第2話 魔女は竈へ……

 道なき道を進む一行は、グレーテルがすばしっこく駆け抜けるのを追いかけるのでやっとだった。時には巨大な木の根を跨ぎ、時には小さな浅い川を歩いて超え、道なき道を休まずに歩く。そしてひたすら鬱蒼とした森が続く。帰り道が見えなくなるほど長く歩くと、開いた土地に辿り着いた。森がざわめいて心地の良い風が通り抜ける。グレーテルはふり返ると、息も絶え絶えになった一行に向けて手を振った。

「もうすぐだよ、こっちこっちー!」

 声が木々に反響して、葉が落ちる。タオが「元気だなぁ」といってため息を吐く。シェインは頷いて、「元気すぎますね……」と呆れたように言った。エクスは「やっぱり森の中に住んでいるとなれるんだろうね」と言い、汗を拭う。

 一行は天を仰ぐ。森の木々が途切れ、空が広がっている。どす黒い雲がヒンヤリとした風に揺らぎ、ゆっくりと動いていた。

「それにしても、こんな場所があるなんて……」エクスは口を開けて辺りを見回す。

 森の中にぽっかりとあいた広場は、丁寧に草が刈り取られ、柵に囲まれていた。柵の向こう側には深く掘られた人工池があり、そのほとりには森の中では見られない背の低い花や三つ葉が咲いている。池の反対に目を向けると土を高く盛られた畑があり、根菜やハーブが植えられている。畑のさらに向こう側には、小ぶりではあるが赤い屋根の美しい家があった。グレーテルは畑を慎重に乗り越えて、家の中へと消えていった。

 シェインはグレーテルの姿が完全に扉の奥に消えた後、柵を乗り越えながら「どうやらグレーテルの家のようですね」といった。

 それに続いてタオも柵を乗り越え、畑の作物を踏まないように気を遣いながら家の方へと向かっていく。「魔女に旅人を食べさせたりしてたらどうしようかしらね」とレイナが呟くと、エクスは「大丈夫だよ、たぶん」と能天気に答えて柵を超えた。レイナは周囲を見回した後、警戒しながら柵を跨いだ。

 「もう、カオステラーがどこにいるかまでは、まだわからないんだからね?」レイナが言い終わる頃には、レイナ以外の一行は、グレーテルの家の前に集合していた。

 レイナが遅れて家の前に到着して暫くすると、家の扉が開いて少年とグレーテルが言い争いながら出てきた。少年は緑の帽子をかぶり、短くそろえた金髪をサラサラとなびかせている。

 グレーテルほどではないが、森で暮らすにはやや心許ない肉付きに見えた。少年特有のふっくらとした頬は赤みがかっており、グレーテルに劣らずあどけなさが抜けきっていない。先に出てきた少年は一行の視線を受けて狼狽えた。グレーテルは頬を膨らませながら少年の袖を引っ張っている。

 一行を一通り観察した少年は、「グレーテルが迷惑をおかけしました」と恐る恐る頭を下げた。

「構わないよ。それより、頼みたいことって何なの?」エクスが質問をすると、グレーテルが少年の服の裾を一層強く引っ張る。

 少年ははいはいと言ってグレーテルの頭を軽くなでながら、申し訳なさそうな顔をエクスに向けた。

「実はですね、この家の見張りをしてほしいんです。この辺りに最近黒い生き物がうろつくようになったんです。うろつくだけならいいんですけど、作物をつぶしたり、薪の上で昼寝していたりして、御飯も作れなかったりして……」

 深刻な表情で続けた少年は、しきりに頭を上げながら、一行の顔色を窺った。タオが威勢のいい声で「それは俺たちの専門だぜ」と答えた。

 一行は自分たちがこの想区に訪れたいきさつを簡単に説明し、彼らの見た生き物がヴィランという名前であること、そのほか重要な事項を簡単に説明した。少年とグレーテルは注意深く話を聞き、一通りの話が終わると二人でひそひそと相談をし始めた。

 二人は一通り相談をして頷き、ヘンゼルが一行の方に手を差し出し、「お願いできますか?」と訊ねた。

 グレーテルは満足げに頷きながら、キラキラとした瞳を一行に向ける。タオはその手を強く握り返し、森に響くほど大きな声で「任せとけ、タオ・ファミリーの実力、見せてやるよ!」と言った。

 その瞬間、木が倒れるような鈍い音が近くで響き、一行がふり返る。視線の先には薪置き場があり、積まれた薪が雪崩れて周囲に散乱していた。その中に、体の大きいヴィランがひっくり返っている。森の中から巨大なヴィランを取り囲むように羽を持ったヴィランが数羽飛び出し唸り声をあげた。それを見て顔を青くしたグレーテルが悲鳴を上げてしりもちをついた。ヘンゼルは「大丈夫?」と言ってグレーテルの手を取る。グレーテルは荒い呼吸を何とか整えて頷いた。ヘンゼルは一行に視線を戻し、「お願いします」と言う。一行が頷き導きの栞を取り出すと、ヘンゼルは扉を閉めて家に鍵をかけ、木枠の窓から外の様子が見える位置に移動した。

 ヘンゼルとグレーテルは手を握り合って外の様子を固唾をのんで見守る。導きのしおりを挟んだ一行は光に包まれ、それぞれの姿を変えてヴィランに立ち向かっていく。タオは巨大な盾を構えながらゆっくりと弓を持つヴィランに近づき、その背後からシェインが弓を構える。ヴィランは矢を放ったが、巨大な盾に阻まれてしまう。シェインが放った矢はヴィランに真っすぐ向かって飛び、ヴィランの羽を貫く。ヴィランは森の中に潜り込んで矢を放つが、盾が邪魔で射貫くことができず、結局逃げていった。二人が少し視線をずらせば、エクスが弓を構えたヴィランめがけて走っている。ヴィランは矢を放ったが、肩を軽く掠った程度で、うまく当てることができなかった。そのヴィランの背後にレイナが回り込み、魔法を放つ。ヴィランはひっくり返り、エクスがそのヴィランに剣を突き刺した。ヴィランは動かなくなる。一行が最後に巨大なヴィランの方を睨むと、ヴィランは唸り声をあげて巨大な爪を振りかざした。グレーテルはヘンゼルの手を強く握る。ヘンゼルはグレーテルに身を寄せて軽く背中をたたく。

 グレーテルは声を押し殺しながら「あの栞、凄いね……」と囁き、ヘンゼルを上目遣いで見た。ヘンゼルは唾を飲み込んで目を逸らし、額に汗をかきながら窓の向こう側を見る。グレーテルの小さな笑い声がヘンゼルだけの鼓膜を震わせた。ヘンゼルの瞳にはヴィランの爪を何とかかわし、応戦を試みる一行の背中が映る。盾を構えたタオが視界に入ると、再び唾を飲み込んだ。

 巨大なヴィランが動かなくなったのを見計らって、ヘンゼルは扉の鍵を開ける。ヘンゼルが恐る恐る顔をのぞかせると、エクスがそれに気づいて大げさに手を振った。ヘンゼルは安堵の息を吐く。彼はグレーテルに微笑むと、グレーテルも立ち上がりヘンゼルにくっついた。ヘンゼルは一行のために扉を大きく開き、戻ってくるのをじっと見つめる。一行は家に向かって歩きだした。シェインが倒れたヴィランの方を睨みながら家に戻ってくるのを見て、ヘンゼルは緊張した面持ちになり、再び唾を飲み込んだ。


 「おぉ……!」

 シェインが思わず溜息を漏らす。屋内は実にいい匂いに包まれていた。オリーブ油を敷いた鍋の上でハーブとともに焼かれ、じゅうじゅうと鳴く鶏肉から立ちのぼる湯気が、その暴力的な香りを携えて家じゅうを包み込み、各々の鼻をくすぐる。平らで硬いパンをそれぞれのもとに置かれ、艶やかに光を放つ蜂蜜菓子や色とりどりの野菜を使ったサラダが赤く塗られた木製のボウルの中で待ち遠しそうに天井を見ている。ヘンゼルが冷えた井戸水をブリキの水差しに入れて机に置き、自らの席に着く。最後にグレーテルが手製のソースをサラダにかけて席に着いた。旅人たちの目の輝きに、

グレーテルは思わず噴出し、「どうぞ、召し上がれ」と言って一行に手のひらを向ける。

 思わず涎を飲み込んだレイナが硬いパンの上に一切れの肉を置いて齧り付く。それに対抗するように一行は一斉に食べ始めた。肉から染み出た油がパンをちょうどよい食感になるようほぐし、そうかと思えば口の中で胡椒の刺激的な味が染み出し、鼻で、舌の上で暴れまわる。

 この想区に来てから味のほとんどしない干し肉や腐りかけの豆ばかり食べていた一行は、思わず「うまい!」と叫ぶ。彼らは一度口をつけたら手を止めることなく食べ続け、たちまち食卓の上は空になった。

 食事を終えた一行に対し、ヘンゼルは「中でお休みになられますか?」と訊ねながら毛布を引っ張り出す。

 「有難う、でも、大丈夫よ」レイナは一度咳ばらいをして言うと、エクスが頷いて、「そうだよ。逃げたヴィランが戻って来たら危ないしね」と言って微笑んだ。ヘンゼルは毛布を持ったまま、「そうですか……」と、少し寂しそうに言った。グレーテルの後片付けを手伝っていたシェインは手を拭いながら「いつも通り見張りは交代制にしましょう」といって、ヘンゼルの手から毛布を受け取る。

 そのまま広い場所へ移動しようとしたシェインをタオが「こら、早速さぼんな」と引き留める。

 シェインは「ちゃんと後で交代しますよ。タオ兄も後半にされますか?」と言って強引にタオを引っ張る。

 エクスが「じゃあ、僕たちが先に見張りしていようか」とレイナに向かって言い、外へ出る準備を始めた。シェインは満足そうに笑みを浮かべ、「交代になったら起こしてください」と言って程よい広さの床に布団を敷き、颯爽と毛布を羽織って横になった。すぐに寝息を立てるシェインを見ながら、タオが「相変わらずはえーな……」と呆れ顔で言い、レイナとエクスに向かって「悪い、先頼むわ」と申し訳なさそうに手を合わせる。

「えぇ、おやすみなさい」

 レイナはシェインの方を一瞥して扉に手をかけた。ヘンゼルとグレーテルは二人に向けて手を振り、二人が外に出ていくと、「グレーテル、そろそろ寝よっか」と奥の部屋へと入っていった。


 月は煌々と青白く、竈はぼうぼうとうめき声を上げる。少年の瞳に映るのは、仰々しくも愛おしい何かだった。蝋燭は照らさず、竈の炎が明かりの代わりをしていた。竈の向こうには黒く悍ましい何かがあり、愛おしい何かは微笑んでいた。「あの栞は高く売れそうだね」機嫌のよいグレーテルを直視できないで目を逸らすヘンゼルは、何を答えるでもなく竈から上がる煙を眺めていた。

 グレーテルが呼びかけると、ヘンゼルは我に返ってひきつった笑顔を見せる。グレーテルの目は細く、鋭くヘンゼルを捕らえていた。

「お兄ちゃんは私の味方だよね」

 グレーテルが竈の火をかき混ぜながら言う。竈から低く響くうめき声がする。ヘンゼルは顔面蒼白になって頷いた。

「何かあったら、僕がグレーテルを守るよ……」

 ヘンゼルの言葉に満足げに微笑んだグレーテルは、一本の包丁を取り出して竈の煤に突き刺した。部屋中にスナックを砕くような音が響く。

「魔女は竈へ。私達が幸せを掴むための、ささやかな犠牲だよ……」

 グレーテルは竈の黒い灰を包丁に抉るように擦りつけた。小さく悲鳴と嗚咽が混じった声が竈の奥から聞こえる。パサパサとした五本の枝を持つ薪が二本、炎をまとったまま竈の中から這い出そうとする。火の粉がグレーテルの顔辺りまで上がって、灰がちになった薪などがひらひらと舞うように天へと昇っていく。グレーテルは包丁についた灰を満足げに眺めながら、恍惚の表情を浮かべている。ヘンゼルは壁に立てかけてある重そうな槌をじっと見つめ、つばを飲み込んだ。

「いずれにしても、竈の中を見られないようにしないと……」

 不安そうにヘンゼルが呟くと、ナイフを刺した際に飛び出た五本に枝分かれした薪を突き刺したグレーテルは、嬉しそうに歯を見せた。

「その時は、お兄ちゃんが守ってくれるもんね」

 グレーテルはクスクスと笑う。ヘンゼルは槌を手に取る。乾いた血が赤黒くこびりつき、恨めしそうな声で竈が鳴く。鈍い炎を赤い刃に映すと、ナイフで抑えつけられた黒い枝がバタバタと動く。のたうち回るようにして動く枝が、枝分かれした五本をぐりぐりと動かし、槌に向けて伸びようとする。ヘンゼルは下唇を噛んで嗚咽を紛らわす。

「お婆さん……御免なさい。でもね、お兄ちゃんのせいじゃないの。全部私を捨てたお義母さんとお父さんが悪いの。私たちのこと、ちゃんと守ってね」

 グレーテルは嘲るように笑い、ナイフで枝をぐりぐりと捻る。竈は地の底まで響きそうな呻き声で鳴き、炎が一層大きくのぼる。ヘンゼルは堪えきれずに涙を目にためながら、手で口を覆った。

 家の外から共鳴するような低い声がこだまする。家のドアを開く音がして、家の外から誰かを呼ぶ声がする。向かいの部屋からバタバタと音がする。やがて音は遠ざかっていき、家は再び静けさに包まれた。

 グレーテルは「外が騒がしいね」といじわるに笑う。

 ヘンゼルは、額にじっとりとした汗をかきながら、「きっとうまくいくよ……」と呟いた。

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