Episode 37 二次元情報体の見る、途方もない夢

 本当に困惑した瞬間、人は頭を抱えたりはしない。

 ただ茫然と硬直するのみだ。

 そして今、豪太郎はまさにそのような状態にあった。


 地球軌道と火星軌道の間に突如として発生した惑星。

 大陸サイズで描かれている二次元美少女の顔のせいで、それが本物の惑星であると信じる者は少なかった。

 豪太郎は、考えるまでもなくそれが冗談などではないと知っている。

 地球規模で考えるとアフリカ大陸くらいの大きさに相当するだろうか。

 それほど膨大な面積を使用して描かれているのは二次元美少女の顔。

 スカイブルーの髪と明るい青色の瞳。

 推定年齢は11歳。

 疑いようもなく、その姿は――

「痛子……!?」

 テレビのニュース画面に映ったその姿に、豪太郎は無意識のまま声を洩していた。

 頭の中は完全にホワイトアウト。

 ほんの少し、痛子を慰めることができるなら……、そう考えていただけだった。

 無論、その結果致命的な事象を招く可能性は承知していたし、それ相応の対価が必要であると覚悟もしていた。

 が、それにしても――!


 一週間後。

 “痛星”と呼ばれるその星は、日を追うごとに見た目のサイズを大きくしていった。

 最初に発見された位置は、およそ地球と火星の軌道の中間点に近い場所だった。

 今、地球までの距離はそこから半分くらいのところまで来ている。

 人類が製造することのできるロケットでは、最短軌道を辿っても火星に到着するのに必要な期間は最低でも6ヶ月。その4分の1の距離を、たった一週間で詰めてきたのだ。

 地上から見上げているだけではまったく体感できないが、単純に計算しただけでも凄まじい速度であるとわかる。

 この勢いのまま、あの惑星が地球に衝突したら――。

 その衝撃に比べれば、約6500万年前に恐竜を絶滅に追いやったといわれるKTイベントなど、虫刺され程度のダメージでしかない。

 地球にとって不釣り合いなほどに巨大な衛星である月の発生については、ジャイアント・インパクト説が有力である。原始惑星だった頃の地球に、火星規模の惑星テイアが衝突し、飛び散った破片が集まって月になったという説だ。また、地球の自転軸はその時の衝撃によってずれたのだとも言われている。

 このまま“痛星”が地球に衝突すれば、そのジャイアント・インパクトと同等、あるいはそれを上回る規模の災厄となるだろう。

 地球上の生命体は当然のように絶滅し、この星に生命が戻ってくるのに何千万年、いや何億年もかかるほどの破壊をもたらすのだ。もっとも、それさえも幸運な状況がいくつも続けば、という前提つきではあるのだが。最悪、現在の軌道から外れて水が液体でいられるハビタブル・ゾーンから飛び出してしまう可能性さえも否定できない。そうなれば金星のような灼熱地獄になるか、或いは太陽から遠く離れて凍て付いた星になるのか。


 豪太郎はもう何日も自室に引きこもっていた。

 昼間の内はカーテンを閉じてベッドに腰掛けたまま、ただ呆然と過ごしている。

 そして、夜になるとカーテンの隙間から夜空を覗き込む。

 火星軌道側にある“痛星”は、昼間には見ることができない。

 代わりに、夜になるとはっきりとその姿を認識することができた。

 その位置は、常に太陽と地球をまっすぐ繋いだ延長線上にあった。

 遠い場所にある満月のようなものだ。

 物体が軌道上を公転する速度は、中心の質量と、中心からの距離で決まる。

 そして物体そのものの質量はここでは影響をおよぼさない。

 その法則を考えるならば、“痛星”が天空の同じ相対位置にい続けるのはあり得ない話であった。

 しかもその公転速度は日に日に遅くなっているのだ。

 常に太陽の反対側に見えるような場所にありながら、公転速度を凄まじい勢いで落としていき、同時に超高速で地球へまっすぐ向かっている。

 しかも自転周期と公転周期が一致しているせいで、地球の月のように、常に同じ面を地球側に向けているのだ。これはつまり、自転周期も同じように遅くなっているということである。

 ニュートン力学的な、古典物理法則ではあり得ない現象が発生しているのだ。


 発見された当初こそ、あの少女は誰だという盛り上がりが見られたが、今その少女はむしろ敵視されるようになりつつあった。

 それというのも“痛星”の接近につれてある症状が多発するようになったからだ。

 症状は、テレビやPCといったモニターに発生した。

 ある瞬間からモニターは本来映すべき画像を見せず、代わりに二次元少女だけを表示するようになってしまうのだ。

 テレビにこれが発症すると、チャンネルを変えようが入力元を切り替えようが、画面に出てくるのは青い髪と青い瞳の少女だけ。そうなると電源を落とすこともできなくなり、コンセントを外さなければ画面はずっと点いたままだ。

 一度そうなってしまうと、どのような措置をとってもモニターは少女しか映さないようになり、使い物にならなくなってしまう。

 たちの悪い広域ハッキングとして各方面で対策が検討されたが、解決方法はまったく見つからなかった。

 じわりじわりと広がるモニターの不全によって、多くの人々が私生活だけでなく経済活動においても悪影響を受けるようになっていた。

 やがて人々は知る。

 それぞれのモニターは、微妙に彼女を映す角度が異なっているということに。

 まるで室内に無数のカメラがあり、それぞれのモニターはそのカメラ一台一台に対応しているかのようだった。


 事態の深刻さと反比例するように、ごく一部ではこの“痛星”に浮かれていた。

 常にモニターが表示する二次元少女は、玉座にひとり座っていた。

 時折、ごく僅かに動きを見せるものの、少女はじっとしている。

 背筋を伸ばした姿勢のいい状態で、どこか高貴な雰囲気さえ醸している。

 表情の変化は見られないが、その瞳はひどく冷たく、どこか威厳を感じさせるものだった。

「彼女は自分を見て欲しいんだよ」と言う者もいれば、

「彼女がこれからのネット世界を支配するんだ」などと推測する者もいた。

 表情を消して、ただ玉座にあり続ける姿は、ある種の人間を強く刺激し、惹きつけた。

 彼らは、モニター上の二次元少女をこう呼ぶようになる――氷の王女と。

 まるで世界中の孤独すべてを包摂しているかのように、彼女は気高い孤高を体現していた。

 ある者はその姿に尊厳を感じ、またある者は畏怖を覚えた。

 彼女を対象とした創作物がネット上に出回るまでに、さほど時間はかからなかった。

 

 そんな世間の動きなど知ろうとさえせずに、豪太郎は一人“痛星”を見つめ続けていた。

 もはや彼に焦りはなかった。

 不安も、そして恐怖も。

 むしろ“痛星”との衝突を待っているとさえ言えた。

 すべてを破壊し尽くす業火の到来を、受け入れる心構えが彼にはあった。

「痛子……」豪太郎は小声を洩す。「これがオマエの意思なのか……?」

 感情を失った瞳が、“痛星”に向けられていた。

 やがて静かに開いていく部屋のドア。

 豪太郎はその気配を感じていた。

 誰が来ているのかは、訊ねるまでもない。

 ゆっくりと振り返り、その虚ろな瞳を向ける。

 一条真実ちゃんは、唇を真一文字に結んでいた。

 背後に立っているのは一徹と凉子、そして榎本睦美――ただ一人の痛恋人持ち仲間だ。

「ゴーちゃんの痛コミュアカウントが削除されたって、彼女が言ってきて……」

 真実ちゃんはゆっくりと豪太郎に近づいていった。

「いったい、どういうこと……?」

 言いながら、ベッドの上のそれに気がつく。

「まさか――っ!」

 眼を見開く真実ちゃん。やがてその瞳が驚愕に染まる。

「くっ……」彼女は唇を噛んだ。「これは! これは……最悪の結末だ」

 肩を振るわせ、絞り出すように声を洩らす。

 真実ちゃんの見せた予想外の反応に、豪太郎は呆然とした。

 危機的な状況をもたらすと知りつつも、豪太郎は痛子を匿い続けていた。

 その結果いくつもの致命的な事象を招いた挙げ句、今地球に“痛星”が衝突しようとしているのだ。

 真実ちゃんは怒り心頭に違いないと思っていた。

 そして、その責めを負う気でいた。

 覚悟という強い気持ちとはほど遠い、どこか無気力な諦念ではあったが。

 しかし真実ちゃんは予想していたのとは、まるで違う反応を見せていたのだ。

 豪太郎はぼんやりとした眼で彼女を見つめることしかできなかった。

「言ったはずなのに! 約束したはずなのに……っ!!」

 俯いた真実ちゃんのメガネに、大粒の涙がポトリと落ちる。

「キサマのようなクズは、ゼッタイに救ってやると……」

 流れ落ちる涙を隠そうとせず、真実ちゃんは豪太郎をまっすぐに見つめてきた。

「……そう自分自身に誓ったはずなのに」

 

 真実ちゃんの背後、ベッドの上で仰向けになっているのは痛子だった。

 初めてサスペンドモードを実行した時のように、表情を途中で止めたまま、開きかけた口と見開かれたままの瞳。

 痛子はもう動かなかった。

 彼女は、壊れてしまったのだ。

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