第12話 夫婦げんか
私はその二人が見ていられないけれど、夏樹の指示で客室へと二人を案内した。
無言で部屋へと入っていく二人をやるせない気持ちで見送り、
「いい? 変な気は起こしちゃダメだからね。最後まで諦めてはダメよ」
と言い置いて、リビングへと戻った。
ソファに座っている夏樹は、腕を組んでままで目の前のテーブルをにらみつけていて、決して私と目を合わせようとしない。
私はそのそばに行き、
「なぜなの? 私たちならアリアを助けられる。なぜダメなの?」
と夏樹に問いかけた。
夏樹はしばらく無言だったが、やがて、
「……これ以上、この時代の歴史に、俺たちが介入するわけにはいかない」
と静かに、説明するように言った。
それを聞いた私は、思わず夏樹に詰め寄って、
「それじゃ! アリアを見捨てるって言うの! だって、私たちは相思相愛の恋人を守護する権能があるんでしょ?」
夏樹はがたっと立ち上がって、私を見下ろした。
今までにない緊迫した空気が私たちの間にただよう。
外の風がひときわ強く吹いて、雨戸を叩いた。大きな音が響き、空ではゴロゴロと雷が何かを狙っているように音を立てている。
夏樹が顔を曇らせた。その表情には怒りでもなく、ただ悔しさがあふれていた。
「すまん。春香。俺だってアリアを助けたいんだ。……でもな。俺たちは本来、この時代の人間じゃない。無闇に神の力で干渉していいわけじゃないんだ」
わかってる。わかってるのよ!
それでも! アリアを助けたいっていう思いが、まるでマグマのように、胸の中でじくじくと熱を帯びているのよ。
私は声を震わせながら、テーブルに手を叩きつけて、
「それでも……、私は、アリアを助けたい。……ねえ。夏樹? ダメなの? どうしても、ダメなの?」
――その時だった。
はるか頭上の空より、バリバリバリっっとものすごい音と振動が響き渡って雷が近くに落ちた。
それも一度ならず、二度、三度。いいえ。幾度も重なり合うように雷が落ちている。
ビリビリとした振動が続き、おそらくほんの10秒間ほどの出来事だったと思うけれど、まるで数十分も雷が落ち続けていたような気がする。
突然の落雷に私たちの緊迫した空気も霧散したけど、突然強大な神力の波動を感じる。
夏樹はあわてて、
「こ、この神力は! 外を確認してくる!」
「私も行くわ!」
と私も夏樹と一緒に走って玄関に向かった。
夏樹が玄関のドアを勢いよく開くと――、
私たちの目の前に、一人の東洋風の甲冑を身に纏った壮年の男性がたたずんでいた。
どこかで見たような目で私たちを見る、その男性。
夏樹は驚きに目を見開いて、
「天帝釈様!」
と叫んだ。
え?
天帝釈様と思ってその武人を見ると、確かにそのお顔はあのラマ僧のお姿と同じ顔。
身に纏っている武具からは尋常じゃない力を感じるし、神としての威圧感もあの女神アテナに決して劣らないほどの神威を身にまとっている。
そうか。これが天帝釈様の本当の姿なのね。
あれだけ荒れ狂っていた空が、風が、急に無音になった。――いや、違う。
目の前で浮かんだまま止まっている木の葉を見る。また時間が止まっているんだわ。
天帝釈様は、私たちを見てニヤリと笑い、
「久しぶりだね。二人とも。……中に入ってもいいかな?」
と言う。
私たちは慌てて中へ入ってもらい、リビングへと案内する。
夏樹が天帝釈様を案内しながら、
「その武具はどうされたんですか?」
とうかがうと、天帝釈様はにこやかに、
「君らの夫婦げんかを止めるには必要かと思ってね」
と言う。
「はあ」という夏樹の口元が引きつっていたけど、多分、私も同じだと思う。
兜を外してテーブルにおいてソファに座った天帝釈様は、室内をぐるっと見回して、
「ほお。これが君たちの家か。こぢんまりとしているけれど、二人っきりで過ごすにはちょうどいいかもしれないね」
と穏やかに言った。
私は急いでポットに水を張って神力で湧かしはじめた。神力による物質創造でお茶のセットを作り出したはいいけれど、果たしてお出しするのはお茶でいいのだろうか?
少し迷ったものの、日本にいたときと同じようにお茶を入れるしかない。
私がお茶を淹れている間にも、夏樹は天帝釈様の向かいに座っている。天帝釈様にお茶をお出しして、夏樹の前にもお茶を出して、その隣に座った。
天帝釈様が「やあ、ありがとう」といいながら、お茶を飲む。夏樹は懐かしそうに湯飲みを見ていた。……物質創造で作ったのは昔使っていた愛用の湯飲みだったから。
「さてと、二人とも気持ちは落ち着いたかな?」
天帝釈様の言葉に、私と夏樹は二人揃って、「あれ?」と間抜けな声を出した。
そう。言い合いしていた時の荒ぶる気持ちが、天帝釈様が来臨されたことで霧散してしまっていた。
夏樹と顔を見合わせて気まずそうにうなづくと、天帝釈様は、
「君たちの知っている神話とは随分違うだろう?」
と微笑んだ。これはどや顔になるんだろうか?
確かに私たちの知るギリシャ神話では、アリアドネはミノス王の娘で、アテナイから生け贄としてやってきたテセウスに惚れたという話だった。
そして、アテナイで一緒になる約束のもとで、迷宮の設計者ダイダロスの助言を得て、あのアリアドネの糸を渡す。
結局、ミノタウロスを退治した後、伝説によって記述が違うけれど、アテナイに帰る途上の、ここナクソス島でアリアドネを残してテセウスは出発する。
夏樹はうなづいて、
「伝説は歴史の一端を伝えますが、すべてが真実ではないですからね」
と答えた。
学者である夏樹は、こういう伝説資料の扱いなどにも長けているのだろう。
夏樹の言葉に天帝釈様はうなずきながら、
「まあ、この物語の作者の問題もあるけどね。……それはさておき、私から、君たちに一つ指示を出したい」
夏樹と私がかしこまって「はい」と返事をするが、天帝釈様はいたずらをするような笑みを浮かべて、
「テセウスとアリアの遥かな子孫からミリンダ王が出る。ゆえに彼らの血筋を絶えさせてはならない。君たちには彼らを助けてもらいたい」
と言った。
ミリンダ王?
首をかしげながら夏樹を見ると、夏樹は何かに思い当たったかのように目を見開いていた。
「かしこまりました。……そうでしたか。ミリンダ王はあの二人の子孫でしたか」
ミリンダ王が何者か知らないけれど、私も力強くうなづいた。……だって、堂々とアリアを助けられるってことだもの。
とはいえ、私も事情が知りたい。夏樹の服を引っ張って、
「ミリンダ王って?」
と訊くと、夏樹はうなづいて、
「アレクサンドロス大王がインド西部までマケドニアの領土を広げるのは知っているだろ? その結果、インド西部にギリシャ人の国王が出るんだけれど、それがメナンドロス一世。通称ミリンダ王だ」
向かいの天帝釈様が補足する。
「そのミリンダ王がナーガセーナという僧侶と対話を交わし、仏教徒になるんだよ」
え? ギリシャ人の国王がインドに?
初めて知ったわ。……なるほど。それなら天帝釈様が私たちに指示を出すのも納得がいく。
でも、それより何より……。
私は夏樹を見た。
「これで堂々とアリアを助けられるわね」というと、
「ああ。……でも春香。目の前で人が殺される、または殺さねばならないこともある。大丈夫か? 俺としては、できれば安全なところにいてほしいけど」
心配げな夏樹の腕を私はつねる。
「なにを今更。一緒に異世界で修業したでしょ? ……それにね。私の居場所は夏樹のそばと決まっているの」
私がそういうと、夏樹はうなづいてそっと私の左手を握った。
天帝釈様が笑いながら、
「あははは。そうこなくちゃね」
と言って立ち上がり、
「さて、それでは私はそろそろ戻るよ。……あ、そうそう。二人を守れとは言ったが、余程のことがない限りは神力で力づくというのは止めてくれよ? できれば人の範囲の力で頼む」
という。
異世界での修業中、私と夏樹は向こうの魔王とか四天王と戦った。だから、たとえ神話の怪物ミノタウロスが相手だろうと、人の範囲で十分倒せると思う。
そのまま天帝釈様は玄関から外に出られて、見送りに来た私たちの方へ振り向いた。
そのお顔には、先ほどまでの微笑みはなく、真剣な表情が浮かんでいる。
「これから君たちは、人の醜い執着の姿や、団結の力、そして、思いもよらぬ裏切りの姿を見ることだろう。だがね。人間に失望してはいけないよ。善人も悪をするし、悪人も善を行う。……善も悪も同時に心に秘めているのが人間なのだ」
そのお言葉に二人でうなずくと、
「では。またな」と言葉を残し、一瞬のうちにその姿が消えた。
天帝釈様がお帰りになると同時に、止まっていた時も動き始め、渦巻く強風が私たちを通り抜けて家の中へと入り込んでいった。
慌てて中に戻って玄関を閉める。
かんぬきを閉め終えると、突然、私は夏樹に抱きしめられた。
「夏樹?」
たくましい腕に抱きしめられながら、私はそっと夏樹を見上げると、ぐっと夏樹の腕に力が込められると同時にキスをされる。
絡め合い、ついばむような長いキスに、脳髄が蕩けていく。私は無我夢中で夏樹にしがみついて、その唇をついばんだ。
ふうふうと息を荒げながら唇を離すと、上気した夏樹が私を見下ろしていて、
ただ一言。「愛してる」とつぶやく。
私は夏樹の胸元に頭をぐりぐりとすりつけて「私もよ」と言いながら、私たちは寝室へと向かった。
――――。
翌朝。私たちはテセウスとゲオルギウスさんの二人に、協力することを約束した。
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