第5楽章 1年1組基礎練教室
「おっす。待たせたね」
1年1組の教室の扉を開け、大村が顔を出す。霧野は自分の机にうつぶせになって寝そべり、だらけた姿勢で待っていたが、大村が来ると体を起こし、少し姿勢を正す。
「あ……そういや自己紹介まだだったな。俺は二年の大村裕二。一応パーカッションのパートリーダーをやってる。昨日の二人……安田千里と、君と同じクラスの佐々木優人は俺の後輩だ」
「えっと……。……その二人は?」
霧野がなぜかいつもとは違う、少したどたどしい口調で大村に尋ねる。
「ああ、あの二人は今部室……視聴覚室で練習してる。ちょっと三年生の先輩に面倒見てもらうように頼んできたから、今日は君に付きっきりで教えてやれるよ」
「そう……。……ですか」
霧野は大村と二人きりで練習を教えてもらうということを聞いてか、少し緊張した面持ちになる。
「あ、それとも部室に来る? そこならパーカスの皆が揃ってるし、紹介もしてやれるけど。楽器だってあるし……」
大村は緊張した面持ちの霧野を気にかけてそう言うが、霧野は即座に断る。
「それはいい。……です。……紹介とかいらないし、注目浴びるのも嫌だから」
「そっか、君がいいなら構わないんだけど」
(部活に入る気がない理由とか聞いてみたいけど……あんまり詮索しない方がいいかな)
大村はそう思って、霧野の顔を見る。
「そういえば……名前聞いてなかったな。確か……霧野さんだっけ」
「それで合ってます」
大村は名前まで聞こうとしたが、霧野に先にそう言われて会話がそこで終わってしまう。
大村は無理に名前を聞き出すのも気が引けて、壁に貼られている、このクラス……1年1組の全員の名前が出席番号順に書かれている紙に目をやる。そしてそこから霧野の名前を探し出す。
(霧野……由希か)
大村は密かに名前を確認し、再び霧野の方に向かって言う。
「じゃ、霧野さん。一度やってみようか。まずはバチの持ち方から教えるよ」
大村は黒い色の細長い袋――スティックケースを手に取り、その中に入っているバチを取り出す。霧野が身を乗り出してそれを見る。
「これがバチ……正式にはスティックって言うんだけど。今出したのは基礎練用の、初心者が使う太めのバチだ。慣れてきた時とか楽器に使う時のバチはこっちの……それよりはちょっと細めのを使うんだけど」
霧野は大村の基礎練用のバチと楽器用のバチをそれぞれ触らせてもらい、目を輝かせる。
「……こっちのほうが格好いい。……です」
霧野は特に楽器用のバチに惹かれたようで、じっくりと眺めたり感触を確かめたりして。嬉しそうな表情でバチを堪能している。
(バ、バチを持たせただけでそんなに嬉しそうにしてくれると、こっちも教えがいがあるな。確かに初めて触ったときは俺も嬉しかったっけ……この子を見てるとちょっと初心を思い出せていいな)
大村はそう思ってバチに魅せられている霧野を微笑ましく思いながら、しばらく観察している。
(この子……金髪で不良っぽくて有名だとか優人に聞いたけど、一応年上の俺に対して敬語で喋ろうとするくらいの常識は持ってるし、わりと礼儀正しいじゃないか。たださっきから喋り方たどたどしいけど……どうも敬語喋るのに慣れてないっぽいな。あと……普段クールそうに見えて、バチを持たせた反応とか……実は感情が正直に表に出るところとかあって……今まで会ったことのないタイプの面白いヤツだなぁ。千里がこの子のことちょっと小町に似てるって言ってたから若干不安だったけど……全く似てねぇぞ。アイツにはそんな素直で可愛らしいとことかカケラもねぇし……)
大村は、霧野のことを見ながら思わず顔が緩んでいる自分に気がついて、顔を引き締めていつもどおりの表情に戻してから言う。
「そっちのバチがお気に召したようだけど、残念ながら初心者はこっちの太いバチから……と言いたいところだけど、君は今日一日体験するだけのつもりだろうし、まあいいか。今日は好きなバチを使いなよ」
大村はそう言って基礎練用の太いバチの他に、あと二種類のバチを机の上に出す。ひとつは白っぽい色をした、ヒッコリーという木から作られている、バチの先端部分――チップが細長くアーモンドのような形をしているバチで、触ると固い感触がする。もう一つは、チップは先程のものより丸めの形をしている、薄茶色っぽい色をしたメイプル素材のバチで、持ってみると軽く、柔らかい触り心地である。
霧野は目を輝かせて、どのバチを使おうか手に取って触ってみたりして真剣に考えている。
「これに……します」
霧野は白っぽい色をした、ヒッコリーのバチを手に取る。
「そうか、それ俺の一番のお気に入りなんだよ。気が合うな」
大村が笑顔でそう言うと、霧野は少し顔を赤らめ、照れくさそうな表情で大村から目をそらす。
「じゃ、まず持ち方からだな。まず持つ位置は……バチの真ん中より少し下の……このあたりだ。ここを持つとバチが一番いい感じで跳ね返りやすくなる。」
大村はそう言って、バチの真ん中と一番下の端の間の……ちょうど中間あたりを指差す。
「で、持ち方は……ちょっと手のひらを広げて、俺と同じようにやってみて」
霧野は大村に言われ、手のひらを上に向け広げる。大村は自分の手にバチを置いて説明する。
「まず人差し指と平行になるようにバチを置いて……親指の下の少し肉がついてるところに乗せる。それで……人差し指から小指までの四本の指を内側に折って、最後に親指も同じようにしてバチを握る。それを裏返して、手の甲を上に向けたら完成だ。」
霧野も大村のやるとおりにやってみて、バチをぶんぶんと振ってみる。
「うん、もうちょっと力は抜いていいよ。バチを振る時はバチと手のひらの間……ここにちょっとくらい空洞ができるくらいで、親指と人差し指以外は……」
大村が霧野の持ち方を見て訂正しようとして、霧野の指に少し触れる。霧野はびくっとしてバチを落としてしまう。カランカランというよく響く音がしてバチが床に転がる。
「……すんません」
霧野がぼそぼそと謝り、バチを拾って傷でもついてないかと不安げに確かめる。
「ごめん、俺が力入れるなって言ったから……握る力加減としては、親指と人差し指はしっかりめに、他の指は軽く添えるだけって感じかな。あ、そんな傷ついただとか気にしなくても平気平気。普段から叩きまくってるから既に傷だらけだし。……で、続きだけど、手の甲を上にしてこうやって……腰のあたりで構えてみて」
霧野がバチを持ち直し構えている間に、大村は黒い三角錐の形をした自分のメトロノームを取り出し、針と目盛の上にかぶせてある透明なフタを外す。そして針についている重りを80に合わせ、ネジをまわし、そしてネジの上にあるつまみを「4」と書かれている位置まで引っ張りだしてセットする。
するとメトロノームは、一回目にチーンという高い音がしてからカチ・カチ・カチと3回音が鳴り、その後チーンと鳴って……を繰り返す。
大村は黒い筒のような小さなケースから粘土のような見た目のパッドを取り出して少しだけちぎり、霧野の机に貼り付ける。
そしてその上に、丸い形に切った黒色のゴム素材を貼り付けた四角い木の板を乗せて固定する。
「じゃ、今からこのチーンっていう音に合わせて、その板の真ん中の、黒色のゴムの部分を叩いてみようか。足は肩幅くらいに広げて、肩の力は抜いて自然な感じで構えて。じゃ、まず俺が見本するから」
そう言って大村は霧野の横の机にパッドの残りをくっつける。そしてバチを構え、説明しながら手本を見せる。
「まず、チーンって音がしたら右手をゆっくりと……手首から先に、目の横あたりまでまっすぐに上げる。メトロノームのカチって音が3回聞こえたところで、手首を後ろに素早く返してすぐに腕を下ろしつつ、手首を前に返してチーンって音に合わせて一回パッドを叩く。叩き終わると同時に左手もまっすぐ上に上げて……同じ動作をする、それを繰り返していく感じかな。もしできそうなら、君も俺を真似て横でやってみて」
大村はしばらく同じ動作……全音符の基礎連を続けてやってみせる。霧野はその流れるような動きを、とても真剣に、そして少し憧れの混じったような眼差しで見つめている。
そして意を決したようにバチを構え、自分もやってみる。大村と比べると、力が入っていて、かなりぎこちない動きになる。
「もうちょっとリラックスした感じでいいよ。コツを教えるとしたら……バチと腕は平行にして持って……前に柱かビルかなんかがあると想像しながら真っ直ぐにあげて……手首を後ろに返す時と叩く時は手首を柔らかくして、スナップを効かせる感じかな。あと……叩いた後は軽く添えている中指、薬指、小指で叩いた時のバチ跳ね返りを止めて、また逆の手の動作に……」
大村はそこまで言って、ふと霧野を見て口をつぐむ。
(なんか……一気に教えすぎか?体験してみるだけだし、細かいとこまで指摘しない方がいいのか……。でも間違ったまま教えるっての俺は許せないし、真剣にやってるこの子にも失礼だよな……)
大村は自分の手を止めて、霧野の基礎練を眺める。霧野はしばらくぎこちない様子で基礎練をしていたが、ふと手を止め大村の方を振り返る。
「あの、手首を返した時……肩にバチが当たるんすけど……」
「あー、そーいや俺もはじめはそうなったな」
大村はそれを聞いて笑みを見せる。
「勢いが良いのはいいことなんだけどそれじゃあ痛いから、肩にぶつかるようなら手の位置を少し前に押し出すように上げて……そう、それくらい前に出した方が、横から見たら真っ直ぐに上がってるように見えるから。それで……」
大村は時々霧野の質問に答えたり、指摘したり説明を挟んだりしながら霧野の基礎練を、結局入部した後輩に教えるくらい詳しく教えてしまう。
そんなこんなで2時間近く経過し、辺りがすっかり暗くなってきたのに気づいた大村は時計を見る。
「げ、もう5時半か……。暗くなってきたし、そろそろ終わろうか。悪いな、長い時間引き止めて」
「いえ……その……ありがとうございました」
霧野はそう言ってぎこちない様子でほんの少しだけ頭を下げる。大村は基礎練道具を片付けながら霧野に喋りかける。
「どうだ、基礎練……同じ動作の繰り返しで結構地味だろ」
「……でも、なんか楽しかった。……っす」
霧野はそう言ってほんの少しだけ口元を上げる。
「そうだな、慣れてくるともっと滑らかな動きができるようになるし……結構楽しいぞ。それに打楽器の演奏はもっと面白いからな。色んな種類の楽器が
霧野はそれを聞いて大村の顔を、少し困ったような顔で見、ふっと目を逸らす。そして手に持っているバチを見てはっとし、大村にそれをおずおずと差し出す。
「あ、これ……返します」
「ああ、ありがとう」
大村は霧野からバチを受け取る。その際、霧野が少しだけ名残惜しそうな表情でバチを見つめているのを見て、大村はにやりと笑う。
「お、もしかして……もうちょっとやりたかったか?」
「……正直、もうちょっとこのバチ持ってたかった……っす」
霧野はそう言って少しだけ笑顔を見せる。
「ゴメンな、俺も部活終わるまでにちょっとは顔出さねーとパーカスの皆に怒られるからさ。もしまた基礎練やりたくなったら今日みたいに優人に言ってくれよ。この教室でやりたかったら俺またここに来るし、部室に来てみたかったら優人に連れてってもらえばいいから」
大村のその言葉を聞いて霧野は目を見開き、そして嬉しそうに頷く。
「じゃ、そろそろここの教室閉めて出ようぜ。見回りの先生に戸締りするからって約束で、この教室使わせてもらってたからな」
大村はそう言って机に置いていた鍵を手に取り、二人とも教室を出たところで鍵をかける。その後ろで、霧野は先程までバチを持っていた手を眺め、その手を握ったり開いたりしている。
そしてその目は――――いつも教室で見せている気だるそうな感じではなく、別人のように、きらきらと輝いていた。
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