そんなことを言われても、僕には––––

「……一週間ぐらい前です。ちょうど、常用語字典部の打ち上げがあった、すぐ後からです。きみも参加していた、あの……」


 お姉さんの追求に観念したのか、伏し目がちに淡々と話す沙池さん。その身体は、いつもより小さく見えた。


「夜中に歩いてるとき、人の視線を感じることがあって……その翌日、私が住んでるマンションの郵便受けに、手紙が入ってたんです。中身は……」

「言わなくていい。縁にはそのことを言ったのか?」

「……はい。孝ちゃん、すごく心配してくれて……警察に連れて行ってもらったりしてくれました」


 沙池さんは小さく苦笑した。なんとも、余裕のない苦笑だった。


「それからしばらくの間、孝ちゃんと私の部屋で泊ってたんですけど……最近、夜の帰り道だけじゃなく、昼間にも背後から気配を感じることが多くて……」

「…………、…………」


 息を飲んだまま、なにを口にしてよいやら、言葉に詰まる僕。ざらついた粘液で顔を覆われたような不快感。今僕の目の前で、吐き気を催す邪悪の話しがされている、この焦燥感。拍動が正常値に戻ってくれない。


「警察の対応は?」

「特には……孝ちゃんは、『警察の無能さが裏目に出てしまった』って言ってましたけど……」


 縁さんの言葉の意味がわかる僕は、さっさと目を背ける。僕も縁さんも、この町の警察とは少しばかり因縁がある身だ。


「……なーる。それで、そのストーカーは今も活動してるのかい?」

「……はい。最近、行動がエスカレートしてきて……玄関前に、その、変なものがぶちまけられてたり、気のせいだとは思うんですけど、部屋の中の物の配置が、違うような……」

「! 部屋に入られたのか?」

「い、いえ……! 気のせいですよ、きっと……」


 沙池さんは必死に手を振って否定の意を表した。しかしそれは、どう見てもただの虚勢にしか見えない。


「……それで、そこまできて縁はどうするって?」

「……孝ちゃんは今、国内に居ません。夏休み中、海外で語学留学するって……」

「あの縁がこんな状態のお前を置いて? 有り得ないね。ほんとのことを話しなさい」

「ほんとなんです。ほんとに……。孝ちゃんの迷惑になるからって、私、最近ストーカーされることは無くなったって、孝ちゃんに言ったんです。ほんとに困ったら先輩にも頼るって……」

「……ったく。馬鹿者が……」


 お姉さんは珍しく悪態をついた。僕もできるなら犯人を口汚く罵りたい気分だ。口の中のもの全部を吐き出してやりたい気分。臓物が汚れていく、そんな感覚。


「……沙池。その犯人の目星は付いてるのか?」

「いえ……」

「よし。アンタ、犯人は誰か、今すぐ答えなさい」

「ええ……」


 気が立っているのか、お姉さんはいつにもまして無茶ぶりをしてくる。そんなことを言われても、僕には––––


「……僕。犯人は沙池さんの通う大学の、沙池さんと同じ学部の若い男子生徒だってことまでしか、わかりませんよ?」


 たったこれだけしかわからないのだ。



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