Episode 41 10の32乗bitの世界・前編

 豪太郎は空を見上げていた。

 全体的に霞がかかったように薄い空に雲はなく、その色合いは天頂から地平線に向けて不自然なほどなだらかなグラデーションを描いていた。

 光量は曇り日程度か。暗いという印象は与えないが、しかし眩しいというほどでもない。

 必要充分な明るさにとどめているという状態だ。

 地面に眼を向けると、申し訳程度に描かれている大雑把な影。

 大地と呼ぶべきであろう地面はところどころゴツゴツとした岩肌を思わせる作りではあるが、作りは雑で、周囲を見回すと起伏が著しく欠如しているのがわかる。

 息を吸ってから吐き出す。

 大気の組成は地球と同じものに思われた。

 豪太郎はそこで自らの手の平をみつめる。

 普段眼にしているのと同じように陰影のある造形をしていた。

 自分が二次元になっていないことにちょっとした安堵を覚えるが、しかしそれも意味のない感覚だと思い意識を別の場所へ移す。


 ワームホールを通過して到着した“痛星”の地表。

 それは痛子が発生させた星の光景だった。

 果たして脳スキャンによって積み重なった不具合によるものなのか、確固とした意図によるものなのか。

 いずれにしてもここが、痛子の痛子による痛子のための世界であることに間違いはなく、問題は豪太郎の存在が異分子として排除の対象になるのかどうかという点にあった。


 ゆっくりと歩を進める。

 どこか取って付けたような軽い足音が、動きに合わせて鼓膜に届いてきた。

 普段の世界と感覚的に近いのだが、なにかが決定的に欠落している風景だった。

 まるでできの悪いゲーム画面を見ているような、ハリボテだけで形作られた風景だ。

 或いは、豪太郎という三次元の存在を描画するために、他の景色が大幅に犠牲になっているという可能性も否定できない。

 もう一度、豪太郎は周囲を見回す。

 これといったランドマークになりそうな物体は見当たらなかった。

 風もなく、匂いもしない。

 諦めたように眼を閉じて首を軽く左右に振ると、豪太郎はゆっくり歩き続けた。


 目印になるものがなにもない中で歩き続けていると、やがて奇妙な眩暈を感じるようになってきた。同時に自分がまっすぐ歩いているという確証が持てなくなっていく。もしかしたら同じエリアをグルグルと回り続けているだけなのかもしれない。

 不安から逃れるように声を出してみる。

「あ、あ、あーーーーー」

 どこか自分のものでないような、誰か他人の声に聞こえてしまう。

 録音した自分の声を安いスピーカーで聞いているような、肝心な部分が間引かれた声だ。


「ん……?」

 地平線の向こうで動いている物体が視野に入ってきた。

 地球と同程度の星であるならば、地平線までの距離は5km程度。しかしその物体はあっという間に視界に収まり、その姿形がはっきりと認識できるようになっていった。

「痛子?」

 痛子の顔をした二次元の人型が一団となって豪太郎に進行してきた。

 中世の衛兵のような格好をした痛子たち。

 それぞれが手にしているのは矢印をそのまま実体化させたようなチープな槍。

 見た目は痛子そのものだが、どこか色調が薄く、それ故に存在感が希薄に感じられてしまう。

「痛子……」

 豪太郎が声をかけてみるものの、反応はなかった。

「(……耳が聞こえない?)」

 或いは、会話という機能そのものを持っていないのか。

 集団を成している痛子兵は無感情というよりは無機質な瞳を豪太郎に向けていた。

 そして言葉もなくチープな槍先を豪太郎に向ける。

 なんの合図もないというのに、全員が同じタイミングで同じ動作を取っていた。

「待て、痛子! オレの話を――ッ!」

 痛子兵の一人が豪太郎の胸部目がけて槍を突き出してきた。

 慌てて横に避ける豪太郎。

 すると別の一体が上段に構えた槍を真っ直ぐに振り下ろしてくるのだった。

「ちょ、待て――ッ!」

 豪太郎の足許で穂先が地面を抉り取る。

 その躊躇のなさに、その完全に感情を排した顔つきに、豪太郎は本物の殺意を感じ取る。

 別の痛子兵が槍を水平に薙いできた。

 慌ててかがみ込むが、その背中と紙一重のところに刃が走る。

「待て、待ってくれ!」

 相手に聞く耳はないと察しながらも、豪太郎は声を張り上げた。

 何十もの機械的な眼が一斉に豪太郎を追う。

 じわり、じわりと豪太郎を包囲していくのだった。

 指揮官のいない集団は声や動作といった見た目のコミュニケーションを取ることもせず、しかしそれぞれの役割を適切に果たしていく。

 痛子が豪太郎と一緒に過ごしてきた時間も、共有してきた記憶も、この痛子兵になに一つ受け継がれていないのは明らかだった。説得することが適わないと判断すると、豪太郎は逃走路を求めて視線を左右に走らせる。


 槍を突くという動作によって乱れた陣形の隙を衝くように、僅かに開いた隙間に体をねじ込ませた。そのまままっすぐに開いた地平線に向かって足を踏み出す。できるだけ速くトップスピードに移行できるように腿を上げ、つま先に力を入れる。

「ぐぁああああ――ッ!!」

 だが次の瞬間には地面に転がり落ちていた。

 左のアキレス腱を矢印型の槍で貫かれていたのだ。

 未知の衝撃と激痛に表情を失い、豪太郎は見開いた眼を痛子兵の一人に向けていた。

 その視線の周囲で、一切のムダを排した効率的な動きで痛子兵は豪太郎を取り囲み、近づいてきた者から順番にその穂先を突き刺していくのだった。

「――ッ!!」

 豪太郎の視界が真っ赤に染まる。

 身動き一つ取るどころか、声も出せないまま豪太郎の身体は凶器によって蹂躙されていった。

 矢印の先のような刃がズブリとその胸や腹部、太腿に突き刺さる。

 だが攻撃はされだけではなかった。

 一度奥まで突き刺さった槍を、痛子兵は無情にも引き抜くのだ。

 刺さった時とは異質の、しかし何倍にも達する激しい痛みが全身を貫く。

 その激痛に身を捩らせる間もなく、再び穂先が振り下ろされる。

 なんの躊躇もなく、極めて機械的に。

 最初の数撃で既に人体の生命維持機能は破綻を来たしていたはずだった。

 なのに痛子兵は何回も何回も槍を突き刺していくのだった。

 まるで数値目標を与えられているかのように自動的に。

 豪太郎の復活を阻止するかのように、徹底的に、完膚なきまでに。

 豪太郎の身体は猛烈な刺突によっていくつもの穴が開けられ、その右腕と右足は胴体から切断されていた。

 最後に額の真ん中に槍を突き刺された状態で、豪太郎はその場に捨て置かれる。

 来た時とは違って、痛子兵は音もなく消えていた。


「いってえええええええ――ッ!」

 しばらく時間が経過した後に、豪太郎の悲痛な声が周囲に響いていた。

「って、なんだよこれ!? ていうか殺す気かよって――ぇええええ?」

 そこまで言いかけて豪太郎は凄まじい違和感に包まれている自分に気づいたのだった。

「えっと……」体は動かないが右眼だけは辛うじて動かすことができた。「なんでオレ、生きてんの?」

 痛子兵に攻撃された瞬間、頭がどうにかなりそうなほどの痛みに襲われていた。

 もし現実世界でそのような攻撃を受ければ、脳は痛みに耐えきれずに痛覚が遮断され、同時に肉体は生存活動を放棄する。死だ。

 なのに豪太郎の意識は途絶えることなく、その場に留まり続けていた。

 狐につままれたかのように不思議そうな眼をぼんやりと明るい空に向ける。

「て、て、て、いてててててててて――」

 再び全身を呑み込む、豪炎に匹敵する痛み。

 だが、それは痛子兵に攻撃されていた感覚とは明らかに異なるものだった。

 次第に首を動かせるようになる。

「いたぁああああ」

 その苦しみは、傷を負う瞬間のものとは違っていた。

 むしろ逆――回復に伴う痛さであったのだ。

 斬り裂かれ、穿たれていた体の部位それぞれが耐えがたい痛みを伴いつつも急速に修復していく。見ると、身に着けていた服まで同じように元の姿を取り戻していくのだ。


「……うへぇ。頭ヘンになりそうだよ」

 思わず独り言を洩しながら、豪太郎はゆっくりと立ち上がった。

 頭を思い切り振り回されたような、尋常でない立ちくらみを感じる。

 鼻孔の奥で思い出したように発生する、金臭い匂い。

 豪太郎の両手には、この世界に到着した時と同様にシュレーディンガー計測器と痛恋人の“箱”。

 二つの機器はなにもなかったかのように、豪太郎の手にあった。

 痛子兵の情け容赦ない攻撃に晒されながらも、ダメージひとつ受けていないのだ。

「よくわかんねえけど……」豪太郎は前方を見据える。「前行くしかねえってことか」


 これといった目印もなければメドも立たないまま、豪太郎は歩いていった。

 途中で何回も痛子兵の襲撃に遭い、その度に逃げ遅れて“殺害”される。

 気が遠くなるような激痛に耐えながら体の修復を待つ。

 どれくらい経ったのか見当もつかないほどの時間が経過した後に、ようやく立ち上がることができるようになり、また歩き始める。

 いつの間にか豪太郎は城門の前に立っていた。

 観音開きの巨大な鉄扉がしっかりと閉ざされており、行く手を遮っているかのようだ。

 試しに片方の扉に手をかける。

 予想していた通り、それはピクリとも動かない。

 巨大すぎる質量が、僅かな動きすら断固として拒んでいるのだ。

 豪太郎はもう一度城門を見回してみるが、通用口のような小門があるはずもなく、結局この巨大な鉄扉を動かすしかなさそうだった。

 だが、急がなければならないといことを豪太郎は知っていた。

 こうしている間にも痛子兵が戻ってきて自分に襲いかかってくるからだ。

「クソッ……」

 巨大な建築物の壁面を押しているように、それはまるで動こうとする気配を見せてくれなかった。豪太郎の微々たる力など、この鉄扉にはまったく無力なのだ。

 

「来るのか……」

 その接近を豪太郎は肌で感じ取る。

 軽い足音の群れだ。

 小さい人形のように質量に乏しい痛子兵の集団が、ターゲットである豪太郎に向かって真っ直ぐに近づいているのだ。

 既に何回も斃されてはいる。

 しかしその痛みを思い出すだけで、豪太郎に怖気が走る。

 それは耐えられる限度を超えた痛みなのだ。

 なのにこの世界では死ぬことはもちろん、正気を失うことすら許されていない。

 ただ、激痛に耐えるだけなのだ。

 それも身動き一つ取れない中で。


 焦りに顔を歪めて、それでも全力で巨大な扉を押していく豪太郎。

 足音がすぐそばまで迫ってきていた。

 振り返るまでもなく、矢印を実体化したようなチープな槍の穂先を自分に向けて、痛子兵の集団が襲いかかってきているのだ。

「(……それでも耐えていれば――)」

 諦念に沈みそうになりながらも、全身の力を入れていく。

 そして、穂先が空を裂き、豪太郎に接近していたその瞬間、

「おわっ――ッ!」

 突如として、観音開きの巨大な鉄扉が内側へ開かれたのだった。

 支えを失った豪太郎は、そのまま城門内へと転げ回っていく。

 慌てて振り返るが、追撃はなかった。

 城門の内側へ入ってくるのが許されていないのか、痛子兵は門の外側で槍を構えたまま静止していた。

 豪太郎を捉えて離さない何十もの無機質な、機械のような瞳。

 一歩でも城門外へ出ようものなら、一切の躊躇いも見せずに遅いかかってくることだろう。


 とりあえず激痛から逃れることができた豪太郎は、安堵の溜息をひとつ。

 そして、ほんの少しだけと思いながら仰向けに倒れていた。

 休息が欲しかったのだ。

 これまで使ったこともないほどの力を入れて扉を押し続けていたのだ。

 少しだけなら。ほんの少しだけなら――

 

 しかし、見上げた空は真っ暗だった。

 それも、闇が急速に迫ってくるのが視野に映っている。

「――ッ!」

 豪太郎は巨大な足の裏に潰されていた。

 体感的にではあるが、身体の厚みが半分ぐらいに圧縮されたような気がした。

 無論、あり得ないほどの痛みが伴っている。

 それは痛子兵の槍に貫かれたのとはまったく違う、どこまでも重い鈍痛であった。

 そんな衝撃が脳天からつま先まで、文字通りまんべんなくのし掛かっているのだ。

 声も出せず、呼吸もままならず、豪太郎は中天へと視線を向ける。

 古代ローマのグラディエーターを思わせる出で立ちの痛子が立っていた。

 地面から見上げた状態でも、それが常識はずれのサイズであることが分かる。

 身長は10mにも及ぶだろうか。

 痛子兵と違って、巨兵痛子は3Dで作られていた。

 しかしその姿はポリゴンという概念が普及したばかりの頃に流行った、対戦格闘ゲームを思わせる簡素な作りだ。

 その巨大で真っ平らな足の裏を、豪太郎の全身目がけて踏み降ろす。

 ズドッという重たい一撃で、豪太郎の全身はさらに半分の薄さに圧縮される。

 さらにもうひと踏み。

 自分が次第に二次元になっていくような錯覚を豪太郎は得ていた。

 室内に紛れ込んだ虫を無造作に踏みつぶすように、巨大痛子は豪太郎を踏みしだく。

 何回も何回も何回も。

 豪太郎の全身が地面の陥没に合わせて薄く引き延ばされていった。

 その身体を中心として深さ1mを超えるクレーターが形作られていく。

 やがて豪太郎はほぼ完全に体の厚みを失い、二次元の存在と化していた。

 辛うじて左右に動かせる眼球が捉えたのは、クレーターの側面。

 自分自身の体を認識することができない。

「(……オレもついに二次元かよ)」

 一通り踏み抜いて豪太郎がペラペラになったのを確認すると、巨兵痛子はどこかへ行ってしまった。


 風ひとつ吹かない中、豪太郎はひたすら堪え忍ぶ。

 全身に均一にかかる猛烈な鈍痛と、それが引き起こす修復を。

 しばらく待って立ち上がると、地面に作られたクレーターは消えていた。

 豪太郎は完全に3Dの身体を取り戻し、ペシャンコになっていたはずのシュレーディンガー計測器も痛恋人の“箱”も傷ひとつない状態だ。

「これが、10の32乗bitの世界……?」

 無意識のうちに声に出していた。


 ホログラフィック原理が正と立証され、人類が宇宙だと信じていたものは二次元境界面が映し出す投影のようなものであるとされている。

 その情報はコンピュータ内のbitのごとき0か1かで置き換えられるもので、それぞれのbitが凄まじい密度で集積されている。極限まで圧縮された情報はプランク長という、存在し得る最小のサイズに圧縮されている。結果、情報密度は人類の創造を遙かに超えたものとなり、1c㎡あたり10の66乗bitとなっている。HDDの容量に換算すると保持不可能となってしまうほどの情報が、僅か1cm四方に詰められているのだ。しかもその境界面は惑星程度の大きさを持っていると考えられている。情報量としてその規模を実感することは、人類という限られた空間と時間を生きる存在には不可能なほどにかけ離れた行為である。


 その二次元境界面と比して、人類がその手で作り上げることのできた痛恋人の情報密度は1c㎡あたり10の16乗×10の16乗。プランク長の世界と比べると、スカスカの密度と言えた。分子を1にしてその比率を見ると、分母は10の34乗。実質的にゼロだ。当然のようにそんな“薄い”世界では様々な情報を保持することが不可能となる。

 だから、痛子の生成しているこの世界では、蓄えられる情報の限界値が低く、死はおろか、怪我さえも描ききれないのだ。

 結果、物理的な攻撃の作用として発生する肉体の損傷が維持されず、そのトレードオフとして痛みという情報が与えられる。しかも限定的な時間の範囲内で。

 死にはそれ相応の情報量が必要でもある。怪我という肉体のダメージについても同様だ。痛みという情報を継続し、それが復旧していく様も記述していかなければならない。

 だが、この世界ではそれがない。情報量の天井があるからだ。

 だから、“痛星”上で見る痛子の世界には死もなければ怪我もなく。代わりに瞬間的な痛みだけが与えられるのだ。

 だが、そう考える一方で豪太郎は強烈な違和感に包まれていた。

 これが痛子の世界なのだろうか。

 あるいはこれは、不具合がもたらす狂った世界だというのか。

 巨兵痛子の重い足音の響きを遠くで感じながら、豪太郎は全力で駆け出す。

 当てもなく、しかしある種の確信をもって。

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