人間の感情に『罪悪感』なんて邪魔なもの、決して取り付けなかっただろうに。

 沙池憂さん。

 お姉さんが通う大学のサークル、『常用語字典部』所属の一年生。以前、僕が常用語字典部のメンバーの打ち上げに参加した時に知り合った。知り合った、のだが。


「…………」

「…………」

「ううむ……これもうまいけど……ちょっとアンタ、そっちのクリームオムライス、ちょっぴり頂戴」


 ……………………

 僕はクリームオムライスを少し、お姉さんにわけてあげた。


 現在の状況を説明しよう。

 黙りこくったまま、クリームオムライスを口に運ぶ機械と化した僕と向かいの席に座って僕と同じ動作をする沙池さん。多分、こんな機械は作る必要性がないから大量生産は無理だろう。

 そして、そんな僕の隣に座って、まるでいつもと変わらない態度でナポリタンを貪るお姉さん。以上。


 控えめにいって、あまり居心地のいい空間とは言えなかった。


「……沙池さん、お久しぶりです。僕のこと、覚えてます?」

「あ……ええと……その……」


 いつまでもこんな空気で物を食べていては生産者のみなさんに心苦しいので、仕方なく空気の清浄化に取り組むことにした。僕ってば、人間空気清浄機。いや、オムライス消費機械だったっけ……


「あの……忘れた訳じゃないんだけど、その……」


 忘れていらっしゃるようだ。仕方ない、僕なんて、男前なことを除けば、頭が良くてスタイルも良くて性格が良いだけの地味な男だ。


「前は……よすがろうだって、言ってたよね……」

「……ああ、なるほど。それで……」


 伏し目がちに口にしたその言葉に、僕はようやく得心がいった。以前、僕が沙池さんと初めて出会った時、僕は偽名を名乗っていた。しかもそれ以後、僕は本名を名乗ったことがない。知らないのも当たり前だ。


 ……そうか。沙池さんが、僕が名乗った『縁労』が偽名であると知っているということは。『あの事件』の正体は、僕が考えていた通りの––––


 邪魔な感傷を振り払い、僕は沙池さんに改めて、自己紹介をした。


「あの節はすみませんでした。……それで、その、大丈夫ですか?」

「だいじょうぶ……?」

「僕と……ていうか、僕みたいな相席なんて……」


 沙池さんは少し目を見開いて、かすかに頬を緩め、目を細めた。初めて見る、沙池さんの笑顔だった。


「……大丈夫です。あんまり心配しないで。もう大分経ったし、日常生活に支障が出ることはありません」

「……そうですか」

「それに、きみはあまり、『男の人』って感じがしないし」

「……そっすか」

「ふふ。それ、言えてる」


 僕的気になる人に言われるとへこむ言葉上位ランカーの言葉を言われてしまった。


「……ま、それなら良かったです。……ついでにですけど、縁さん、元気してます?」


 縁さんとは、沙池さんの友人で同じ大学の生徒である、真面目で責任感ある女性だ。僕もしばらく前、何度か顔を合わしていた。


「孝ちゃんなら元気だよ。なにも心配しないで、大丈夫だから」

「……そっすね。僕が心配することでもないですしね」

「いや、孝ちゃんはきみにすごく感謝してましたよ。だから罪悪感が拭えないんだよ」

「罪悪感……」


 罪悪感。

 『あの事件』に対して、ついに僕が一抹たりとも感じなかった感情。おそらく縁さんも、自分のしたことに後悔している訳ではないのだろう。しかし、理屈では割り切れない、精神に刷り込まれた倫理観が、真面目な縁さんを掴んで離さない。そして、縁さんはなにも悪くないのに、一生罪の意識に苦しみ続ける。


 ––––もし僕が、世界を創造する神だったなら。人間の感情に『罪悪感』なんて邪魔なもの、決して取り付けなかっただろうに。


「––––いつまでもどうでもいい話ししてんじゃない。アンタらのご飯が不味くなるのは勝手だけど、あたしのまで不味くしようとするな」


 僕がくだらない感傷の沼に吸い込まれそうになった時、お姉さんが冷たく文句を吐き捨てた。途端、僕の精神は平常値に戻る。そうだ、こんなことを考えても仕方ない。所詮人間である僕には、創造はおろか想像することすら不十分なのだから。


「……そうですね。沙池さん、嫌なことは忘れましょう。昔のことを思い出して、いい気分になるのはごく一部の人だけですよ。今の話しをしましょう。オムライス、おいしいですよ」

「……ふふ。そうですね……仕方ないですよね」

「……ふん」


 お姉さんは不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、仕方ないのだ。僕たちみたいな人間は、忘れることでしか過去から逃げられないのだ。今は未だ、僕も沙池さんも弱いから。お姉さんほど、強くはないから

 いつか。いつか、僕もお姉さんのように、過去を乗り越えることができれば––––


「……できるかなあ」


 一人ぼやいて、僕は皿に目を戻した。

 半分以上食尽されていた。横を見る。お姉さんは頬を吊り上げ、ニヤリと笑った。


***


 それからしばらくの間、なごやかな歓談が続いた。

 僕と沙池さんはほぼ初対面ということで(初めて会った時、沙池さんは今以上に無口だった)あまり会話は盛り上がらなかったが、お姉さんと沙池さんは、昔からの知り合いということで、盛り上がる話しもあった。沙池さんとの会話から垣間見える、僕が知らないお姉さんの話しはとても興味深かったが、よくよく聞いてみればいつものお姉さんと大して変わっていないので、ここでは割愛しよう。


 損失したオムライスの賠償を求めた僕が、食後のデザートをお姉さんと奪い合っている最中、僕は、ある違和感に気づいた。


 それは、沙池さんの視線の方向である。

 沙池さんは、僕やお姉さんと話していない間、いつも窓の外の景色を見ている。別に洋食店の外の景色は絶景という訳でもないただの歩道なので、少し可笑しいと言えば可笑しい。が、外を見るぐらいなら僕も休み時間によくやっているので、別段可笑しいとは言えないだろう。


「沙池さん。外、なにか見えますか?」

「え……いや、なにも……」

「紅葉の季節には未だ早いよ」


 沙池さんは手を振ってにわかに微笑んだ。しかし、その笑顔はどこかぎこちなかった。まあ、沙池さんの満面の笑顔なんて見たことないんだけど。


 しばらくパフェを頬張りながら、なんとなく沙池さんの視線を追ってみる。見れば見るほど、いいとこのお嬢様のような、気品を感じさせる美人さんだ。そのどこか世を憂いた瞳がどこを見ているのか––––


 カランカラン。店の扉が開き、店内に若い女性が入ってきた。僕の席はちょうと、店の扉が正面に見える配置なのでよく見える。僕はその若い女性から目を外し、再び沙池さんに視線を戻す。そこで、僕の違和感はなかば確信へと移行していった。


 沙池さんは、

 、店の扉を見ていた。そして、その様子をぼうっと見ていた僕に気づき、身体を机に向け、スプーンを口に運ぶ動作を取り繕った。


 これは––––どういうことだるう。

 窓の外を見るのならわかる。それぐらい誰だってする。しかし、自分の角度からは見えない店の出入り口を、わざわざ振り返ってまで見るものか? そんなことをする人って、一体どんな事情があるのだろう。僕の頭の中に、某賭博黙示録漫画の第二章が浮かんだ。


「沙池さん、もしかして誰かと待ち合わせしてます? 縁さんとか」

「いえ……今日は一人です」

「じゃあ……」


 どうして、と言いかけて、僕は口をつぐんだ。もしかしたら、僕みたいな他人が口を挟んではいけない、大人の世界のお話なのかもしれない。私立大学はなにかとお金がかかるらしいし……奨学金とか、色々大変なのかもしれない。なんにせよ、僕が関わるべきことじゃあない。


「……いえ、なんでもないです。……あの。僕じゃなんの頼りにもならないかもしれないですけど、愚痴とかいざという時にかくまうぐらいなら……」

「沙池」


 僕が口を話しを終わらせようとすると、お姉さんが突如、口を挟んできた。


「なにを気にしている? 外から来て欲しくない人間が来るのか?」


 どうやらお姉さんも沙池さんの挙動不審を見ていたらしい。決して笑わず、かといって眉間に皺も寄せずして、お姉さんは沙池さんへの詰問を続ける。


「どうした? 答えられないのか? え?」

「いえ……」

「沙池。あたしは薄情な人間だけど、友人に対して不誠実なことをしたことはない。話せ、あたしは裏切らない」


 久しぶりに、お姉さんが少し語気を強めた。僕だって、ここまで命令口調のお姉さんは、ここ一年は見たことがない。しかし、これは怒っている訳じゃあない。お姉さんは怒ったりしない。叱るだけだ。


 それにしても。

 『話せ。あたしは裏切らない』、か。相変わらず、痺れるほど格好いい。一度でいいから使ってみたい言葉だ。


 お姉さんのお叱りに、沙池さんはうつむき伏してしまった。普通ならこれ以上の追求を止めるだろうが、お姉さんは決して止めようとしない。沙池さんが自身の言葉で話さない限り、お姉さんは一度始めた話しを閉じない。

 約二分間、さっきまでの微妙な空気とは段違いに思えるぐらいの空気感が続いた。流石に見かねた僕が、沙池さんになにか言葉をかけようとした時、


「………………最近」


 沙池さんがうつむいたまま、幽かな言葉を口にした。


「…………最近、つけられてるんです」

 




 


 

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