第11話 突然の来訪者

 一週間が経ったころ。

 その日は朝からめずらしく空がどんよりとして、強い風が海から吹き込んできていた。

 波頭から白いしぶきが立っていて、海での漁はとても無理な天気。

 飼っている馬や山羊たちも畜舎から出たがらないので、今日は外に出さないことにする。


 夏樹と一緒に畜舎の扉を固定してから、改めて空を見上げた。

 低い雲が、強い風にみるみるうちに流されていく。

 まるでこれは――、台風が来る直前みたいだ。


 夏樹が険しい表情で、

「これはかなり荒れそうだ」

とつぶやく。

 そのまま私の顔を見て「急いで家の戸締まりもしよう」といった。


 ひゅうおおおお――。

 ひときわ強い風が、私の服をはためかせて通り抜けていく。


 荒れ始めている外洋を見つめていると、妙な胸騒ぎがして思わず立ちすくんだ。

 いよいよこれから何かが起ころうとしている。

「春香! ほら。早く」

 夏樹の声に、私は我に返って急いで家に駆け込んだ。


――――。

 雨戸を閉めた室内は暗かった。

 神様となっている私たちにとって、これくらいの暗闇は何でもないけれど、心まで暗くなりそうな息苦しさを感じて二人で家のランプを点けて回る。

 最後にリビングのランプをつけた私は、そのままソファに座った。

 外からは風の音がひっきりなしに聞こえるけれど、ランプの暖かい光を見ているとなんだかほっとする。


 寝室の雨戸を閉めに行っていた夏樹が毛布を手に戻ってきて、

「こんな嵐の時は、じっとしているしかないね」

と私の隣に座る。

 家の外に渦巻く風が雨戸を叩き、ざわざわという木々の音が聞こえてくる。


「ふふふ。まるで台風の夜を思い出すわね」

「停電したときは、よくこうしてたよな」

といいながら、二人で一つの毛布にくるまった。

 まるで互いに寄り添う二匹の猫のような私たち。

 夏樹のぬくもりに包まれ、その吐息を肌に感じる。くるっと顔を見上げれば、いつもと変わらない穏やかな眼が、私を愛おしそうに見つめている。


 かつて日本で暮らしていたときも、大型の台風によって停電することがあった。

 街の道路は冠水し危険だから外にも出られない。

 そういうときは、薄暗い廊下でこうやって二人寄り添いながら座っていたのよ。

 ミシミシと家がきしむような音がしたときは、怖がる私を後ろから抱え込むようにぎゅっと抱きしめてくれて……。

 時にはそのまま二人で眠り込んで朝を迎えたこともある。

 昔も今も。このぬくもりが私を守ってくれる。そして、私も夏樹を支えるのよ。


 夏樹の胸元で顔をすりすりしていると、ふいに夏樹が顔を上げた。じっと耳を澄ませている。

「どうしたの?」

「――今、なにか聞こえなかったか?」

 外の音?

 これだけ色んな音がしては、聞き分けるのが困難でしょうに。

 私はそっと目を閉じると、意識を外の世界へと広げていく。遙か遠くの景色を見る神の眼・天眼をつかって家の周りを探った。


 幾度も押し寄せる強い風に、畜舎や家のドアがきしんでいる。砂埃や木々の葉っぱが舞い散り、空には時折スパークのように稲妻が走っている。

 ――あ! ……誰かが街道からこの家に向かっている。

 二人の人が、強い風にマントをあおられて時にはふらつきながらも、ゆっくりと歩いている。

 天眼でズームするように二人に焦点を合わせると、その二人はテセウスとゲオルギウスさんだった。


 あわてて夏樹に、

「夏樹。テセウスとゲオルギウスさんがここに向かっているわ」

と告げると、耳を澄ませていた夏樹が「ああ。そっか。天眼を使えばよかったか」とつぶやき、すぐに「春香。暖かい飲み物を準備しておいてくれ」と立ち上がった。


 私はうなづいてすぐに厨房に向かう。――こんな嵐の中を、朝からいったいどうしたんだろう?

 アリアに何か無理をいわれてきたのかな?


――――。

 さてと、今はまだ朝早い時間。あの二人は朝食を取らないで来ている可能性が高いと思う。


 ちょうどよく昨夜の夕食で、豚とタマネギのギリシャ風煮込みシチュースティファドを多く作りすぎていたから、これを温めておこう。

 シチューの入ったお鍋をかまどに載せ、火を点ける。

 お鍋の様子を見ながら、目の前に天眼で見える画像をスクリーンのように映し出した。

 ちょうど今、フードを深くかぶった夏樹が玄関から出て行くところだ。

 二人の近くへと歩いて行く夏樹。この強風でもふらつくこともなく、しっかりとした足取りをしていて危なげがない。


 お鍋が温まってきたのでちょっと味見をしてみると、昨夜よりもタマネギの甘みが強く出ている気がする。

 少しお水を足して塩とこしょう、ワインビネガーで味を調え、三人が来るのを待った。


 玄関の扉が開いた瞬間、大きな音と一緒に外の強い風がここまで入り込んで来る。

「コートはここにかけてくれ」と夏樹が説明する声がして、しばらくすると三人がリビングにやってきた。


 厨房にいる私を見て、テセウスが、

「どうも。突然すみません」と言う。

 私は右手でダイニングのイスを指さしながら、

「そんなこといいから、みんなそっちに座って。今、スティファドを温めているから」

と言うと、ゲオルギウスさんが、

「それは助かる。今朝はまだ何も食べてないんだ」

と憔悴しきった様子で言い、テセウスを連れてソファに座った。


 深皿にシチューを盛りつけ、ひらべったいパンを添えて二人に出す。

 テセウスが慎重にスプーンでスープを一口飲み込んだ。

 その手が止まり、突然、

「うっ。くく……」とうめく。

 え? 喉に詰まらせた?

 あわてて夏樹がテセウスに手をのばしたが、その手はテセウスの肩の手前で止まった。


 ――テセウスはスプーンを持った手を振るわせて泣いていた。

 こらえきれずに嗚咽を漏らすテセウス。ゲオルギウスさんが無言でその背中をさすっている。


 テセウスが泣いている姿に、私の胸も苦しくなる。

 私は右手を胸元で握りそっと夏樹を見ると、夏樹はいつになく真剣な声で、

「テセウス。何があった? ……アリアに何があった?」

と尋ねた。

 テセウスは無言で俯いたままだ。


 ゲオルギウスさんが痛ましげな表情で口を重たげに開くと、

「お嬢は……。次の生け贄に選ばれた」


 その言葉に、私は目の前が暗くなりくらくらとめまいを覚えて、あわてて近くにあったカウンターに手をついた。

 なんですって? アリアが生け贄に選ばれた?

 タイル張りの床を見ながら、ゲオルギウスさんの言葉を反芻する。


 脳裏に、アリアの顔が思い浮かぶ。

 機嫌が悪そうなむすっとした表情。この家で見せた笑顔や、照れくさそうな微笑み。そして、どこか自慢するようなどや顔。

 なぜ? だってアリアは……。アリアはテセウスの婚約者だったじゃない!


 気がつくと私は夏樹に抱きすくめられていた。

「春香。……顔色が悪いから、お前もソファに座って少し休め」

と、リビングのソファへと連れて行かれて座らされた。そして、夏樹の匂いの残る毛布をそっとかけてくれた。

 私の頭をそっとなでた夏樹は、立ったままでテセウスたちの方へ振り向く。


「詳しい状況を教えてくれ」

 ようやく泣き止んだテセウスが、リビングにいる私たちの方に振り向いた。


「――覚えていますか? パルテノン神殿に行った日を」


 外の強い風の音が伝わってくる中、ぼそぼそとテセウスが話し始める。

「あの日の夜。ペイリトオスが神託を持って父王のところへやってきたんです」


 夏樹は声を絞り出すように「神託だと?」とつぶやく。

 テセウスが、まるで地の底から響いてくるような声で、

「次のミノス王への生け贄にアリアを出すようにと。そうすれば、もう生け贄を要求されることはないだろう」


 沈黙の中、ますます激しく猛る風の音だけが、私たちの間に響いた。

 そんな馬鹿なことって……。


 私は毛布を肩からかけたままでソファから立ち上がった。

 心配そうに見つめる夏樹にうなづいてから、二人でテセウスとゲオルギウスさんの向かいに座る。


 私はテセウスに、

「でもアリアは貴方の婚約者でしょ? それにアイゲウス王のいとこの子でもあるし、王さまはなんて言ってたの?」

「父王は、ペイリトオスから神託を聞いた時は返事をしなかったんです。無言で考え込んで、そのまま自室に戻っていきました」


 それなら王様は反対ってことだよね。

 ……いや、でもペイリトオスか。彼、何かを企んでいるような気がしたけれど、まさかこういう手で来るとは。

 アリアは、大丈夫なのかな? 今は、どうしてるんだろう? それにテセウスはなぜここに?


 私の疑問がわかったのだろうか。ゲオルギウスさんが、

「お嬢は、今、アテナイの宮殿で閉じ込められている。ほかの生け贄の子供たちと一緒に」

「でもアイゲウス王は反対じゃないの?」と私が言うと、テセウスが疲れたように笑い、

「ええ。最初は……。でも来る日も来る日もペイリトオスが父王を焚きつけて。僕は……、こんな話をアリアやフィリラウスさんにもできなくて」

というと、右手で目を覆った。


 悲しみに耐えるように再び震えるテセウス。

 きっと後悔しているのだろう。もっと早くアリアの父のフィリラウスさんに相談できていればと。


 私は、

「フィリラウスさんは? 無事なの?」

と尋ねると、ゲオルギウスさんが、

「ああ、今はだがね。……王がアリアをとらえるように命じたのが五日前だ。それから三日間は呆然としていたよ」


 それはそうでしょう。たった一人の娘ですもの。それが神託とはいえ生け贄とは。


 しばらく考え込みながら話を聞いていた夏樹は腕を組んだままで、

「それで二人はどうしてここに?」

 その言葉に、二人の雰囲気が変わった。まるで迷っているような空気に、私は、

「いいから言ってちょうだい」とうながした。


 テセウスが意を決したように顔を上げ、まっすぐに夏樹の顔を見つめる。

「力を貸して欲しいんです。アリアを救うために」

 テセウスの顔を正面から見ていた夏樹は、慎重に、

「手はあるのか?」

 するとテセウスはうなづいて、懐から赤い石の指輪を取り出した。

 その表面には、月のような模様が描かれている。

 夏樹は興味深そうにその指輪を見つめ、

「この印章は?」

「フィリラウスさんから預かったものです」

 テセウスの返事をゲオルギウスさんが補足する。


 テセウスがフィリラウスさんの元を訪れ、アリアを助け出すと申し出たそうだ。

 しかし、アテナイの中では完全にペイリトオスの方が支持を得ていて、テセウスの頼りにできる味方はフィリラウスさんしかいない。

 そのひそかな申し出に、フィリラウスさんがいうには、

「今、私も監視されているだろう」

というもの。

 そこで、テセウスにこの印章を渡し、クレタ島のとある人物を尋ねろと言ったそうだ。自分にはまだここでやるべきことがあると言って。


 ……なるほど。確かに、フィリラウスさんの身柄も狙われていると言えるだろう。それにテセウスは?

 そう思ってテセウスを見ると、

「僕はいいんです。アリアを助けると決めたんです。もうアイゲウス王の子供でもない。……ただのテセウスです」

と微笑んだ。

 私には、アイゲウス王はテセウスがこうして動くことを知っているような気がする。そして、それはペイリトオスも。きっとアテナイから出発するテセウスをわざと見逃したのだろうと思う。


 ゲオルギウスさんは、

「もちろん異国の人であるお二人に無理を言うつもりはない。ただ、俺たちをクレタ島まで連れて行ってくれないか?」

 夏樹はすぐには返事をせずに、

「アリアはいつクレタ島に?」

と問いかけると、テセウスが、

「……7日ほどはこちらが先行していると思う」

とこたえた。


 私は夏樹を見る。

 ――助けましょう! アリアを!


 しかし、私を見る夏樹は厳しい表情のままで決してうなづかない。

 どうして? どうしてなの?


「夏樹――」

と言いかける私をさえぎって、夏樹はテセウスとゲオルギウスさんに、

「悪いが一晩考えさせてくれ。……どっちにしろこの風では船が出せないからな」

と言う。


 テセウスはぎゅっと拳を握りって、必死に自らの感情を抑えようとしている。ゲオルギウスさんはため息を一つつくと、うなづいて、

「ああ、わかった。……それはもちろんだ」

と絞り出すように言った。

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