生きること。

糸杉珋

第1話 自殺、そして出逢い

自殺しよう。

週末にそう決めた俺は、その翌月曜日。唯一の友人である高遠喨にその旨を伝えた。

高遠喨。タカトオリョウ。長身で顔も悪くなく、運動も勉強もそつなくこなす。何と言うか、完璧超人みたいなやつだ。けどこいつは、その運動神経の割に、喧嘩はてんで駄目という謎スペックも有している。

その喨はと言うと、さっき自販機で買ったパックジュースに口をつけたまま、意味が分からないという表情をしている。

「だから、自殺するんだよ」

仕方がないから、もう一度言ってやるが、やはり喨の表情は変わる様子がない。

「だからーーー」

「ーーーいや、別に聞こえてない訳じゃないから。そうじゃなくて、何で自殺?」

「……何で生きてるんだろうなって思ってさ……」

「はぁ……⁉︎なに急に哲学みたいなこと言ってんだよ。お前、中学時代は喧嘩じゃ負け無しの、中部の番長って呼ばれてたじゃん。どうしたんだよ、番長?」

「やめろよ、番長って呼ぶのは。俺はもう喧嘩はしないって決めたんだ」

喧嘩はしない。そう決めて、前髪を伸ばした。今では目元を隠すほどに伸びていて、前に喧嘩したやつに気づかれることはなくなった。

「まぁ別に、喧嘩しないのはいいことだけどさ、自殺なんて止めとけよ」

「いや、自殺するよ。それだけは決めたんだ」

「……そうか」

そう呟くと、喨は飲みかけのパックジュースを俺の方へ寄越して、教室へと戻って行った。

「気を遣わせたか……」

残りのパックジュースの中身を飲み干し、俺は考える。

人はいつか死んでしまうのに、どうして生きるのだろう。

それは何処かで聞いたような、そんな他人譲りの言葉だ。

けれどその言葉は、俺の心に素直に染み渡った。

人はいつか死んでしまう。そのことを実感するのは、もう少し先だと思っていたのに、この一年で俺は、その言葉を嫌というほど実感してしまった。

だからこそ、こんな辛い思いを、二度としなくてもいいように……。

「俺は自殺しなければならない」

パックジュースの入れ物をゴミ箱に放り捨てて、俺も教室へと戻った。


「真ー。一緒に帰ろうぜ」

放課後。そう声を掛けてきた喨に、俺は首を振った。

「そう、か……。決意は固いってか?」

「ああ。この辺が潮時だなって思うからさ」

「やっぱり、お袋さんのことか?」

そう言われた瞬間、鼓動が早くなるのを感じた。胸が締め付けられるように、苦しくなる。

けれど俺は、精一杯虚勢を張って、

「いや、それは関係ない」

そう告げた。

けれど喨の顔を見る勇気も無くて、俺はそのまま足早に教室を出ると、真っ直ぐに屋上へと向かった。

屋上へと続く重たい鋼鉄の扉は、やけに冷たく感じられた。その重さはまるで、命の重さを感じさせるような気がして、俺の心を変に掻き乱す。けれど何とか苦労して扉を開けて、屋上へと出る。

「柳 真くん」

驚くことに、一人だと思っていた屋上にはすでに来客があった。そしてまた驚くことに、その来客は俺の名前を知っている。

「誰だ?」

最初の来客。そいつは間違いなく少女だ。太陽を背に立っている為、顔立ちや表情までは見てとることが出来ないが、その声音は美しいテノールを響かせている。これで男なら詐欺だろう。

「御園生 萌葱」

「みそのう?」

聞き覚えがあった。確かクラスメートの一人のはずだ。けれど、顔までははっきりと出てこない。

その御園生はゆっくりと、太陽からズレるように歩き出す。その様子は、まるで影が実体を得るような錯覚を、俺に与える。そして逆光でなくなったことで、御園生の顔立ちが鮮明に現れた。

綺麗だ。最初に抱いた感想などその程度のものだった。それほどまでに、鮮烈に、御園生は綺麗だった。

端正な顔立ちは、幼さではなく、大人特有の色っぽさが宿り、その目は線の強い性格を感じさせる。流れる黒髪は艶やかで、腰まで伸びており、風に巻かれて輝いている。

どちらかと言うと、喨タイプのやつだな、と俺は反射的に思った。

「で、その御園生が、何で屋上にいる?」

「真くんの自殺を止めに来たの」

即答だった。

けれど俺は、自殺することを喨にしか話していない。喨が話す可能性は皆無として、多分偶然耳に挟んだんだろう。

「お前には関係ない。帰れ」

少し怒気を含んだ口調で言ったにも関わらず、御園生は涼しげな表情で、その場に佇んでいる。それどころか、微笑すら浮かべているのだから、驚きだ。

「いや。私は絶対にここを退かないし、君にも自殺はさせない。そもそも君はどうして自殺しようとしてるの?」

「それこそお前には関係ないだろ。いいから退け」

「いいから、答えて。答えてくれたらそうだね、どうして私がここにいるのか、教えてあげるよ」

どうしてここにいるのか教えてあげるよ。

その言葉は俺が喨以外の殆どの人間にひた隠しにしてきた過去を言い当てられているようで、心臓が跳ね上がるのを感じた。

そして、同時に気になってしまった。御園生が代わりに教えると言うその答えを。

「……生きる意味が分からないんだよ」

散々迷った末、俺は答えることにした。

それほどまでに、御園生の答えは大きな意味を持っているような気がしてならなかった。

「生きる意味が分からない? どうして?」

御園生はキョトンと首を傾げながら訊き返した。

堅物な感じがするだけに、そんな表情も出来るのかと、少しだけ感心する。

「人はいつか死んでしまうのに、どうして生きるんだろうな。……俺はこの問いに対する答えを見つけることが出来なかった。それだけだ」

「生きることに理由がいるの?」

「ああ、いるよ。少なくとも俺にとっては大切なことだ。さぁ、俺は答えたぞ。お前も答えろ」

俺が答えることなど最低限でいい。大事なことは御園生の答えだった。

「そんな理由、言い訳でしかないでしょう?」

俺が急かしているのを察しているのか、いないのか、そう前置きをして、御園生は静かに語り始める。

「中部総合病院自殺事件」

御園生の口からその言葉が零れた瞬間、俺は何でもいいから、暴れ回りたい衝動に駆られた。けれど必死に堪えて、一言言葉を絞り出す。

「もういい。やめろ……」

「自殺したのは、当時入院していた柳 綾乃、三五歳ーーー」

「ーーーやめろ‼︎」

必死に、御園生の声を掻き消すほどの、大声を上げる。

ピタリと御園生は黙り込む。けれどその表情は涼しげなままだ。

それがまた俺の心を掻き乱す。

「お前がどうしてここにいるのかは、分かった。それが分かっているなら尚更、そこを退いてくれ」

懇願する。

けれど、御園生は首を横に振った。

「……そうか、分かった。なら力尽くで退かしてやるよ」

俺は中学時代によくやった、喧嘩の構えをとる。

大丈夫だ。感覚は忘れていない。

軽く押さえ込んで、その間に飛び降りる。それで終わりだ。

俺は少し勢いをつけて踏み込む。技も何もない、避けようと思えば避けられる踏み込みだ。

けれど御園生はその場から動かなかった。その代わりに、彼女の艶のある唇が動く。

「無理だよ。君はもう、自分の為に他人を傷付けられない」

その瞬間、俺の足は駄々を捏ねる子どものように自由が利かなくなる。ピタリと動かなくなって、俺は前につんのめるようにして転んだ。

突然のことに受け身も取れず、顔を強かにぶつける。けれど、その痛みよりも驚きの方が俺の心を支配していた。

「何でだ……」

分からない。どうして目の前の、それも良く知りもしない女に、一言言われただけで身体が言うことを聞かないのか。

「教えてあげるよ。喧嘩はしない。君はそう誓ったみたいだけど、心はもっと深い傷を負っているんだよ。だからいくら真くんが喧嘩をしない、程度に思っていても、心はそうじゃない。真くんの心は、他者を傷付けるその行為自体を拒絶しているんだよ」

「……まるで心理学者か精神科医みたいな物言いだな」

「お母さんが精神科医なんだ。これは全部お母さんの受け売り。名前は御園生 紫苑。聞いたことあるでしょ?」

俺は頷く。

その名前は勿論聞いたことがある。

なんと言ったって、その名前の女性こそが、柳 綾乃の主治医、その人なのだから。

そしてようやく繋がりが見えてきた気がした。

つまり御園生は、柳 綾乃の主治医の娘で、多分柳 綾乃とも面識があったのだろう。その過程で、俺のことを聞いたのかも知れない。

「愛する者が死んだ時には、自殺しなけあなりません。

愛する者が死んだ時には、それより他に方法がない。

この詩、聞いたことあるよね?」

俺はまた頷く。中原中也の春日狂想だ。

それは、物好きな柳 綾乃が好きだった詩の一つであり、俺の自殺の理由でもあった。

「この詩の続きは知ってる?」

俺は首を横に振る。

よくこの一節を口ずさんでいた柳 綾乃だが、この続きを口ずさむことはなかったし、俺自身、あまり続きに興味はなかった。

御園生は美しいテノールで、詩の続きを奏でる。

「けれどもそれでも、業が深くて、

なおもながらうことともなったら、

奉仕の気持ちになることなんです。

奉仕の気持ちになることなんです。」

その続きは、俺にとってあまりに衝撃だった。

あの人の為に何が出来るのだろう。ずっとそれを考えて考えて、ようやく出せた『自殺』という答えが、根底から崩れていくのが分かる。

「真くんがさ、本当に綾乃さんのことを想うなら、奉仕の気持ちにならなきゃいけないんじゃないかな」

奉仕の気持ち。それが柳 綾乃が俺に求めていたものなのか?

けど、柳 綾乃は間違いなく俺を恨んでるはずだ。何故なら柳 綾乃を殺したのは俺なんだから……。

それなのに、俺に生きろだと?

一人のうのうと生き残って、余生を過ごすなんて、そんな不公平が許される訳がない。

「俺は、死なないと。でなければ、不公平じゃないか」

「不公平、ね……」

そう呟くと、御園生は俺から視線を外し、明後日の方向に目を向ける。その目はどこか遠くを見ているようで、まるで御園生だけ別世界にいるような、不思議な感じがした。

「それは楽をしたいだけじゃないかな?君はきっと、もっと苦しんで、もがいて、綾乃さんに恥じない人生を送らなきゃダメだよ」

御園生の声は別に大きい訳じゃない。けれどもその声は、俺の耳にやけに響いた。まるでそれが正しいと認めてしまったかのように、心が素直に受け入れてしまう。

そして俺は、気付けば御園生に訊いてしまっていた。

「そうすれば、許してもらえるか……?」

すると御園生は困ったような表情を浮かべる。

「私は綾乃さんじゃないからね。綾乃さんが許してくれるかは分からないよ。けれど、その可能性は今死ぬよりもずっと高いと思う」

そうなのだろうか。もしかしてあの人は、こうなることを見越して、あの詩を俺に遺したのだろうか。

けれどそんなの全く関係なくて、ただ俺を恨んで、あの詩を遺したのかも知れない。

様々な可能性が頭の中を過っては堆積していく。

けれどそれを吹き飛ばすかのように、俺は御園生に勢いよく腕を引かれる。

「あれこれ考えちゃうよりもさ、行動しようよ!後悔するのはそれからでもいいでしょ?」

何だか上手く乗せられている気がするが、深く考える暇もなく、ぐいぐいと腕を引かれ、屋上から連れ出されてしまう。

「もう自殺しようなんて考えないこと!また明日会おうね!」

それだけ言うと、御園生は駆け足で去っていった。

俺はというと、今日の色々について考える為に、今日は渋々帰路についた。

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生きること。 糸杉珋 @zypressen-1119

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