第13話 クレタ島へ

 空模様は余り良くなく、今日もまた強めの風が吹いている。

 しかし、私たちの双胴船カタマランはその強い風を浴びて走るように海を駆けた。

 ナクソス島から、ケロス島、イオス島を通り抜け、テラ島(サントリーニ島)を過ぎると、前方によこたわる大きな島が見えてきた。

 あれがクレタ島だ。


 デッキで風に吹かれながら、前方を見ている私のところへ、夏樹がやってきた。

「ぶどう酒色の海原のただ中に、まわりを海に洗われた、うるわしい豊かなクレーテーと呼ぶ地がある――。オデュッセイアの一節だ。ギリシャの主神ゼウスはここで生まれたんだよ」


「ぶどう酒色?」

と聞き返すと、夏樹は、

「古代ギリシャ人の色彩表現はちょっと独特でね……。質感を言い表しているんだよ」と苦笑いしている。

「へえ。……でも夕焼けの頃はそう見えるかも」

「ああ、そうだな。きっとその時は綺麗なんだろうけど」

 そう言いながら夏樹はどんよりした空を見上げた。

 恐らく平時は美しいエーゲ海も、今日は波が高くうねっている。まるで海神ポセイドンの怒りが渦巻いているように。


 後ろからゲオルギウスさんが、

「まっすぐイラクレオンに行くと目立つ。悪いが東の方のザクロスの方へ向かってくれ!」と風に負けないように叫んでいる。

 私と夏樹はうなづいて、早速、帆を操作しに向かった。


――――

 島を右手に眺めながら迂回し、ゲオルギウスさんの指示のでマリアという街の近くに上陸した。


 街道を四人で歩くこと1時間ほどで、目の前に街が見えてきた。


「うわぁ。ナクソスともアテナイとも全然ちがうわね」

 マリアでは、貿易都市らしく様々な人種の人々と、見たこともないような物を載せた台車が行き交っている。

 男性上位の社会ではあるけれど、ここでは女性の姿も多く見える。ただ服装も色々なのできっと私たちと同じように異国の人も多いのだろう。防壁もなく、随分と開放的な空気が広がっていて、こんな時でもなければゆっくりと観光したいところ。

 正直に言って、ミノス王が恐怖政治をしていると聞いたから、もっと暗いギスギスした街の雰囲気を想像していたから、ちょっと拍子抜けしたかな。


 ともあれ、私たちはゲオルギウスさんが案内するままに、通りを抜けて街の中心である宮殿の中に入った。

 王の居城と思っていたので、こんなにあっさりと中には入れていいのかと心配。そう思いながらおずおずと石造りの回廊を進む。

 中央には長方形の広場があり、そこまで来たところでゲオルギウスさんは、「ちょっとここで待っててくれ」と言い置いて回廊の中へ中に入っていった。

 残された私たちは手持ちぶさたに広場を見まわすと、今さらのようにそこに多くの人々が働いているのが見えた。どうやら奴隷の男性たちが食料などを運んでいるようだ。

 夏樹は興味深そうに宮殿の建物や人々の様子を眺めている。その横顔を見ながら私は微笑む。夢を追いかける夏樹はやっぱり素敵だわ。その隣にいられることが嬉しいの。

 しばらくして戻ってきたゲオルギウスさんについて、私たちは宮殿の回廊に入った。

 ほこりっぽくて薄暗い回廊を夏樹の後ろに歩いて行くと、やがて広い部屋に出た。

 その部屋の中央には、あごひげをたくわえた一人の壮年の男性が待っていた。

 ゲオルギウスさんがその男性に、

「こちらがアイゲウス王の長子テセウス殿です」と紹介するや、テセウスにも「こちらはここマリアの王カトレウス様だ」と言った。

 テセウスは目を丸くして、あわててカトレウスさんに挨拶をする。

 つづいてゲオルギウスさんが、私たちをフィリラウスさんの部下として紹介する。

 カトレウスさんは、

「奴隷ではなく部下とな? 異国の者を雇うとは彼らしいな」

と豪快に笑った。


 フィリラウスさんがテセウスに預けた指輪の印章は、カトレウスさんを長とするミノス王反乱軍の印章だった。

「この島には幾人かの王がいるものの、争いもなく平和が続いていたのだ。……もっともクノッソスのミノス王が一番勢力が強くて我らのリーダーであった。彼は優しく、そして強い優秀な王だったよ」

 カトレウスさんはイスに座ってワインを片手に、そう懐かしそうに話し始めた。

 その向かいにはテセウスが同じくイスに座り、私たちはその背後に立っている。


「ところが息子のアンドロゲウスが殺されてから人が変わったようになってしまった」

 カトレウスさんの声が哀しそうに石室に響いた。

「ミノス王は我らを殺し、クレタ全島民を生け贄にするつもりだ。……アンドロゲウスを神の一人として向かえてもらうために」


 テセウスは、

「私は婚約者を救いたいのです。お力をお貸し願いたい」

と申し出る。すると、カトレウスさんはうなづいて、

「うむ。実は、ミノス王を倒した後、我らもアテナイと平和的な関係を築きたいと思っていたのだ。もし、そなたが我らの力となるならば、それは我らとアテナイとの新たな関係となるだろう」

「では……」

「協力しよう!」

 力強いカトレウスさんの言葉に、テセウスは感激に震え、カトレウス王の両手を握って、

「感謝します。カトレウス王!」

と大きな声でお礼を言った。


 さて、それから私たちは細かい打ち合わせをする。

 襲撃の日は、アテナイからの使節が到着した日の夜。

 ただしミノス王自身が力の強い武人であり、しかもその部下にはクレタ一の槍の使い手ペリペテウスがいるらしい。

 カトレウス王の部下にも槍の使い手スピアノスがいるが、ペリペテウスに勝ったことはないらしい。しかし、これは戦争。数の力で打ち倒す予定らしい。


 なお潜入部隊は、ミノス王討伐軍とアリア救出隊の二つに分かれる。これは私たちの事情も考慮してのこと。

 ミノス王討伐軍の主戦力はカトレウス王率いる軍隊で、こちらにテセウスとゲオルギウスさんも参加する。一方のアリア救出隊は私と夏樹の二人だけ。あくまでフィリラウスさんからの特命を受けた、二人だけで行くことになった。

 テセウスは救出隊が二人と聞いて心配そうだったけれど、私としては討伐軍の方が心配だ。


 これからの作戦がまとまったところで、私と夏樹は彼らとは別に動き、7日後にイラクレオンで合流することになった。


 私はテセウスの手を握り、

「アリアは私たちが必ず救出する。だから、あなたもしっかりとね。……アリアが悲しむことがないように、あなたも必ず生き残るのよ?」

と念を押す。うなづくテセウスの目には強い意志が光っていた。



 ここから別行動になる私と夏樹に、カトレウス王が好意で二頭の馬と印章をくださった。この印章があれば、外国人であっても私たちの身分の保障になる。

 早速、夏樹と二人だけで宮殿を出た私たちは、先にイラクレオンを目指す。

 カトレウス王から、クノッソスの宮殿の工事を指揮した大工ダイダロスを訪ねるように指示を受けているのだ。


 海沿いの街道は風が強く、革鎧の上に羽織ったマントをはためかせながら、私たちは馬を走らせる。


 事態は動き出した。けれど今は、ひっそりと動くべき時だ。


 背後に遠くなっていくマリアの街並。これから先には、どんな困難が待ち受けているのだろう。

 でも、……私には夏樹がいる。夏樹には私がいる。私たちなら、どんな困難も乗り越えていける。そう信じている。

 目の前で揺れる夏樹の大きな背中を見ながら、私は手綱を握り直した。


 待っていてね。アリア。

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