Episode 36 二次元情報体の見る、他愛もない夢

 ムリして痛々しい笑みを見せる痛子に、豪太郎はこれ以上ない罪悪感を覚えていた。

 同時に底知れない不安に締め付けられていく。

 これから先、いったいどうすればいいのか――?

 

 わかっている。

 わかってはいるのだ。

 論理的に考えるならば、この問題を解決するためには真実ちゃんに痛子を引き渡すべき。

 痛子をかくまっていたことで、真実ちゃんにはひどく怒られるだろう。

 しかし、それによって事象の発生は抑えられる。

 少なくとも人類滅亡の危機は回避できるはずなのだ。

 だが――、

「なぜ……なんだ?」

 自分自身に問うてしまう。

 それでも豪太郎は、痛子を手放したくないのだ。

 いや、手放すという発想そのものが、まったく受け付けられない。

 それは完全にあり得ない選択なのだ。

「痛子……」

 豪太郎はどこか救いを求めるような眼を痛子に向けてしまう。

 視線の先で痛子はまるで遠くを見ているような、それでいてひどく虚ろな瞳をしていた。

 

 答えの出ないまま、無為に時間だけが経過していった。

 その間にも危機的な状況は続く。

 マグネターの発生、

 宇宙ひもの接近、

 三次元空間の破れ、

 衝突間近のブレーン宇宙…等々。

 その度に豪太郎は痛子をサスペンドモードにして時間を稼ぐ。

 そしてアンチ物理規制委員会が事態を収束させるのをじっと待つ。

 安全が確保されると同時に痛子をサスペンドモードから復帰させ、できるだけ優しい言葉をかけてやる。

 度重なるサスペンドモードの実行によって痛子の心は壊れていった。

 そう知りつつも、豪太郎は痛子を手放そうとはしなかった。

 それでも彼女と別れたくないのだ。

 

 やがて痛子は笑わなくなった。

 口数もめっきり減って、話をするのがひどく億劫そうに感じられた。

 いつも悲しそうな表情のまま、眼は伏せがち。

 気がつくと涙を流していることも一度や二度ではない。

 これでいいのか――?

 豪太郎は自分自身に問い掛けていた。

 何十回も、何百回も。

 結局のところ、自分のエゴのためだけに痛子を無為に傷つけているだけなんじゃないか?

 どこに救いなどない、ただ絶望のみが自分と痛子を何重にも包囲しているだけ。

 やはり真実ちゃんを頼るべきなのか。

 それでも、痛子とは別れたくない。

 そんな葛藤に震えていると、痛子は決まってか細い声でこんなことを言うのだ。

「それでも痛子は、ゴーくんと一緒がいいのですぅ」

 そして焦点の合わない瞳を壁に向けたまま、とりとめもなく語る。

「痛子はぁ、ゴーくんと二人だけの世界に住むですよぉ」

 既に何回も聞いた内容になっていたが、豪太郎はイヤな顔ひとつせずに耳を傾ける。

「ゴーくんと痛子だけの星に住むですよぉ」

「ああ、そうだな」

「その星には痛子のお城があって、真ん中にとぉ~っても高い塔があるですぅ」

「うん」

「痛子はその高い高ぁ~い塔の、一番上にいるのですぅ。王女さまみたいにしてるですぅ」

「そうだな」

「高い塔には階段があって、ゴーくんは毎日その塔を上って痛子に逢いににきてくれるですよぉ」

「ああ、毎日行くよ」

「とぉっても高いけど、エレベーターはないから、ゴーくんは階段を歩いて上るですぅ」

「たいへんそうだけど、オレがんばるよ」

「二人だけの星なのですぅ。ゴーくんと痛子のじゃまをしようとすると、お城の兵隊が撃退するのですよぉ」

「おっかないな」

「でもゴーくんには無害なのですぅ。だって、ゴーくんと痛子の……二人だけの星なのですからぁ」

 豪太郎はできるだけ優しい顔を向ける。

 自分でも、それが酷く不自然な笑みだとはわかっている。

 それでも痛子の救いになればと、豪太郎は悲痛な笑みを絶やさない。

 

 痛子は、か細い声で囁いた。

「痛子、ゴーくんとチューしたいですぅ」

「痛子……?」

「でも、たいへんなことになってしまうから、痛子ガマンなのですぅ」

「……」

「ガマンですぅ」

 辛そうに歪む痛子の唇。

 まるで痛みに耐えているかのように眉をしかめる。

 やがて光を失っていく双眸。

 壊れていく痛子は、それでも自制心を保とうと努めていた。

 毎日のように“スッキリ”したがっていたのに、その気持ちを苦しみながらも抑えているのだ。

 豪太郎は躊躇いがちに痛子に手を伸ばす。

 相変わらず触れることなどできはしない。

 ただ、豪太郎の指先のせいで、痛子の像が歪んで見えるだけ。

 哀しみとつらさをたたえた、虚ろな瞳。

 豪太郎は、ゆっくりと、その顔に近づいていった。

「ゴーくん……?」

 これくらいのことで、痛子の心が癒やせるとは思っていなかった。

 それどころか、事態を悪化させるだけということも承知している。

 それでも豪太郎は、痛子の唇を求めた。

 ほんの一瞬であっても、その場限りのごまかしであっても、痛子の願いを叶えたいと、そう思ったからだった。

 痛子の閉じた瞳から涙が溢れ出る。

 それは、柔らかそうな痛子の頬をつっと伝って、音もなく床に落ちる像を描いた。


 数時間後。豪太郎はゆっくりと目を醒ます。

 久々の“スッキリ”。

 こんな状況下でも自分の心が軽くなってしまうことに、暗澹たる気分になってしまう。

 静かな寝息に誘われて視線を向けると、痛子が気持ちよさそうに眠っていた。

 豪太郎は自分の手の平を見つめた。

 この手が彼女に触れられるのなら、どれだけ彼女に安らぎを与えることができるのだろうか。

 またしても詮ないことを考えてしまい、大きく溜息をつく。

 そしてその気配を察するのだ。

「――ッ!!」

 部屋の隅に置かれた洋服ダンス。

 名状しがたい不気味な空気がその扉から沁みだして、部屋中を侵食しようとしている。

 ゆっくりと立ち上がる。

 豪太郎は、怖々とタンスに近づいて、その扉に手をかけた。

「うっ……!」

 タンスの中に広がっているのは、凄まじいまでの妖気をため込んだワームホールだった。

 その強烈な重力が豪太郎の指先にかかる。

 反射的に扉を離してしまう豪太郎。

 タンスの扉は、猛烈な勢いで閉じていった。

 叩きつけられたように激しく閉ざされた扉だが、不気味なことにその音はまったく鼓膜に届いてこなかった。

 音そのものさえもがワームホールに呑み込まれてしまったようだった。


 数日後、奇妙なニュースが人々の注目を集める。

 地球と火星の軌道の間に、突如として惑星が観測されたのだ。

 大きさでいえば地球より少し小さいくらい。

 地球型の惑星であれば、かなりの質量になる。

 謎の惑星の存在に、天文ファンならずとも多くの人間が驚きを禁じ得なかった。

 その惑星はどのようにして姿を見せるようになったのか?

 仮に外惑星が放浪してきて、太陽系の軌道に吸収されたとしても、その登場はあまりにも唐突であり、また不自然なものだった。なにより現在の軌道に到る前に、とっくに観測されていなければならないはずなのだ。

 それだけ大きな質量がその軌道のままで落ち着いていくとも考えられず、地球軌道に接近してくる可能性が考えられた。火星と地球との質量差を考えると、むしろその可能性の方が高いかもしれない。

 そして、そんな不安に応えるかのように、謎の惑星は少しずつ見た目の大きさを増していた。

 つまり、地球に接近していたのだ。


 すぐに見解を表明したのがアンチ物理規制委員会だった。

 その星はアンチ物理によって投影されている単なる“幻”に過ぎず、現在規制委はそのが誰によるものなのか調査中であると発表したのだ。

 幻、つまり二次元情報体であるので、三次元である地球の物質に干渉しようがないのだ、とも。


 専門家だけでなく、アマチュアの天文ファンですら、それがウソであるとすぐに分かった。

 その星は、紛れもなく質量の痕跡を見せていたのだ。実際に、火星の軌道がこの星によって僅かながら影響を受けていることが、すぐに判明してしまう。

 それでも地球規模のパニックを起こすには到らなかった。

 むしろ、天文家の忠告はたちの悪い冗談だと一笑に付されたのだ。

 事態の深刻さとは裏腹に、多くの人々はその星に対して奇妙な盛り上がりを見せていった。

「あの娘はだれ?」

 その星は常に一つの面だけを地球に向けていた。

 そこには、地球でいえば大陸規模の面積で、ある画像が描かれていたのだ。

 スカイブルーの髪と、明るい青色をした瞳。

 年齢は十歳より少し上か?

 あきらかにアニメで出てくる美少女である。

 そんなものが描かれている星が本物の惑星であると考えられるはずもなく、アンチ物理規制委員会の発表はそのまま真実と受け止められた。


 やがてその惑星は、“痛星”と呼ばれるようになっていた。

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