいのはなんだ?


「……気にしないでくださいよ。しばらく勉強漬けだったから、腕が落ちたんです。全盛期の僕だったら、ナイフだけで二人に勝てますよ」

「け。あんま調子のんなよー? アンタが勉強してる間、あたしは携帯機で練習を重ねてた」

「図書館でゲームしてていいんですか?」

「音切ってるから……」


 心臓が早鐘のように鳴る。胸を抑える。空腹にコーヒーを流し込んだような感覚だ。息が荒くなっていく。


「……ねえ。大学で勉強してるの、きみ……?」

「うん……いえ、はい。お姉さんに手伝ってもらったりもしてます。お姉さん、人に教えるのあんまし上手くないんだけど……」

「うっせ。教えてもらえるだけ感謝しとけ」


 胸をかきむしるように手を押し付ける。止まる訳ないのに心臓を掴む。気持ち悪い。興奮状態だ。

 なんだ、僕を支配している異物感の正体は。僕はなにが可笑しいと感じているんだ。


「でも、きみって高校生だよね。高校生って、大学の図書館、使えるの?」

「……ああ。使えますよ。一般の利用なんで、普通は料金払わなきゃならないんですけど」


 可笑しい。気持ち悪い。忘れてる。僕はなにを。


あたしがこいつを手引きして、こっそり忍び込んでんの。こいつ、受験生の癖に積みゲーに金使ってっから」

「うわあ……すごい」

「縁には言うなよ? バレたら怒られちゃう」


 二人は会話を続けていく。しかし僕には、それが言語として聞こえず、ただの雑音にしか聞こえなくなってきた。


 会話、遠くから聞こえる微かな喧噪、ツクツクボウシの鳴き声、ゲームのオプション画面BGM、僕の鼓動、息づかい。

 会話、遠くから聞こえる微かな喧噪、ツクツクボウシの鳴き声、ゲームのオプション画面BGM、僕の鼓動、息づかい。それと。

 会話、遠くから聞こえる微かな喧噪、ツクツクボウシの鳴き声、ゲームのオプション画面BGM、僕の鼓動、息づかい。息づかい。 


 


「…………………………」


 全てが、今繋がったような気がした。


 このマンションは、確かにセキュリティ能力が高い。一目にまぎれて犯行を行うには、難しいと言えるだろう。


 だがしかし、そこに手引きをする者がいるとすれば? 

 僕がお姉さんの案内で図書館に忍び込んでいるように、このマンションにも、犯人を誘い入れた者がいるとすれば。

 侵入は簡単だ、友人を自宅に招き入れる風を装えば、犯人をこのマンションに入れ、犯行の手助けさえできるかもしれない。

 

 要は共犯。沙池さんを襲った犯人には、共犯がいるのだとすれば。



 でもそんなの誰が。ストーカーの手助けなんて、好んでする奴がいるもんか。

 なら好んでいない。好まずに、ストーカーの手助けをする動機を持ってる奴は。


 ……僕は違う。僕は違うが、その動機を持ってる人物の一例として、なんてのは、考えられないだろうか。

 受験で焦ってたのなら、有り得なくはない、かもしれないだろう。しかも犯人は大学生、仮定だけど大学生だ。受験を経験した大学生は、受験生にとって大きな資源となる。志望大学の生徒であったなら、なおさらだ。


 受験の情報提供の代わりとして、犯人のストーカー行為を手助け、とか。

 いや有り得ない有り得ない有り得ない。そんな訳ない。ないのだが。



 有り得ないなりに、その場合の想定をしてみようか。

 犯人はこのマンションに住まう受験生に犯行を協力してもらっていた。

 その受験生は、仮に。仮にだが、沙池さんの部屋の隣に住んでいるとしよう。

 沙池さんの部屋のバスルームには窓がある。ブラインドもあるけれど、それでも隙間は多々ある。そこから、覗きなんてのもやってたかもしれない。




 もし。

 今日もいつも通り、そんなことをしていたとしたら。

 犯人は見ることになるだろう。

 沙池さんの部屋のお風呂を借りる、僕の裸体を。見ていた、かもしれない。



 ほんとにほんとにもしだけれど。

 犯人がいたとして、いたとしてね? 仮定だよ、本当に。

 それを見るのは、あまりいい気がしないかもしれない。我が者顔で沙池さん家の風呂を借りる、自分より男前の男。

 それを見るのは、いい気がしないかもしれない。


 


 そんなときに。

 そんなときに、沙池さんの部屋に入り込めたら?

 そりゃ、当然窓はしまっているだろう。

 でも、ブラインドは。僕は、ブラインドを開けるのを忘れていた。つまり、沙池さんから僕まで、お風呂に入っていた際、窓の状態を見た者はいないことになる。

 犯人が沙池さんの部屋に、今まで入り込んだことがあるか、わからない。もし窓が開いていた、もしくは開ける手段が犯人にあったとして。


 部屋に入らない理由と。 

 入る理由。

 どっちの方が、多く思い浮かぶ?


「…………………………お姉さん、沙池さん」

「ん、なに?」

「今日、流れ星なんですって。窓の外、見てみてください」


 二人を、窓際に誘った。不思議そうにしながら、二人は窓際に寄る。僕はそれを見守りながら、台所の方に向かった。


 クローゼット、違う。

 食器棚、違う、僕しか映らない。

 廊下への扉、開く、違う。

 冷蔵庫、違う、当たり前。

 台所、違う、暗い。


 暗い、が。


 暗い、暗いけれど、あの暗さはなんだ。

 闇より暗い、闇より黒い。光が作り出した陰、ではない。

 もっと、人工的な暗さ。黒さ。


「…………………………」


 その黒さを見続ける。僕の目が闇に慣れ、黒さの輪郭が見えてきたとき。


 黒さが蠢き。虚ろな白さと、目が合った。


 


 


 


 

 

 

 



 


 



 


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