農協おくりびと (69)昭和20年。日本を襲った2つの台風
「敗戦で日本は、食糧の供給基地であった朝鮮や台湾、満州を失った。
戦争を遂行するため、あらゆる農業資材を取り上げ、農村からたくさんの農民を
戦争に動員したことが裏目に出た。
労働力の減少と、作付面積の減少で昭和19年から20年にかけて、
国内の農産物はかってない大減産になった。
昭和20年は、まれにみる冷夏だった。
このままでは一千万人が餓死するという、緊急事態が戦後の日本に発生した」
「戦争に敗れたうえ、人手不足と冷夏による農産物の大減産ですか・・・
初めて聞きました、そんな話」
「当たり前じゃ。学校では教えてくれない、本当の戦後史じゃ。
飢餓状態に陥っている敗戦直後の日本を、相次いで2つの台風が襲った。
ひとつは9月17日にやってきた枕崎台風。
もうひとつは、10月9日に上陸した阿久根台風じゃ。
ふたつの台風は、九州、四国、近畿、北陸、東北地方にいたる日本全土に、
実に甚大な被害をもたらした
名前くらい、お前さんも聞いたことが有るじゃろう」
「ごめんなさい。それも知りません・・・そんな昔の台風のことは・・・」
「知らんのか、お前は!。
いまどきの若い者は。まったくもって仕方がないのう。
沖縄付近を北上した台風16号は、9月17日、鹿児島県の枕崎市に上陸した。
死者2,473名。行方不明者1,283名。負傷者が2,452名。
家屋の損壊は、89,839棟。
273,888棟が浸水するという、途方もない被害をもたらした」
「すさまじい被害を出したのですねぇ・・・終戦直後にやって来た枕崎台風は。
で、もうひとつの阿久根台風は、どうだったのですか?」
「10月4日にサイパン島の東海上で発生し、北西へ進んだ台風20号は、
9日、沖縄本島の東に停滞した。
その後。次第に発達しながら進路を北寄りに変えた。
10日の14時。鹿児島県の阿久根市付近に上陸した。
さらに北東へ進み、周防灘から中国地方を通って日本海に出た。
能登半島付近を通過し、津軽海峡の西海上で消滅した。
九州から中部地方にかけて、降水量が、200~300mmを記録した。
おおくの家屋が流失し、各地で浸水が多発した。
兵庫県で、200人を超える死者が出た」
「敗戦で全身ボコボコに打たれて、ダウン寸前になっているところに、
とどめのカウンターパンチを浴びたようなものです・・・
当時の食糧難は、さぞかし悲惨だったのでしょうねぇ」
「九州地方の飢餓状況を、佐藤節という人が記録した文章が有る。
食べられるものなら、なんでも食べた。
戦争末期からは、米・麦・さつまいも ・じゃがいもなどをはじめ、
野菜・魚・みそ・しょうゆ・砂糖にいたるまで配給だった。
食糧不足に苦しむ人々は、わずかな土地でも耕した。
さつまいもや、かぼちゃを植えた。
ノビルやハコベなどの、食べられる野草も食卓にのぼったそうだ。
それだけじゃないぞ。
20年10月11日。別府市は、ドングリ食糧化の通達を市民に出した。
30日には、カヤ、アベマキ、ナラ、クヌギ、カシ、トチなどの
木の実の採集通達を出している。
木の実のアクを抜き、食糧にしようというこころみだ」
「うそでしょう、そんな歴史は学校で、1度も教わりません。
戦後、米軍のGHQに占領されたけど、平和憲法を手にした日本はその後、
見事に戦災から立ち直ったと、教わりました」
「嘘など言わん。これが事実じゃ。
日本の権力者たちは、都合の悪い歴史に蓋をする癖がある。
敗戦の年の暮れから始まった食糧の遅配が、21年に入るとさらに深刻化した。
都市部で、「米よこせ運動」が頻発した。
昭和21年の5月19日。皇居前広場で「飯米獲得人民大会」がひらかれた。
この集会には、飢えに苦しむ25万人以上の人々が集まった。
さいわいなことに、昭和21年のコメは大豊作になった。
食糧危機は一息つくが、まだまだ根本的に問題が解決したわけじゃない」
「だから防風林を壊して、農地をひろげる必要があったわけなのですね!」
「お、ようやく正解だ。
なんだか農協の職員らしくなってきたなぁ、お前さんも」
(70)へつづく
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