第3話 陽だまりの小動物と氷の女王
「美月ちゃんだっけ?」
診察室から出てきた父は、ぼんやり座っていた美月の前に立った。
「はい」
美月は反射的に立ち上がり、直立の姿勢で次の言葉を待った。
「とりあえず、今のところ命の危険は無いよ」
その言葉を聞いて劇的に変わった美月の笑顔を見て、俺はホッとした。
「だけど、今日は病院で預かるから、また明日来られるかい?」
「はい!」
と答えた後、
「あの、ごめんなさい、今日はお金あまり持っていなくて。明日でも良いですか?」
そう顔を赤くして言った。父は基本的に動物が好きだ。そして美月は基本小動物っぽい。
「構わないよ。明日の治療が済んでから計算しておくからね」
小動物っぽいけど、美月は小動物じゃ無いからね?なんかしたらセクハラだから。止めてくれよ?そう心で念じながら、促して外に出る。もう真っ暗だ。
「バス停まで送ってくる」
そう父に叫ぶと、
「え!?悪いよ!私は大丈夫だよ。ただでさえつき合わせちゃったし…」
そんなことを延々と言いながら、一歩先を歩く俺の後を一生懸命着いて来る。なんで俺が好きなんだろうね?
バス停で待っている時も、隣に並ばない。間に二人くらい誰か立っているぐらいの距離を保っている。それで良いんだ?
だけどやって来たバスにぴょこんと音がしそうな勢いで乗り込むと、明るい車内から俺に向かって目が無くなるくらいの微笑みを向けて来る。女の子は理解不能だよ。
翌日、バスから降りる一沙をまた見かけた。今日は雨は降っていない。サラサラの髪を左手で後ろに流すと、キッと睨むように学校に目を向け、戦いに挑むように身構えた様子で歩き出す。綺麗な顔でそれをするからかなり迫力がある。
「おはよう」
そう言って横を自転車で抜かしても、もちろん反応は無い。氷の女王は何と戦っているんだろう?
きっと色々なものだ…と学校について思い知らされる。
「なぁ?誉、お前も聞いたよな?殺せって一沙が言ったの」
いきなりそう言われた。
「え?昨日の猫のこと?」
思わずそう答えると、教室で集まって噂話をしていた一団がおお〜っとどよめいた。
「やっぱりそうなんだ!」
「うわ。怖い!」
「な?」
コソコソ話が広がっていく。
なんだよそれ?と思いだしたところで、
「ちょっと!これ…」
そう言ってタブレットを隣の友人に見せた女子が友人の反応を確かめた後、
「これって、一沙さんじゃ無い⁉︎」
と、皆に向かってモニターを見せた。
くだらない、ゴシップだ。だけど、噂話に信憑性なんて必要無い。
好き放題書かれたその記事はどこかからリツイートされた物だった。
「やだ…」
と声をあげて、泣き出す女子。そしてそんな友人を
「大丈夫?詩織ちゃん…」
と支える女子。
何この三文芝居。
「自分の車に轢かれて死亡した青年。車の中の少女に罪は無いのか⁉︎」と言う見出し。
胸がドクンと音を立てた。
世田谷区の住宅街。深夜に帰宅した青年が、車庫を開けるために車を降り、坂道を滑り出した自分の車に押し潰された…と言うニュースだ。確かに、数ヶ月くらい前にその事故のニュースを目にした記憶がある。その悲劇に、こんな死に方は嫌だ。と思った。
次々に出てくる衝撃的な見出しの事件に暫く姿を消したけど、ペットの連続殺害事件や、ホームレス襲撃事件なんかの事件の隙間隙間に、消える事なく囁かれ続けた。
その時車の中に未成年の少女が同乗していて、そのことが憶測を呼んだ。
「そんなの女子高生に殺されたに決まってる」
とか
「エンコーの果て」
とか
「誘拐されて逃げるためにやむなく…」
とかの憶測を、まるでわけ知り顔で解説する無責任な第三者たち。
少女が未成年ということで、その後の続報が出ないまま、その車がサイドブレーキに欠陥が見つかりリコール対象になっていた。という事実が明るみに出て、終息を迎えた。
だけど、ネットではそんな事実を無視した無責任な噂話が尾ひれを伸ばしながら、更に更に広がっていた。そして見ようと思う人間が見たいように真実を曲げて拾い上げられる。俺が読んだのもそんな記事だ。
少女は青年と恋人同士だった。更にお酒を飲んでいた。深夜の逢いびきの末。そんな少女をかばう人間は居なかった。
本名こそ報道されなかったけど、青年と少女の交際の不相応さが話題となり、少女の写真も不明瞭ながら出回った。その立ち姿は、確かに一沙に似ていた。
「結局、サイドブレーキの欠陥による事故だったんだぜ?」
そんなこと、分かっているはずだ。なのに、なぜそこに目を向けない?
「そんなの分からないだろ。お前、信じてるの?」
「未成年だから、罪を追求しないだけじゃね?」
そんな訳ないって分かっているはずだ。
「そんなテキトーなこと…」
言うなよ、と言いかけたところに、独特の、周囲が息を呑むような存在感をまといつつ、騒がしい教室に静寂を引き連れながら一沙が入って来た。
一瞬騒がしさが消えた後、静寂に覆いかぶせるようにコソコソとした騒がしさが揺り戻されるかのように広がってくる。
あぁ、嫌な感じだ。
だけど、一沙はその静寂もコソコソ話も聞こえないような無関心さで自分の席に向かう。美月はまだ来ていない。こんな時、一沙の隣に美月がいてくれたら良いのに…と都合の良いことを思う。
「ひとごろし…」
そんなささやき声が、騒めきの中で偶然できた静寂の中にポカリと浮かび上がるように聞こえた。あるいはその独特な響きに他の言葉の存在感がかき消されたのか…
ピクリと一沙の肩が揺れた。駄目だ…俺はただ、ものすごく嫌だったのだ。そんな言葉に動揺する一沙を見るのが。
凍てついた氷の女王のままでいれば良い。何かを胸に秘め、必死でその表情の仮面を被っているんだろ?それを守れよ。
「え!大石くん⁉︎」
「おいおい誉!」
「何?お前そうなの?」
「ちょっと!美月が泣くよ!」
騒めきの種類が変わった。考えるより先に動いていた。
俺は一沙の腕を掴み、彼女が今入って来た教室の扉から教室を飛び出した。階段の手前で、驚いた顔に変わり行く美月とすれ違ったけど。勢いに任せて止まらなかった。美月が振り返ったのか、泣いたのか、それは分からない。俺も振り向かなかったから。
美月の登場で、教室の中が一層騒がしくなるのは聞こえた。
だけど足は止まらない。校舎を飛び出し、体育館に向かう渡り廊下まで来て初めて
「痛い」
そう言われているのに気がつき、足を止めた。
一沙は氷の女王のまま俺を無感情な目で見つめていた。こういう時って、なんて言えば良いんだ?
くそっ
俺は足元の小石を蹴って悪態をついた。
「自転車…」
思いがけず一沙が話しかけて来た。
「自転車だったら海まで行ける?」
海か…
「行けるけど、結構有るよ。山1つ越える」
「そっか…」
失望させたかな…?と思い焦る。
「あっち行くと高原に着く。秋はコスモスが一面に咲くんだ」
「ふうん…」
一沙は髪を風に弄ばれながら、俺が示した方向を見つめた。ここから何かが見えるわけじゃないけど、俺もそれに習った。
高原への道は緩やかな坂道で、他と変わらない田舎道だ。何度も自転車で通った道だ。だけど、自転車の後ろに一沙が乗っていることを感じながら走る道は、何か言葉に出来ない特別な感じがした。背中が緊張している。
足に力が入る。頬が緩んでくる。その道が、時間が、長いのか短いのか分からなくなる。
「こんな時間に、変な感じ」
緊張に耐えかねて、全力で自転車をこぎながら叫んでいた。
授業をサボるのも初めてだ。
背中の一沙は何も答えない。でも嫌がってはいない。それは感じていた。
コスモスにはまだ早くて、高原はまだ黄緑色の波のようだった。それでもその高原で、一沙は気持ち良さそうに佇んで居た。
「授業、良くサボるの?」
一沙にそう聞かれ、
「いや、はじめて」
そう馬鹿正直に応えたら
「だと思った」
そう言って綺麗な目を細めて笑った。綺麗だな…そう思った。同級生の女子に、そう言う感想を抱いたのは初めてだ。一沙はそう言う特別な感覚を抱かせる子だった。
高原には3時間くらい居た。2人とも昼ごはんを持って居たから、高原の岩に腰掛けて緑の葉の波の中で食べた。
俺のは母親が作ったおにぎりで、一沙のはどこかのパン屋のサンドイッチだった。特に何かを話した訳じゃない。
ただ、緑の葉の波と一緒に風に揺れる一沙の髪に、指を絡めてみたい…そんな風に思いながら見惚れていた。
それからバス停まで一沙を送ると、ゆっくり時間をかけて帰路に着く。
家の前まで来て、昨日のことを思い出し、病院に回った。
ドアを開けて中に入ると、美月が居た。
ドアが開く音に振り返ったので、目が合った。
財布からお金を取り出しているところだった。
急に沸き起こった罪悪感と美月が握りしめているお札の枚数から、反応が遅れた。
「お帰りなさい。あのね、この子、もう連れて帰って大丈夫なんだって」
美月は手に下げた動物用バスケットを掲げ、いつもと変わらない笑顔で俺に話しかけて来た。
「美月が全部払うのか?」
俺が問うと
「お父さん、かなりサービスしてくれたの」
そう言ったけど、獣医が高いのは俺は知っている。高校生のお小遣いで払わせるのは厳しい額だ。
「幾ら?」
俺が親父に声をかけると
「やめてね。大石君には関係ないんだから」
珍しく強い声で言われた。
その後すぐに笑顔になって
「進学用にお金貯めてたの。だから大丈夫」
そう昨日と同じことを言った。
「獣医になるための進学用だろ?」
美月はいつもの笑顔で
「うん。ここで、この子を見捨てる私じゃ獣医になる資格ない。だから、これは獣医になるための授業料」
そう答えた。本気で言っているのかな?
「皆にカンパを頼んでみる」
そう言うと、ちょっと心配そうな目をして
「そんな事しないで?」
そう言った。不意に今日の学校でのことを思い出した。あの後どうなったのか。聞いてみたいけど、それを美月に聞く勇気は無かった。
「美月ちゃん、分割払いでもいいよ…?」
微妙な雰囲気を察してか親父が声をかけて来た。
「大丈夫です。大石君も先生もありがとうございます。でも、いつか獣医になる途中で何か相談したい事出来たら力になって貰えますか?」
美月に子供が甘えるように言われ、
「勿論」
親父は嬉しそうに応えた。
「やった♪凄く有意義な授業料払った♪」
美月はそう言って俺を見た。
なんか、凄く色々気を使ってくれている気がした。
俺が一沙と学校サボった事も話して居ないんだろうな。
美月はそう言う子だ。彼女が損をするようなことになるのは嫌だった。だけど、今俺にそれを言う資格があるとは思えなかった。今、美月が傷付いているとしたら、それは確実に俺のせいだ。だけど美月はいつものように微笑んで、大事そうにバスケットを掲げて、
「また明日、学校で会おうね」
俺にそう言って、親父にも
「お世話になりました」
そう頭を下げて、病院を出て行った。
ドアが閉まる音が、妙に心の中に響いた。
美月の「大石君には関係ない…」って言葉も渦巻いて居る。そんな言葉を言わせてしまった…美月は笑顔の下で傷ついて居るんだ。
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