農協おくりびと (62)もうひとりの、ちひろ
居酒屋『ゆうりん』へちひろが到着したのは、午後の8時半。
女将のちひろは、今日も着物姿が似合っている。
あごのラインがすっきりしているから、なおさら着物が似合う。
(良いなぁ着物が似合う人は。わたしとは月とスッポン以上の差が有る・・・)
女将の着物姿を見るたびに、ちひろがあぁ~と溜息をつく。
光悦が、チラチラと柱時計を気にしている。
(変ですねぇ。電車の時刻まで、まだ1時間以上も残っているはず。
いまから、時間を気にする必要はないはずですが?・・・)
いつもと違う光悦の様子に、「何かあるな」とピンとくる。
果たして。それから5分も経たないうち、光悦の携帯が鳴りはじめた。
「すこし、外してもいいか?」携帯を握り締めて、光悦が席を立つ。
よほど聞かれたくない内容なのだろう。
ピタリと入り口のガラス戸が閉められる。
光悦が携帯を握り締めたまま、広場の方へ歩いて行く。
(気になるわねぇ。誰からの電話だろう?)
背中を向けたまま、電話している光悦へちひろが疑いの眼差しを向ける。
3分ほどで、光悦が戻ってきた。
「申し訳ない。急用が出来ちまった。迎えの車が来るのでこれで失礼する。
あとで埋め合わせするから、今日は、このまま見逃してくれ」
ちひろに何か呑ませてくれと、カウンターの上に1万円札を置く。
「何なの、いったい!。人を呼びつけておきながら、先に居なくなるなんて。
失礼にもほどが有るわねぇ、あんたときたら!」
血相を変えて立ち上がるちひろを、女将が「まぁまぁ」と手で制する。
女将のちひろは、いきさつを把握しているようだ。
「あとで電話を入れる。次は、来月の半ばに帰って来る。
そんときに何か旨いものでも食わせるから、それで勘弁してくれ。
じゃあな。元気でいろよ。また会おう」
カラリとガラス戸を開け、光悦が居酒屋を勢いよく飛び出していく。
すべてが、あっという間の展開だ。
到着したばかりのちひろには、何が何だか事情がわからない。
だが、女将のちひろは涼しい顔を崩さない。
ほほ笑みを浮かべたまま、駆け去っていく光悦の後姿を見送っている。
「あんた。何か知っているんでしょ。
知っているなら、全部教えて。
わたしだけ、蚊帳の外におかれているようで、気分が悪いわ」
「いいわよ。わたしが知っていることは、全部教えてあげる。
で。何から聞きたい?
光悦クンには秘密があるのよ。それも、思いのほかたくさんね」
女将のちひろが、光悦にはたくさんの秘密が有ると、涼しい口調で言い切った。
秘密?・・・光悦はたくさんの秘密を、持っているのだろうか?
ちひろが思わず、自分の耳を疑う。
しかし女将のちひろは涼しい顔のまま、穏やかな目でちひろを見つめている。
「たくさんあるの?。光悦の秘密って・・・」
「たぶん。あんたの知らない話が、たくさん出てくると思う。
たとえば今日の通夜も、そのひとつ。
光悦クンがなぜ今夜の通夜に、わざわざ奈良から帰って来たと思う?」
「故人と特別の関係が有る場合とか、身内の中に、
特別な関係の者が居るような場合、などが考えられるわねぇ・・・」
「あなたの眼から見て近親者の中に、こころ当たりの人が居たかしら?」
「30歳くらいで、どこかで顔を見た雰囲気の女性がひとりいたわ。
でも。いくら思い出そうとしても、記憶がよみがえってこないの。
中学生くらいの子が2人、いつまでも光悦を見つめていたのも気になりました。
知り合いを見るような目をしていたのよ。あの2人は・・・」
「それって、同級生だったもうひとりのちひろが、10代の時に産んだ、
男の子と女の子の双子なのよ」
「え。もうひとりのちひろが産んだ双子?・・・あっ!」
ちひろの脳裏に、10数年前の記憶がよみがえってきた。
もうひとりのちひろは、中学2年の夏に突然、ちひろの前から姿を消した。
遠くへ行ったわけでは無い。
ただ理由も言わず、忽然と、みんなの前から姿を消した。
行方知れずのちひろが話題になったのは、それから数年後のことだ。
もうひとりのちひろが、男の子と女の子の双子を産んだという話をある日突然、
ちひろが耳にする。
(63)へつづく
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