Episode 42 10の32乗bitの世界・後編
城門をくぐった先の世界で巨兵痛子に踏みつぶされた豪太郎。
長い時間をかけて修復を果たすと、当てもなく走り始める。
どこに行くべきは分からないまま、なにもない城壁の中をひたすら駆け回る。
少し進んだだけで壁は姿を消し、自分が通過した城門も確認できなくなってしまう。
これが地球上であるならば、こうもあっさりと不可視になることなどあり得ないはずだった。
薄明るい光の中、平坦で妙に滑らかなオブジェクト内を進む。
根拠のないカンだけを信じて。
突如として登場する巨兵痛子を避けながら、豪太郎は全力疾走を続けていった。
走りながら豪太郎は気づいていた。
自分が汗ひとつかいていないということに。
呼吸が少しも荒れていないということに。
自分の足音すらはっきりと聞こえず、目印になる物体もないまま、やがて自分が走っているという事実そのものにさえ確信が失われていった。
そして気を抜いたその瞬間、豪太郎は巨大な足の裏に圧し潰されていく。
ある時は上向きに、またある時は俯せに。
豪太郎は何回も薄っぺらく引き延ばされて二次元と化し、凄まじい鈍痛を経て元に戻っていった。
そんな限界を超えた痛みに晒され続けるうちに、豪太郎の記憶は少しずつ欠落していった。
自分がなぜここにいるのか。
なにを求めて走り続けているのか。
もはや考えてさえいなかった。
ただ惰性で走っているというだけの状態だ。
彼の頭にあるのは痛みへの恐怖、それだけだった。
その怖さから逃れるべく、全身を動かしつづけているのみ。
救いがあるとすれば、その世界に疲れはなく、従って体力の限界もやってこないということだけだった。
「うわっ!」
巨大な足の裏を躱した豪太郎は、そこで全身を激しく打ちつけていた。
なにかの壁に激突していたのだ。
手で触れてみると、壁は荒いコンクリートのようなひんやりとしてざらついた質感を持っていた。
ズドンという重低音が足許を揺らす。
慌てて振り返ると、巨兵痛子が自分の方を見ていた。
美麗さとは程遠い簡素な3D体の巨兵痛子には、表情を現わすだけの容量はなく、その感情を見た目で読み取ることはできない。しかし強烈に過ぎる不満が空気を通してはっきりと伝わってくる。
「なんだ、いったい……?」
巨兵痛子は豪太郎に近づいてこようとするのだが、まるで見えない障壁に邪魔されているかのように、途中で空気の壁に阻まれてしまうのだ。
「こっちには来れないってことか?」
半信半疑で巨大な痛子を見やる豪太郎。
だがしばらく彼女のもがいている姿を見ているうちに、ようやく自分が一時的とはいえ安全になっていることを確信するのだった。
「で、この壁ってなんだ?」
言いながら見上げていく。
それは塔だった。
直径は20mほどしかないが、かなりの高さまで伸びている。
先端が霞の向こうに隠れているため、どこまで続いているのか予測することができなかった。
地球上の建築技術からするとやけに細長く、それ故に不安定に見えてしまう。
ちょっとした衝撃で倒れてしまいそうなほど、頼りなく感じられるのだ。
塔の周囲には螺旋階段が廻らされていた。
欄干のない階段が、塔の頂上目がけて延々と続いている。
「これって……」
豪太郎の脳内でなにかが光った。
と同時に豪太郎は思い出す。
「これって痛子の言ってた城……なのか? 塔があって、この上に痛子の部屋が――」
口にした言葉が、具体的なイメージを伴って脳内に浮かび上がる。
その像をきっかけにして、関連付けされた記憶が伴われる。
「そうだ、オレは痛子を探してたんだ!」
死ぬに死ねないという耐えがたい激痛が延々と繰り返されたせいで、すっかり思い出せなくなっていた。だが豪太郎は痛子の言っていた塔を見ることで、記憶を取り戻すことができたのだ。
「いや、違う」
記憶は失われたのではなかった。
ただ優先順位を下げられていただけだ。
そのせいで本来の目的がまったく見えなくなっていたのだ。
それはつまり、単に記憶に目隠しをされたようなものだった。
「あっぶねぇえ……。このまま走ってるだけで終わっちまうとこだったよ」
記憶の優先度が改変されてしまった結果、豪太郎はただ走り回るという手段が完全に目的化していたのだ。この不完全すぎる世界では、その逃げ回るという行為だけで完結していたかもしれない。そしてそのまま“痛星”が地球に衝突する瞬間を待つことになっていたのだ。
情報密度の薄さが自らの記憶領域にまで浸透してきたことに激しい焦りを感じながら、豪太郎は塔の階段へ足をかけていった。
「(……早く痛子に会わなくっちゃ)」
次の瞬間、豪太郎は昏倒していた。
至近距離からショットガンで撃たれていたのだ。
カチャッという乾いた音に続いて、空薬莢が地面に落とされる。
排莢されると同時に次の弾丸が装填され、照準が合った直後にトリガーが引かれる。
「――ッ!」
地面に転がっていた豪太郎の体が反動で宙に浮く。
そしてドサリと軽い音を立てて地面に沈み込んでいった。
痛子兵の槍とも違う、巨兵痛子のストンピングとも異なる、鋭い痛みだった。
まるで心の中をカッターの刃で切り裂かれるような、意識の奥底を切り刻まれるおぞましさだ。
海馬に収められている豪太郎の大切な記憶を、分散した鉛の小粒が削り取っていくような錯覚さえ感じられるのだ。
「(……う、動かないと……)」
だが全身がまったく言うことを聞かない。
当然だ。
これまで受け続けた攻撃とは異なり、豪太郎は脳機能に直接的な損傷を与えられているのだ。
そのダメージは豪太郎の運動能力と思考力をあっさりと奪い取る。
しかも銃撃は豪太郎の脳に向けて執拗に繰り返されていった。
だが、それでも豪太郎は死んではいなかった。
この、死のない世界ではただ苦しむことしか許されないのだ。
待つ。ただひたすら待つ。
やがて銃撃が止むのを待つしかなかった。
痛みを意識しないように心をカラにしながら、しかし痛子を探すという目的は決して忘れないように堪え忍ぶ。
心の中で呼びかける。
――痛子と。
ようやく銃撃が止んだところで、豪太郎は全身の修復を待ち、なんとか立ち上がることができた。
ふと気配を感じて振り返る。
「――ッ!」
ショットガンを構えている痛子と眼が合った。
彼女は西部劇に出てくるようなポンチョを身に纏い、しかし感情をまったく感じさせない瞳を豪太郎に向けたまま、機械的に引き金を引いた。
豪太郎は背中から崩れ落ちる。
そんな豪太郎をまたぐようにして見下ろすと、銃兵痛子はリロードしてからもう一度銃弾を放った。
豪太郎の顔面目がけて。
至近距離から銃弾をまともに喰らって、豪太郎は自分の顔が吹き飛ぶのを感じていた。
視界はとっくに消えている。
真っ黒な世界の中で自分を構成する肉体が激しく損壊されているのを“触覚”として感じてしまうのだ。
逃げることはできない。
意識を閉ざすことも許されない。
最後の逃げ道である“死”さえも取り上げられた豪太郎は、痛みを受け容れるしかなかった。
フラリと立ち上がり、自分に顔が付いているのかも確認できないまま、両手で塔の壁を探る。
背後から情け容赦なく続けられる銃撃を受けながら、豪太郎は螺旋階段を上り始めるのだった。
ただ、両手で触れる壁の感触だけを頼りに、一歩、また一歩と階段を上がっていく。
その間にも銃撃は休むことなく、豪太郎の背後から襲い続けられていった。
地獄と形容するに相応しい苦行である。
そんな苦しさに集中力を欠いてしまう。
全身が空を斬り、不快な浮遊感を感じていた。
自らの流す血に足を取られた豪太郎は、欄干のない螺旋階段から落下していたのだ。
「(……けっこう上まで行ってたん……だな)」
迫り来る地面の気配を感じながら、朦朧としていく。
やがて激しい衝撃が頭から突き刺さる。
首が奇妙な角度で曲がっていた。
地上なら間違いなく即死だ。
それでも豪太郎には巨兵痛子の地団駄を踏む音が聞こえてしまう。
死んでいない。
死ねない。
死ぬことは許されない。
「かはっ……」
豪太郎は奇妙な笑い声を上げていた。
見るといつの間にか銃兵痛子が目の前に立っていて、無造作に引き金を引く。
くらりとした目眩を感じながら、豪太郎は塔が伸びるその先を見ていた。
「(……また最初から、やり直し……か)」
途切れ途切れの意識の中で立ち上がると、再び階段を踏みしめていった。
螺旋階段から落下しないように壁に手を這わせながら。
思考が暴力的に分散されていく中、壁に触れる手の平のみに意識を集中させていく。
荒く冷たい壁の感触がやがて豪太郎の記憶を呼び覚ましていった。
痛子は、塔の上にいて豪太郎を待っていると言っていた。
そして豪太郎は痛子に会うために長い階段を上っていくのだ。
それも毎日。
気の遠くなるような高さを、エレベーターもない中を、自分の足だけで上っていくのだ。
そして痛子は毎日そんな自分を待ち続けているのだ。
際限ない痛みからの逃避のように、豪太郎は自らが生み出す幻影を求めていた。
痛子が語っていた他愛もない夢を、幻想として追体験することによって。
そしてそのイメージはまたしても豪太郎に隠れていた記憶を意識させていく。
「違う……」
思わず声に出していた。
その言葉が別の情景を脳内に浮かび上がらせる。
銃兵痛子の銃撃が一瞬だけ止まっていた。
「違う。そんなはず……ない」
またしても声が出る。
その声に呼応するように、銃兵痛子の攻撃は中断したまま。
あたかも彼女自身にも迷いが生じてしまったかのようだった。
「そうじゃない。そんなわけないッ!」
無意識のうちに紡がれていた言葉は、やがて実体を持ち始めていった。
断絶されていたシナプスが繋がりを取り戻し、豪太郎は眼を見開いた。
「痛子が、オレを殺そうとするはずなんて、ないじゃないか」
豪太郎は振り返った。
ショットガンを構えていた銃兵痛子が双眸を瞠る。
驚いたように口を開きかけると、彼女の体が薄くなっていった。
やがて空中に解けていくかのように彼女は実体を失い、透明になった。
階段にショットガンだけを残して。
「ははっ、ははははっ」
乾いた笑いを立てていた。
「カンタンなことじゃないか。痛子がオレを傷つけるなんて、あるはずないんだ」
ずっと痛子を傷つけてきた。
自分のワガママでサスペンドモードを繰り返し、苦しめ続けてきた。
その結果痛子は静止してしまい、こんなとんでもない星を呼びだしてしまった。
豪太郎は、どこかでその報いを受けるべきだと心の奥底で感じていた。
その罰を怖れながらも、待っていたのだ。
そんな機会がこの場所で実体化していたにすぎなかった。
ここは痛子による世界。
だが――
「そして、オレ自身の世界」
豪太郎は塔の頂上に達していた。
目の前にあるのは、いかにも重厚そうな鉄の扉。
右手にはシュレーディンガー計測器。
左手には痛恋人の“箱”。
ワームホールに飛び込んだ時とまったく同じ状態で、豪太郎は扉を見据えていた。
「痛子」
豪太郎の呼びかけに応じて、重そうな扉がゆっくりと開いていった。
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