第2話 ナクソス港へ
眠っている私の腕の中が急にぽっかりと寂しくなった。
消えたぬくもりを探して、腕を伸ばして布団の中をまさぐる。
「うんん……。どこ?」
そっと目を開けると、ちょうどベッドから降りた夏樹と目が合った。
目をこすりながらベットから起き上がると、
「悪い。起こしちゃったか……」
夏樹はそう言いながらそばにやってきて、チュッとおでこにキスをしてくれる。
ゆっくりと私もベッドから降りる。
「おふぁよう……」
とあくび混じりに言いながら、伸びをして窓に近づいた。
かんぬきを外してそっと開くと、外では薄暗い
窓から入ってくる朝方のひんやりとした空気に、すぐに目が覚めた。
ふいに後ろから抱え込むように、夏樹が私を抱きしめてきた。
私の両脇から、ほどよく筋肉のついた腕がお腹に回される。
夏樹のぬくもりを感じることと、夏樹の匂いを嗅ぐことって同じことだと思うって言ったら、私の言いたいことがわかるかしら?
若くしなやかな夏樹の腕をなでながら、そっと後ろに寄りかかり、
「ふふっ。朝からどうしたの?」
と言うと、耳元で私の大好きな優しい声で、
「何でもないけど、急にこうしたくなったんだ」とささやかれる。
「……そう」とつぶやきながらも、私は夏樹の手をほどいて振り返り、両手を夏樹の頬に添えて口づけをした。
「すぐに朝ご飯の準備をするわね」
髪を手ぐしで直しつつキッチンに向かう。
カゴを持って、キッチン脇の裏口から裏庭の畑に行く。朝の静けさのなかで、アスパラとセロリなどの野菜をちょこちょこっと採ってはカゴに入れていった。
ふと顔を上げると夏樹が畜舎の方に行くのが見えた。きっと山羊のお乳を絞りに行ったんだと思う。
まさしく自給自足のスローライフ。不便だと思うかもしれないけれど、絞りたての山羊のお乳ってね。おいしいのよ?
キッチンに戻り、すぐにかまどに火を入れて水を張ったお鍋を置く。
まずは一品目のサラダ。
野菜を水洗いして適当な大きさにちぎってお皿に盛り合わせ、上に山羊のチーズを載せて、オリーブオイルと塩・こしょうを混ぜた特製ドレッシングをかけて、さらにレモン汁を降りかけて完成。
二品目のスープに取りかかろう。
お湯が煮えてきたので、ローズマリーやローリエなどのハーブと一緒にカサゴのアラを投入。お出汁を取ります。
あ。夏樹が帰ってきた。
山羊乳の入った瓶アンフォラをダイニングテーブルに置いた夏樹は、サラダをつまみ食いしてうなづいた後で、拾ってきたばかりの卵を2つカウンターに置いた。
そのまま、「ちょっと窓を開けてくるよ」と言って廊下に出て行く。
お出汁を取っている間に、作り置きしてある平べったいパンをお皿に並べてキッチンカウンターに載せ、あとはメインのスープだけ。
アラを取り除いて、キャベツとセロリを入れて、夏樹のとってきた卵を溶きながらお鍋に少しずつ入れていく。
最後に塩とこしょうで味付け。……あ、そうそう胡椒は本当はまだ一般的ではないんだけど、こっそり庭に生えています。これも神様パワーのお陰です。
小皿に
ん~。ちょっと不満は残るけど、こんなものかな?
本当は、ふっくらしたパンとかあるといいんだけどね。お米はまだ市に行っていないから買えてないだけだから、そのうち入手できると思う。
特製の小型氷室という名の冷蔵庫があって、明らかに神力稼働のオーバーテクノロジーなモノがあったりする。けれども、これがないと生肉、生魚の保存ができない。
他にもどうしても我慢できないお風呂とかトイレとか、調味料とかあるけど、それ以外は、なるべくその時代にあったライフスタイルにしておきたいのよね。
何が言いたいかって? ふっくらしたパンとか、ジャポニカ米は我慢しましょうってことかな。
まあ自重しなければ、時間を止めている亜空間収納とか、トイレとかも不要だったりするけど、それをやったら身も蓋もないし、生きてる! って感じがしなくなるから……。
ごめん。話がそれちゃったわね。
――――。
ちょっと心配だったけど「おいしい」って言ってもらえた朝食の後、神力というチートで掃除洗濯を一瞬で済ませる。
普段はちゃんと手作業で洗っているんだけど、今日はちょっと急いでいる。
慌ただしいでしょ? 今日はね。二人でナクソスの港にお出かけするのよ。アテナイから商船が到着して市が立つらしいから。
第一目標はもちろんお米のゲットです。
白い
あちゃぁ。待たせちゃったみたい。
申しわけなく思いながら、「ごめん。待ったでしょ?」とあわてて駆け寄ると、急にがしっと抱きとめられた。
たくましい体に抱きすくめられてドキドキしながら、
「へっ? 夏樹?」
と恐る恐る顔を見上げると、いきなりのキス! ちょっと、な、何なの!
「ん~! ん~」
いきなりのことで驚いたが、夏樹の背中に手を回してぎゅっとする。
ようやく解放してくれた夏樹が、いたずらっぽく、
「遅延料金をいただきました」
とのたもうた。
思わず脇腹をおもいっきりつねる。「いたっ!」
「もう! いきなり、も嫌じゃないけど、驚いたじゃない!」
と文句をいい、ごめんごめんと言う夏樹の言葉を聞きながら、馭者台に二人で並んで座る。
待たせた私が悪いんだけど、この掛け合いが私たち夫婦らしいでしょ?
でもなんだか。最近、夏樹からのスキンシップが激しいような気がするなぁ。
嫌いじゃないけど。いや、むしろうれしいけど。……何か不安でもあるのかな。
じっと夏樹を見ると、ちょっと慌てたように手綱をとって、
「さ、行こう!」
と馬を歩かせはじめた。
むぅ。別に怒ってるわけじゃないのよ? ……今度、聞き出してみよう。
馬車すれすれの幅の小道を上り、ナクソス港に通じる街道に出る。
青い空に白い雲。そよぐ風が春の香りを運んでくる。
地面には花が一面に咲いていて、のどかな景色が広がっていた。
遠くの景色を眺めながら、わざと夏樹にしなだれかかると、夏樹はちらっと横目で私を見てすぐに正面に視線を戻す。
「……あ、そうだ。注意しないといけないことがあるんだ」
思い出したように夏樹が言う。
「うん。なに?」といいながら体を起こすと、
「ちょっと言いにくいんだけど、古代ギリシャは男性社会なんだよ。だから、変なことに巻き込まれないように俺から離れないでね」
うわぁ。それもそうか。古代社会ってたいていは男性社会だものね。……もしかして、こうして一緒に買い物とかってダメだったりするのかな?
夏樹が私を見て微笑む。
「春香は美人だから。目をつけられて誘拐されないように」
誘拐とは穏やかじゃない。でも私だって異世界で修業したんだから、大抵のことは乗り切ることができると思う。
懐に隠した護身用ナイフの鞘を撫でながら、
「これがあるから大丈夫。……それに、私にちょっかい出したら、夏樹の神罰が下るもんね」
と言うと、夏樹は吹き出して、
「そりゃそうだ! 文字通り神罰を落としてやるさ」
と笑った。
ゴロゴロと車輪が回る音に、時折吹き抜ける風が木々を揺らす音。
鳥たちがさえずる声を聞きながら、私たちの馬車はゆっくりと進んでいく。
次第に街道を通行する人や馬車の姿が見られるようになったころ、前方に大きな港町が見えてきた。
海にはいくつもの帆船が停泊していて、遠目にも多くの人々が行き交っているのが見える。
ナクソスの街だ。港をもったこの島最大の街。来るのは初めてだからとても楽しみだ。
馬車は何事もなく街の中に入り、路地に入ったところで端に寄せて停めた。
手綱を木につないでおき、こっそりと結界を張る。これで馬や積み荷が盗まれることはないだろう。
まだ貨幣が流通しているわけではないので、交換用の砂金を袋に入れて持ってきている。もちろんお財布は、人間だった頃から一家の財務省である私の管理下にある。
不意にいたずらを思いついて、
「ん~。そういえばお小遣いっている?」
と訊くと、「え? なんで? 使い道ないじゃん」と怪訝そうな声を上げて私を見た。
舌をぺろっと出して、
「えへへ。冗談だって。……つい昔の習慣で」
と言うと、くすっと微笑んで、例の包み込むような優しい瞳で私を見つめてくれた。
ん~。大好き!
思わず、ちょっと幼い頃に戻った気持ちで、夏樹の腕にぎゅっと抱きついた。
夏樹と腕を組んだままで、さっそく表の通りに出て人々の群れに混ざる。
男性社会と聞いていた話の通り、道行く人々はほとんどが男性だった。なかには年配の女性を連れている人や、若い男女の姿もあるようだけれど、ごく少数みたい。
あれって親子とか、恋人、兄妹だったりするのかもね。
何気ない生活の一コマといった様子の街の人々。
なぜだかわからないけれど急に寂しさが募ってきた。
――なんだろう。このセンチメンタルな気持ち。
わけもわからずに、思わずぎゅっと夏樹の腕に強く抱きつく。
「うん? どうした?」
いつもどおりの声。いつもどおりのぬくもり。夏樹の匂いをかいでから、なんで突然こんな気持ちになったのか、自分でもわからなくなった。
ふふふ。どうやら、スキンシップが激しくなったのは夏樹だけじゃなくて、私も同じみたい。
伏し目で小さく「ううん。なんでもない」と言うと、夏樹が私の正面に回り込んで、腕を腰の後ろに回してきて、よりぎゅっと抱きしめてくれる。
こんな人混みの中で堂々と抱きしめられて、夏樹の胸の中で頬がかあっと赤くなるのがわかる。
顔を上げると同時に、夏樹が顔を近づけてきて、コツンとおでことおでこがひっついた。
「急に不安になっちゃったのかもね。……大丈夫さ。俺たちはずっと一緒だよ」
ずっと私を守ってくれたこの声。私はうなづいてから、
「絶対だよ。絶対にいなくならないでよね」
とささやくように言った。
急に寂しくなったのは、きっと気がついてしまったからだと思う。
神さまになった夏樹と私。私たちはこの広い世界の中で、未来永劫、たった二人きりなんだって。それが言葉じゃなくて本能的にわかってしまった。
それは夏樹も同じなんだろう。
再び夏樹と歩きながら、その横顔を盗み見るように見上げる。
――夏樹。あなたは私を救うために、たった一人で永遠の時を生きるかもしれないのに。それなのにアムリタを飲んでくれたのね。
……私のところに来てくれたのね。
今度は急に愛おしさで胸が一杯になる。
コテンと頭を肩に預けると、夏樹は「?」という表情で私を見たけれど、私が微笑んでいるのを見てホッと小さく安堵のため息をついた。
「愛してるわ、心から。……あなた」
そうささやいて、夏樹の隙を突いてほほにキスをする。
「お、おい。さっきからどうした?」
と夏樹は照れながらも慌てたように言うが、私はその唇に人差し指を当てて、
「いいの。もう大丈夫だから」
とにっこり笑った。
――――。
大きな船がいくつも停泊している港に出ると、目の前の広場が物資の集積所兼市場になっていた。
「おお! 思ったよりすごいな!」と感嘆の声を上げる夏樹。この光景を見てから私もワクワクしている。
「ね、早く行こうよ!」と夏樹の手を引っ張って、お店の並んでいる通りに突入していった。
買い物や商談をしているらしき男性たち。子どもたちが珍しいものがないかと目を輝かせながらお店を順番に覗きこむように走り回っていたり、お店の人のお手伝いをしているらしき若者がいる。
店先には、木箱に入った果物や野菜、壺に入った小麦粉らしき粉や香辛料、素焼きの瓶のオリーブオイルに今朝獲れたての魚たち。
手作りのアクセサリーらしきものや、布を売っている人など、その光景は現代でも見られるような市場の風景だ。
そして、ついにお米を見つけた! ちょっと細長いお米だけど。
お店の前でお米の入った袋を指さして、夏樹を見上げる。夏樹はうなづいて、早速、店の40代ほどのおじさんに交渉をはじめた。
「この米ってどれくらいあるかな?」
日に焼けたおじさんは、私たちを見てから、
「おや? 見慣れない顔だけど、外国の人かい?」
ときいてきた。
夏樹はうなづいて、
「ああ。チグリス・ユーフラテスの河を越え、天にも届くような山脈の向こうにある東の果てから来たのさ」
と言うと、笑いながら、
「そりゃあすごい。……ってことは、腕っ節の方も見た目通りじゃないってわけだな」
と話半分にきいているように言う。
夏樹は自信たっぷりの表情で、「もちろんさ。俺も隣の家内も、いくつもの死線を越えてきたよ」とこたえた。
するとおじさんは驚いたように、
「え? 奥さんかい? ……てっきり台所仕事をさせてる女奴隷かと。い、いやすまん。外国の人だったら俺たちと感覚が違うのかもな」
と言った。
ちょっとそれって失言よね。怒らないけどさ。
夏樹は苦笑いしながら、「まあそんなところだな」と言いながら私の手をきゅっと握った。
チラッと私を見る。……あれは口を挟まないようにって表情ね。
おじさんは腕を組んでお米の袋を睨んだ。
「う~ん。これからクレタ島のイラクレオンにも持って行かなきゃいけないからなぁ。……でもまあ、ここにある分は売っても構わないがな」
と言う。夏樹は「ぜんぶ買った!」と即決。私は砂金の入った袋を取り出して、夏樹に手渡した。
夏樹はさらに男性と交渉をはじめた。少しでも安く、無理なら別のものもつけさせようというのだろう。
私はそばで二人のやりとりに耳を傾けてる。
「これでどうだい?」「いやいや。それじゃあ話にならないよ」
「じゃあ、これだけ出すから、そっちの野菜もつけてくれよ」
「う~ん。もう少し出してくれたら、こっちの野菜なら分けてやろう」
「さすがに砂金は貴重なんだぜ? 出せてもここまでだよ」
「こっちだってアテナイから来てるからなぁ。……でも、まあいいか。外国の人に失礼なことも言っちまったからな。きれいな奥さんにお詫びってことで」
突然、二人の視線を向けられてドキッとしたけど、夏樹が上機嫌になって、
「おじさん。あんた、わかってるじゃんか! なら、こっちもこれだけ出すから、さらにそっちの野菜もつけてくれ」
とダメ押しの交渉をすると、おじさんは笑いながら、
「はっはっはっ。わかったわかった。持っていけ!」
と夏樹から砂金を受け取った。
夏樹が私を見てサムズアップをする。「やったな!」
あははは。
私はおじさんに、
「ありがとうございます」
と礼を言うと、おじさんも笑いながら「いいってことよ」と商品を渡してくれた。
お米の袋が三つに、数種類の野菜が入った袋が一つ。私が野菜の袋、そして、夏樹が三つの米袋を背負った。
おじさんに手を振りながらその場を離れると、すぐに夏樹が、
「さっきは悪かったね。奴隷なんて言われたけど大丈夫?」
と言う。
「ううん。気にしてないって。事前に男性社会ってきいてたから大丈夫よ」
「それならよかったよ。……さっきのおじさんと話していて気がついたんだけど、外国からやってきたっていうのは、案外いいかも」
「うん。それは私も思った」
「ただ、その場合、襲われる危険性も高くなるから気をつけた方がいい。……俺たちに身分なんてなければ、後ろ盾もないからね」
……なるほど。さすがは夏樹。よく考えている。
感心しながら、馬車に向かおうとしたときだった。
突然後ろから、
「ねえ。貴方たち、本当に外国人なの?」
と女の子の声が聞こえた。
振り向くと、そこには中学生くらいの男の子と女の子の二人が私たちを見ていた。
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