エーゲ海は今日も輝いている ―君と歩く永遠の旅 第2章―
夜野うさぎ
第1話 きらめく海とナクソスの入り江
ヨーロッパ特有の青い空が広がっている。
穏やかな波に船がゆらゆらと身を任せ、私こと春香は手にした竿にじっと神経を集中させてるところ。
エーゲ海の美しい海に囲まれて、夫の夏樹と二人で今日の夕飯を釣りに来ているのだ。
手のひらに魚の動きが伝わってきた。
ツンツン。……ツンツン。ピクッ。
グイッという感覚とともにクワッと目を開けて、一気に竿を立てる。
並んで座っている夏樹が「お!」といいながら、手作りのタモをもってそばにやってきて、動き回る釣り糸の先を見ていた。
「んんん!」
と言いながら、魚と幾度かの駆け引き。
ようやく弱った魚が海面に引っ張り上げられてきた。
「スズキだ!」
夏樹がタモを海面に差し入れながら、銀色の魚を見てうれしそうに言った。
タモですくい上げられた魚を見ながら、調子に乗って、
「ふふふ。晩ご飯、ゲットやでぇ」
と声音を変えていうと夏樹が「ブフッ」と吹き出した。
私と夏樹の笑い声が海面に響いていく――――。
時代はBC紀元前1660年の4月。
ナクソス島の東北部の入り江で、私たちが生活をはじめて一月になる。
ナクソス島? ギリシャの東側、キュクラデス諸島にある島で、アテナイとクレタ島を結ぶ航路の中継点の島だよ。
霊水アムリタの力によって神様となった私は、夏樹と一緒に異世界に渡った。その異世界で神力の修行をして、こっちの世界に戻ってきたのが一ヶ月前のこと。
私たちの指導教官である天帝釈様から出された次の指示は、
――人間の歴史を体験すること。
不老不死となった身で歴史を歩き、人の善性や悪性、欲望も気高さ、様々な要因で人が動き、国が動き、歴史が動いていくということを知るということ。
そんなわけで、その第一歩として
一目見たエーゲ海の美しさにすっかり心を奪われて、早速、この入り江を私たちの土地とすることに決定した。
後から家や畑を案内するけど、ここから4キロメートルのところにアポロナスという漁村があるし、ナクソスの港も16キロメートル。
入り江を登っていくと街道があって、ナクソス港まで馬で駆けて三時間くらいかな。
神さまになった私たちって人目を避ける必要があるから、適度に街に出られて且つ二人っきりで生活できるところがいい。
しかも景色が良く、プライベートビーチ付きなら最高よね!
船の帆が風をはらんで膨らんだ。穏やかな海面を滑るように船が入り江に向かって進む。
コバルトブルーの海は、今日も抜群の透明度だ。
船縁から手を海水に浸しながら、太陽の光と海風を感じてまったりとした気持ちになった。
「ふんふん……」
知らずの内に日本にいた頃の流行曲を鼻歌で歌っていると、帆を操っている夏樹も一緒に鼻歌をうたいだした。
振り返ると夏樹が楽しそうに笑っている。
……うん。幸せをかみしめるってこういうことよね。
さて、そろそろ入り江に到着するから、どういう所か説明するわ。
5メートルほどの高さの断崖と断崖の間に空いた20メートルほどの隙間を、船が器用に通り抜けていく。
上空から見ると、アルファベットのCに似た入り江の正面に、長さ100メートルほどの砂浜が広がっていてその両端は岩礁に続いている。
船は砂浜の端っこに造った桟橋に向かってゆっくりと進んでいく。
正面の砂浜の中央から、丘の上に登る小道が続いていて、ずっと見上げていくと私たちの家がある。
日差しの強いギリシャの気候にあわせて白い壁にオレンジのテラコッタの屋根。
家の周りには段々畑が作ってあって、小麦、オレンジなどの柑橘類やオリーブ、ブドウの木などを育てている。
小道を挟んだ反対側はなだらかな斜面になっていて、そこに捕まえてきた馬や山羊が放牧してある。もちろん柵で囲ってあるから安全よ。
あの小道をずっと上っていくと、ここからは見えないけれど、島の外周の街道につながっていて、アポロナスにもナクソス港にも行ける。
家の裏手には馬車も置いてあるけど、家周りは後で紹介するわ。
桟橋が近づいてきたので、先に船からひょいっと飛び乗った。
そして、置いてある長い棒を持って、静かに船を引き寄せると、同じく夏樹は船に乗せてあった棒で船の姿勢を整える。
夏樹からロープを受け取って、桟橋の杭につなぎ止めて船を固定する。
帆をたたんだ夏樹は、
「大漁とまでいかないけど、結構釣れたね」
「ふふふ。今日は私の方が釣れたもんね」
と自慢すると、夏樹は微笑んで「……夜に仕返しするからいいよ」と言いながら、砂浜の方へ歩いて行った。
うっきゃ~。
たちまちに顔がほてって赤くなっているのがわかる。
よ、夜か。……いや、まあ、毎日のことなんですけどね。
向こうから「行くよ!」と夏樹の声がして、私ははっと気を取り戻した。慌てて釣り道具を抱えて、後を追いかける。
白い砂を踏みしめて、小道の入り口で待っている夏樹に追いついた。
「お待たせ」と言って、先に小道を歩く。
海から吹いてきた風が、さあっと私たちの体を通り抜けていった。
着ている服の裾がふわっと広がるけれど、ここには夏樹しかいないから心配はない。
ちなみに街道へ向かう小道の途中から入り江全体まで、神力を使った結界を張ってある。
これは、害意のある人と危険な生物が入ってくるのを禁止するためだから、普通の動物とか人は問題なく行き来できるようになっている。
……それに加えて、家には害虫が入ってこないように別の結界を張ってある。神力の無駄遣いかもしれないけど、Gとか足が沢山あるのとか見たくないってことで勘弁して。
心の内でそんな言いわけをしながら登っていくと、後ろから夏樹が、
「しっかし、こうしてみると春香のその服って似合ってるよな」
としみじみと言った。
「そう?」と振り返って微笑んで夏樹を見る。
普通にこの時代に合わせて、ギリシャ神話の人々が着ているような服を着ているんだけどね。
「ほら。俺たちって神様になったから日焼けすることないだろ? 春香の場合はさ、なめらかな白い肌がその白い服に似合ってる。……でも俺の場合は、日焼けしないもんだから引き締まってても微妙に弱そうに見えるだろ? 右肩出すのもまだ慣れないし」
「う~ん。言いたいことはわかる。でも私は格好いいと思うよ」
「そうか?」
「だって、私にとって夏樹は夏樹だもん。いつだって私の一番よ!」
「そ、そうか? 俺の女神様にそう言われるとうれしいな」
夏樹が照れながら立ち止まった私を追い抜かしていくので、その横に並んで小道を上る。
やがて、丘の途中の平らなところにある私たちの家に到着した。
一応は2階建て、とはいっても2階はテラスだけなんだけどね。
玄関の前を通り過ぎて裏に周り、キッチンのそばの裏口から中に入る。
夏樹に
キッチンには大きな水瓶が二つ置いてあって、その片方は高い位置に設置して、水瓶の底からシンクまで水道管を引っ張ってある。
これでもやり過ぎだと思うけど、神力で上水道完備なんてことはできたら避けたい。下水道は使ってるけど、理由は言わなくてもわかるよね。
それからこの建物自体が立派だという批判は受け付けません。お風呂があるとか、便器があるとかも。我慢ができないもの。
キッチンには他に3つ口の
カウンターを挟んで向こう側にはダイニングセットが置いてあり、そのダイニングに接続してリビングルームがある。ダイニングテーブルの中央には仕掛けがしてあって、中央の木の板を取ると下から囲炉裏が出てくる様になっている。
ダイニングにもリビングにも大きな窓があって、中庭に続いている。
さらに向こうは中庭を囲む柱列回廊になっていて、奥の主寝室とお風呂場に続いている。
床は屋根と同じくテラコッタなんだけど、もっと色が濃くて厚くて頑丈に作ってある。浴室はタイル張りでモザイク模様にしている。
この家には他にも、何かを作るためのクラフトルームや貯蔵庫。来るかわからないお客さんのためのゲストルームを作ってある。
中庭にある階段をのぼれば、2階のテラス。
昼間や朝日、夜の星空など、二人で景色を楽しみながらお酒を飲める素敵な場所。……角度の問題でサンセットが見られないのが、とても残念。
私は
スズキ、シタビラメ、カサゴ、イカにカニ。
並べ終わったら包丁で魚の鱗や内臓を取って処理していく。
その横で、夏樹が棚から土器制のコップを取り出して蛇口から水を注いだ。
そのまま何気なく神力で水を冷やして一口飲む。
むう。私も喉が渇いているんですけど。
そう思って夏樹を見ると、言いたいことがわかったようで苦笑しながら、作業を続ける私の口にコップを近づけた。
手を休めて冷えた水をコクリコクリと飲むと、おいしい水がほてった体をクールダウンしてくれた。
魚の切り身ができたころには、夏樹が燻製庫にチップを用意していた。
一部の魚を特製の
カニはシンクの海水を張った大きめの
燻製ができるまで、私は夏樹と一緒に、リビングにある籐のソファから中庭を眺めることにした。
――――。
ギリシャといえど4月は暗くなると肌寒くなる。
というより、気温だけ見れば東京よりやや温かいくらいだと思う。
地中海気候なので、春から秋口にかけての降水量が少なく、冬場が多い。そのため、暑さの種類が違うし、乾燥に強い果樹が栽培されているってわけ。
ただし、ナクソス島は東部が南北に山脈のようで、海風がその山脈で遮られて雨を降らす。そのために、他の島よりも水源が豊かなようだ。(作者註:マップで判断しただけなので未確認です。要注意)
幸いに今日の夜は雲一つなく。綺麗な星空が広がっている。
家の中はあちこちのランプのお陰で明るいけれど、家の外には一切明かりを設置していないから、真っ暗闇になっている。
家から漏れ出る明かりで、畜舎ぐらいまではぼんやりと明るいし、何より暗夜でも私たちはクリアに見ることができる。神さま補正って奴で。
日によっては桟橋の当たりまで夜のデートっていうのもお洒落なんだけど、今は2階のテラスで二人で酒杯を交わしている。
目の前の皿にはお夕飯の残りの魚とブドウの葉でくるんだドルマデスもどき。小さなロールキャベツのブドウの葉バージョンと言えばわかるかしら。
ブドウの葉なんてちょと固いって思うかも知れないけど、桜餅の葉っぱみたいな感じかな? 味見した感じでは、レモンの味付けがさっぱりしていておいしい。
「お? これって……」
夏樹が早速一つ取って、まじまじと見つめている。
「ドルマデスもどき」
「ドルマデスもどき?」
「そ。本当はハーブライスをブドウの葉で包むんだけど、お米が入手できてないから」
「へぇ。……中はタマネギと燻製肉?」
「うん。アレンジというか、あるものでって感じ」
ふうんといいながら、夏樹が一つ口にする。途端にその口角が上がっていくのを見て、味を楽しんでるなってわかった。
「うまいじゃん! これお酒にピッタリだな。……ブドウの葉の香りがいい感じだよ」
「えへへへ。そう?」
ちょっと照れ笑いをすると、夏樹が愛おしそうに優しい瞳で私を見ている。
――私の一番好きな
取っ手のついた
夏樹の顔を見ていて、心がじんわりと温かくなるのを感じながらお酒を口にする。
このお酒はアポロナスの漁村で交換した果実酒で、さわやかな酸味が特徴といえる。冷やすともっとおいしいんだけど、まだちょっとこの時期には早い。
テラスに設置した2カ所のかがり火が、柔らかい光で私たちを照らしている。
入り江を見下ろすと、ちょうど月が出てきたところで、海面にキラキラと月光の道を作っていた。
この広い世界の中で、夏樹とたった二人でいる。まるでアダムとイブになったみたいだ。
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