Episode 40 そこにいる、それぞれの事情

 右手にシュレーディンガー計測器(親機)。左手に痛恋人の“箱”。豪太郎はワームホールに飛び込んで、“痛星”にいる痛子に会いに行くという。自分自身の手でこの緊迫した状況をなんとかするために。


 部屋の隅に置かれている洋服ダンスの中には、凄まじいエネルギーを有するワームホールが存在している。

 豪太郎が睨みつけると、まるでその意思に反応したかのようにワームホールは勢いを増していく。その重力に耐えきれなくなったのかタンスの扉が真ん中から真っ二つに割れ、無音のまま呑み込まれていった。

「――ッ!!」

 思わず息を呑む一徹、凉子、そして真実ちゃん。

 フタをなくしたタンスの口が晒しているのは、底のない重力の井戸。

 漆黒の闇にしか見えないはずなのに、そこに微妙な暗黒の濃淡が感じられる。

 光さえもねじ曲げる超重力が、まるで何かの意思を持っているかのようにすぐそこから豪太郎たちを見据えているのだ。

「注意して!」

 真実ちゃんは一徹と涼子の肩を引っ張った。

「なにすんだよ、真実ちゃん!」

「二人は一度ワームホールを通ってこの世界に来ている。このままあそこに呑まれると、たぶん元の時間軸に戻ってしまうはず」

「そ、そうだったわっ!」言われてハッとする涼子。

「クソッ!」歯噛みする一徹。

「だから、ゴーちゃんとは私が一緒に……」

 真実ちゃんは言いながらスーツのジャケットを脱いだ。

 そのワイシャツ姿――正確に言うとワイシャツに包まれた大質量――にゴクリと生唾を呑み込んだ一徹は、強烈な肘打ちを肋骨の下に喰らい、声も出せずに屈み込んで背中を痙攣させた。

「ゴーちゃん、お姉ちゃんも一緒に行ってあげるからっ!」

 ワイシャツの袖を文字通り腕まくりしながら真実ちゃんは言った。

 そんな彼女の声を打ち消そうとするかのように、部屋中の空気が凄まじい風音を立ててワームホールに流れ込んでいく。

 強烈な気流を正面から受けながら、豪太郎は真実ちゃんと正対した。

「ありがとう、お姉ぇ。……でも、オレ一人で行くから」

「なに言ってるのゴーちゃん? あなた一人を危険なとこに行かせるなんて、お姉ちゃんできないわ!」

 さっきまでのとろけそうな表情は既に消えていて、今彼女の顔からは本気の心配が顕われていた。

「痛子とケリをつけるのは、オレ一人じゃないとダメなんだ」

 豪太郎は、しかし落ち着いた表情をしていた。心の中を整理しつくしたかのように優しい口調でこう語る。

「他の誰かの力を借りてたんじゃ、意味ないんだ。これはオレが、オレ自身が生み出してしまった状況だから……オレ一人で解決しなくちゃなんないんだ」

「でも……」真実ちゃんは悲痛そうに顔を歪めた。「あなたに押せるの? “箱”のスイッチを自分で押すことなんて、あなたにできるの?」

 真実ちゃんは情けない声を上げながら、その瞳を哀しみに染める。

 彼女の脳裏に過ぎるのは、痛男を失った時の深い哀しみと喪失感か。

「大丈夫だから」

 豪太郎は笑った。

 気負いなく、自然に。

「ゼッタイ、お姉ぇのとこへ帰ってくるから」

 強がりでもなく、その場しのぎのウソでもなく。

 豪太郎は本気で戻ってくる気でいるのだ――やるべきことを成し遂げた上で。

「じゃ、ちょっと行ってくるから」

 まるで近所のコンビニにでも行ってくるように、豪太郎はふんわりと笑ったまま、ゆっくりと踵を返す。

 そして、微塵も躊躇を見せずに、漆黒の黒穴ワームホールへと頭から飛び込んでいったのだ。

「ゴーちゃん――っ!!」

 真実ちゃんの絶叫が響く中、豪太郎がダイブした直後のワームホールは急速に収束していった。まるで豪太郎を受け入れること自体がこれまでの存在理由であったかのように。

 

 巨大なエネルギーの塊は瞬時にして消失し、風は止み、重力の気配は消え去った。

 中に見えるのは豪太郎の多いとは言えないワードローブ。そして痛子の残していった課金アイテムの残骸――二次元状態のスクール水着(白)や名門私立女子小学校のセーラー服、首輪とセットの赤ランドセル、体操着(臙脂色ブルマ)、上履きバレーシューズ(若干汚れあり)といった、それなりに痛いアイテムたちだった。

「いったいいくら使ったのかしら……」

 ぼそりと呟く睦美だが、しかし豪太郎を非難することなどできるはずもなく。

 彼女もまた、同じような行為に耽っている同好の士なのだから。

 そう、豪太郎は彼女と同じ“人種”なのだ。

 二次元の情報体に心と魂を奪われた、痛々しいヘンタイという名の同胞はらからなのだ。

 ある意味心の繋がりすら感じさせる、そんな恥ずかしいアイテムに眼を向けたまま睦美は口を開いた。

「どうしてなんですか?」

 非難がましい口調でその場にいる大人三人に訊ねる。

 やがてふつふつと湧き上がってくる憤りの感情が、睦美の全身を呑み込んでいった。

「痛子ちゃんが危険だってこと、知ってたんですよね? だったらなんでこれまでずっと放置してきてたんですか――っ!?」

 そこだけを見ればクリッとした愛らしい瞳をキッと吊り上げて、睦美は怒鳴りつけてきた。

 低く野太い声で。全身から湧き上がる怒りを微塵も隠そうとせずに。

 痛恋人を愛する者であるが故に、睦美はこの状況が許せなかった。

 そしてそうなると知りながらなにもしてこなかった大人たち、特に一徹と涼子に激しい憤りを感じていたのだ。

「ああ、知ってたさ」一徹があっさりと認めた。「痛子が危険だってことは、誰よりもよく知ってたよ」

「じゃ、じゃあなんで――」

 不条理に対する怒りで唇を歪める睦美。そんな彼女の震える肩を涼子の手が優しく包み込んだ。

「豪太郎が物心ついた頃から――」

 諭すようでなく、押さえつけるようでなく、涼子は落ち着いた口調で語り始めた。

 その声が心の中にダイレクトに響いてきて、思わず睦美は声を出せなくなってしまう。

「毎月のように“箱”が送られてきたわ」

「――?」

「誤配を装ったり、荷物の中をすり替えたり、学校からの支給物に紛れていたり、いつのまにか玄関の前に置かれていたり」

「手を変え品を変えって……な」

「そのたんびにお母ちゃんとお父ちゃんが見つけて処分してたのよ」

「え?」睦美はよく理解できないとばかりに首を傾げた。

「“箱”いっこ潰しちまえばそれまでのはずなんだがな――フツウは」どこか憎々しげに、それでいて少し愉快そうに一徹が語る。

「何個壊しても次から次と、痛子の入った箱が豪太郎あてに送られてきたのよ」

「それって、どうゆう――?」

「で、あれこれと調べてみたんだが」一徹は肩をすくめながら、ベッド上の痛子を見た。「こんのヤロウ、会社の基幹サーバ内に自分のバックアップを作っていやがったんだッ!」

「え?」

「で、ソイツを突き止めて、会社の業務を何日か止めてまでして駆除したんだ」

「はあ……」

「そしたらヤロウ、そん時には外部サーバへ孫コピーを作ってやがって」

「居場所を特定した時点ではすでに手遅れだったのね」

「で、あっちこっちで情報操作しながら豪太郎に“箱”を渡そうとしてたんだ」

「それも毎月のように、巧妙な手段でね」

「えっと、それってつまり……」

「この世界に痛子のコピーが何十、何百も存在してたってこったぁ」

「え、えええっ!」

 驚愕する同時に、睦美の顔が真っ赤に染まっていく。

 こんな状況だというのに、妄想が発動してしまっていたのだ。

 一人いるだけでも十分幸せだというのに、愛する自分の痛彼氏アーくんが何人も、いや何十人もいたら。


 ――いったいどんなプレイができるっていうの? できるっていうのよぉおおおお――っ!?


 一瞬にして様々なシチュエーションが走馬燈のごとく睦美の脳内をグルグルと駆け巡っていた。そ、そんな、ダメよ、ダメダメ! いけないわっ! ……でもちょっといいかも(はぁと)


「ただ一つ救いだったのは――」

 凉子の落ち着いた声で睦美は現実に引き戻されていた。

「姿を現すことができる痛恋人は一体だけっていうレギュレーションがあったことね」

「……はあ、そうだったんですか」そこで一気にテンションを下げてしまう睦美。

「ねえ、ちゃんと聴いてる?」

 ジト目の凉子に訊ねられて、睦美は慌てて「はいはい聴いてます」と取り繕った。

「そんな感じで、延々とイタチごっこを繰り返してたわけだが、水際作戦もいずれ限界に達する――そう考えたオイラたちは、敢えて痛子を見逃すことにしたんだ」

「は……い?」

「わざと受け容れて監視下に置く。だが、それもそれで問題が出てきちまう。そうなると痛子と豪太郎の二人を24時間体制で監視しなくちゃなんねえからな。で、考えた。学校でも堂々と見張ってられるにはどうしたらいいか――」

「お父ちゃんとあれこれ話し合った結果、結論としては高校生になるのが一番ってことになってね」

「高校生になって?」

「っつーわけで高校二年の異時間同位体であるオイラが、この時間軸に召喚されることになったってわけでな」

「……だからお父さんなのに同級生だった、わけですか」

「そういうこと」凉子が頷く。

「だがオイラ一人じゃあ、もたねえってのがだんだんわかってきてな」

「お母ちゃんも投入されることになったのよ」

「はあ、それで凉子さんも転校してきたと……。ご両親が同じクラスにいるようになったと……」

「ワームホール体質ならではの力業……みたいな?」

「ま、それでも痛子のヤロウにはさんざんウラをかかれまくってたんだがな」

「規制委から逃げたときはさすがにお母ちゃん驚いちゃったわよ」

「もしかしてあの唐揚げパーティの時ですか?」

「そうそう」凉子は首肯した。「サスペンドモードにして真実ちゃんが痛子の意識を凍結させるためにポスターみたいにグルグル巻きにしたんだけど、その時にはあの子ったら逃げる手筈を整えてたのね」

 真実ちゃんがそこでバツの悪そうな咳払いをしていた。

「痛子のヤロウ、そこで本体の情報を放棄しやがって、バックアップの一つを稼働させることにしたんだな」

「それで、規制委がジャンク情報相手に四苦八苦している間に、固定電話のアナログ回線を経由して戻ってきたってわけ」

「普通にネット回線経由だったらソッコーで検知できてたんだがな、あんのヤロウ、ムダに時間かけて安全策を採ってきやがったんだ」

「でも、おかげで痛子の行動を追跡トラックすることができるようになったの」

「行動を追跡、ですか?」

「ああ。執拗に求める“スッキリ”をした後、痛子は眠っちまう。一発仕事しましたみたいにな」

「そうなんですか」

 ――ベッドの上で力尽きて寝息を立てる痛恋人アーくん。それもそれで素敵すぎるかも!

「ちゃんと聴いてる、睦美ちゃん!?」

 すかさずツッコミを入れてくる凉子に対して、睦美は若干頬を染めながら「はい」と頷いた。

「で、痛子のヤロウ、“スッキリ”直後に吸い出したばかりのデータをハブとなるメインバックアップに送信してやがってたんだな」

「どうりで使ってもいない固定電話の使用料が高いと思ったわよ」

「そこは気づきませんか?」

 睦美のツッコミは二人にあっさりと黙殺された。

「メインのバックアップはすぐにサブバックアップへと情報を渡していく。最新情報に上書きされていくんだ。なんつうか、並列化ってやつだな」

「“攻殻”のタチコマみたいですね……」

「そうそうって、よく知ってんな」

「あはは……」

 睦美は一瞬気まずそうに笑ったが、すぐに別のことを訊ねてきた。

「でも、なんで痛子ちゃんってそこまで執拗に金剛丸くんを狙ってたんですか?」

「ソイツはな、元々の設計によるんだ」一徹は神妙な顔で応えた。

「痛男と痛子は別々のプロジェクトとしてスタートしてたのよ」

「そうなんですか」

「痛男が先行して、痛子が後を追うって形だな」

「ところが痛男が自壊しちまって、痛男プロジェクトが凍結された」

「それだけなら問題なかったんだけど……ね」

「痛子には妙な属性が埋め込まれててな。痛恋人の自律性を検証する手段として、対になる存在を前提付けられてたのさ」

「対になるって、もしかして?」

「そうよ。痛子は痛男と対になるように作られていたの」

「だが痛子ができた時には、痛男はもうなかった。そんで痛子のヤロウは代わりを求め始めたんだ」

「代わり……ですか」

「痛男の外観は豪太郎の未来図をシミュレートするようにできてたんだ」

一番手っ取り早い存在じぶんのむすこだから参考にしやすかったのよ」

「痛子のヤロウがパートナーを豪太郎に切り替えるのに時間はかかんなかっただろうな。すぐにターゲットをウチに絞って、自分自身を送りつけ始めたってこったあ」

「それで、あの子を泳がせておきながらバックアップの本丸を特定して、隙を狙って強烈なワクチンを撃ち込んだってわけね。一網打尽にして……一括消去、みたいな?」

「そんなわけで今はもうヤロウのバックアップはねえ。もっとも、バックアップ不在っていう状況が痛子の暴走を加速させてるっていう可能性も、捨て切れねぇわけだがな……」

「それでどうにもならなくなったのが今ここってところなんですか?」

 一徹と凉子は揃って頷いた。

「無責任ってのはわかっちゃいるが、もうこうなると豪太郎のヤロウを信じるしかねえんだ」

「そうね。自分たちの息子を信じるしかないのよ。あとは、落ち着いて見守りましょう」

 そう言って凉子はキッチンに向かった。

「お茶でも飲みましょうよ?」

 一徹がその後に続き、冷蔵庫からビールを取り出す。

 プシュッと音を立ててプルタブを引くと、グイグイと飲み始めたのだった。

「心配しようが落ち着いていようが、なるようにしかなんねえさ。そうだろ、真実ちゃん?」

「それもそうですね」

 諦念を滲ませた笑みを浮かべると真実ちゃんは椅子に座った。

「私にもビール、いただけますか?」

「おうよ!」

 一徹は笑いながらテレビのスイッチを入れる。

 すでに“症状”を起こしている金剛丸家のテレビが映すのは、一体の二次元美少女。

 “氷の王女”と呼ばれる青い髪と青い瞳の持ち主。

 画面の中で痛子は凍てついた表情のまま、ピクリともせずただ玉座に座っていた。

 一徹、凉子、そして真実ちゃん。

 三人の眼にその姿は、豪太郎の到着を待っているようにしか見えなかったのだ。

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