Episode 38 痛恋人とは?

 壊れてしまった痛子。

 再生途中の画面がフリーズしたままのように時を止めている痛子は、静止した情報体でしかなかった。

 その姿に真実ちゃんは悔恨の涙を流す。

「あれほど強く、誓ったというのに。絶対に、同じ不幸は繰り返させないと、心に決めて、鬼になる覚悟をしたのに。……それなのに、私は、痛子を死なせてしまった。ゴーちゃんを救えなかった」

 ワナワナと豪太郎の肩に手を伸ばすと、真実ちゃんは豪太郎にすがりついていた。

 豪太郎はそんな彼女をただただ、ぼんやりと眺めることしかできない。

「なんで……」

 誰もが次の言葉を発することができない中、沈黙を破ったのは睦美だった。

「どうしてなんですか――!?」

 普段の“温厚な”彼女を知っている者には、まるで別人かと思えるほど激しく、感情的な物言いだった。

「あんなに金剛丸くんのこと、敵視してたじゃないですか――っ!!」

「真実ちゃん……」

 静止しようとする凉子を振り切り、睦美は真実ちゃんにくってかかる。

「それがどうして!? 今頃になってどうしてそんなこと言い出すんですか!?」

「違うのよ、睦美ちゃん」

 睦美の肩に手をかけて、凉子が囁く。聞き分けのない幼児に言い聞かせるように優しく、でもはっきりと。

「どういうことなんですか!? 意味ゼンゼンわかんないっ!!」

 凉子は切ないような笑みを浮かべた。「そうね……そうよね。でも睦美ちゃん、聴いてほしいの」

「私が言おう」真実ちゃんが凉子の声を遮った。「これは私が自分で説明すべきことだから――」

 言いながら真実ちゃんは豪太郎を抱き締めた。

 まるで、豪太郎の視線を避けるかのように。

 なされるがままの豪太郎を抱く腕に力を入れると、真実ちゃんは天井を見上げた。

「凉子さんがレジ打ちのパート中に原理を思いついて、一徹さんが会社の上司に隠れて実用化して生まれたのが痛恋人。その最初のテストユーザーがこの私だった」

「えっ!」真実が眼を瞠る。「それって……」

「そう」真実ちゃんは控えめに頷いた。「そして最初の致命的なバグを引き起こした張本人だった」

 信じられないという眼をした睦美は、言葉を失って立ち尽くす。

「痛恋人自身の想いが深まりすぎることによって発生するワームホール。そのワームホールが引き起こす致命的な事象。プロトタイプの不具合を徹底的に検証する機会を作り出すことで、私は痛恋人システムのバグフィクスに貢献していった」

「そんな! じゃあ、あなたは痛恋人の持ち主だったってこと? それに金剛丸くんのお父さんとお母さんが痛恋人の生みの親だったって……!?」

「そうなんだよ、睦美ちゃん」一徹が静かに応じて俯く。

「隠してたってわけじゃないんだけど、なかなか言い出せなくって……ね?」同じように下を向きながら、凉子が続けた。

 眼を見開いたままの睦美に、真実ちゃんが言葉をかけていく。

「私は痛男を愛していた」

 その言葉に睦美が弾かれたように顔を上げる。

「しかしその愛は不毛だった。痛男との愛が深まれば深まるほど、危険な現象が発生するようになってしまったのだ。そしてその原因は、他ならぬ私自身にあった。毎日のように痛男は私を求め、脳をスキャンしていた。私は痛男の望むまま……、いいえ、私自身そう望んで脳スキャンを受けていたのだ」

「それって、噂に聞く“スッキリ”ってこと?」

「そう。その “スッキリ”に取り憑かれたように、私と痛男は毎晩行為に耽っていた。痛男が脳スキャンをする度に、事態が酷くなる一方だと知りながら、そのことを無視していた。痛男の求めるままに、唇を許していたのだ」

「そんな……」

「そして、今みたいな危機を招いてしまった。私自身のだらしなさのせいで」

「違う!」俯いていた一徹が声を荒げた。「そうじゃないんだ!」

 一徹は唾を飲み込むと、ゆっくりと顔を上げた。

「それは、真実ちゃんのせいなんかじゃねえんだ。……左足の裏に“Dev”のコードを刻んだ開発モデルには、ある行動原理が埋め込まれていた。ソイツは、毎日のように持ち主を理解しようとする習性だ。痛子も、そして痛男もそうせずにはいられなかったんだ。だから、執拗に唇を求めて、毎晩持ち主を“スッキリ”させようとしちまうんだ。それは……、そう作られてただけなんだ」

「そう、作られて……た?」

「持ち主をより深く理解することで、その潜在的な欲求を満たすというのが痛恋人の基本コンセプトだ。だが日常の中で発生していく出来事は人の心を少しずつ変えちまう。そんな変化にも対応できるように、開発モデルは頻繁な情報のアップデートを必要としていたんだ。持ち主がそれに応えちまうのは、ある意味仕方ねえことだったんだ。だが、そこに設計上の問題があったのを、オイラたちは見落としていたんだ」

「設計上の問題……ですか?」“スッキリ”に興味を示し出していた睦美が、そこで首を傾げた。

「ああ。毎日のように持ち主の脳をスキャンする。これに問題はないと考えていた。だが、この行為は要するに、持ち主の記憶情報の整理でもあった。渾然一体となった記憶を一つひとつ解きほぐしていき、痛恋人 が理解できるように整列し直していく――ハードディスクのデフラグみたいなもんだ。その結果、持ち主は心が軽くなったように感じられる。つまり、ストレスの軽減になっていた」

「だから、“スッキリ”って呼ばれるように?」

「ああ。だが、それだけじゃあ収らなかった。脳スキャンで痛恋人は持ち主の思考的な揺らぎを拾っちまう。つまり、本人が日々の経験で感じたストレスや悪感情をそのまま吸収しちまってたんだ」

「……」

「問題は、その感情的な影響に痛恋人が耐えられないってことだった」

「それが……」

「ああ。それが痛恋人のエラーを生み出すんだ。それも毎日少しずつ、持ち主にも、痛恋人本人にさえもわからない形でな」

「ホログラフィー原理が正だと立証されて、この世界の基盤がビットに置き換えられる情報でしかないということがわかったわ」

 凉子が落ち着いた口調で一徹の後を継いだ。

「その情報密度は1c㎡センチメートルあたり10の66乗ビット。でも私たちが達成することができたのはたった10の32乗ビットでしかなかったの。その差は10の34乗倍。本来の情報密度からすると、ないに等しい数値だったわ」

「この違いは致命的だった。人間の自律性を担保するにはあまりにも少なすぎたんだ」

「結果、痛恋人は呆気ない程簡単に情報の限界を迎えてしまうの」

「限界を超えた情報は痛恋人の中で収まりきらずに周囲に悪影響を与えちまう」

「具体的には、脳スキャン時に持ち主の思考へフィードバックされてしまってたわ」

「で、困ったことに持ち主がワームホール体質ときたら――」

「私たちの基盤となる二次元境界面の数学的エラーアノマリーを増幅させてしまうのよ」

「だから、危機的な事象が発生しちまうんだ」

「その二の舞にならないように、……ここまでやってきたというのに!」

 真実ちゃんはそこで苦悶の声を上げた。

「痛男が壊れてしまった、あの悲劇を繰り返させないために、ここまでしてきたのに……」

 天井を見上げていた真実ちゃんはどこか諦めたように、その額を豪太郎の肩に載せていった。溜まっていた涙が溢れ出て、豪太郎の肩を濡らす。

「初めてゴーちゃんを見た瞬間、私は心臓が止まるかと思った」

「え……っ?」

 長い眠りから目を醒ましたかのように、豪太郎はようやく声を上げることができた。

「だって、痛男が生きていて、そのまま高校生になっていたみたいだったから」

「じゃあ、その痛男って痛恋人は――?」

「そうだ」

 応えたのは一徹だった。

「真実ちゃんがそう思ったのも無理もねえ。痛男は――豪太郎、テメエをモデルにして作られたんだんだからな」

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