Episode 35 サスペンドモードの意味するところ

 痛子を胸ポケットに入れて登校した豪太郎だが、怖れていた通り事象が発生してしまった。今度は重力係数が指数関数的に増加して人類がペシャンコになるという危機だった。豪太郎は痛子をサスペンドモードにすることで難を逃れた。そして真実ちゃんの言葉は、豪太郎を激しく揺さぶるのだ。


 危機は去った。

 だが真実ちゃんの残していった波動の余波に、鈴木教諭も含めたクラス全体がなにひとつ行動を取れないでいた。

 時計だけが無感情に時を刻み、やがて昼休みを迎える。

 豪太郎は相変わらずショックを受けたまま、床にへたり込んでいた。

 周囲がドン引きする中、気遣いを見せてくれたのは大門くんだった。

「こ、金剛丸くん?」

「……」

 壊れた機械のように顔だけを金剛丸くんに向けていく豪太郎。

「……」

 声が出せなかった。

 ワナワナと唇を震わせるだけの豪太郎。その肩を大門くんが優しくつかんだ。

「もう大丈夫だから……たぶんだけど」

 大門くん自身、自分がなにを言うべきかよくわかっていなかったのだろう。

 だがそれでも、豪太郎をなんとかしようと声をかけてくれたのだ。

 他の級友たちが引き攣ったまま、なにもできない状況下にあるといのに。

「あわ……」豪太郎は辛うじて頷くことだけはできた。

 大門くんがそこで笑みを見せる。

 かなり不自然な笑い方ではあったが、豪太郎から眼を逸らすこともせず、ムリして笑顔を保つ。

「なんか、すごく大変みたい……だけど」必死に言葉を探す大門くん。「でも、ボク……たち、助けるから。きみのこと、ゼッタイ……」

 言いながら玲へと眼を向ける。

「そうだよね?」

 なぜか異常に嬉しそうな顔をしている怜に向けられた大門くんの言葉は、そのまま宙に浮いていた。

「ムリだ」

 ゾクッとするほどの低い声は一徹のもの。

「大門くんのそういうところ、すっごくカッコいいし、惚れちゃいそうだけど」

 涼子の無機質な声がそれに続いた。

「オレらができること、もうないから」

「お母ちゃんたちの範囲、とっくに超えちゃってるから」

 大門くんの優しさに立ち直りかけた豪太郎の心が、ここでポッキリと折れそうになっていた。

「(……そ、そこまで深刻だったのか……!)」

 なんだかんだといいつつ、危機が発生すれば一徹と涼子が事前に察してくれいてた。

 そして、あれこれと手を尽くして事象をやりすごしていたのだ。

 しかし今回は別だった。

 二人とも重力係数の変動を予知することができず、危機の到来を真実ちゃんから聞かされて初めて知ったのだ。

「いや、豪太郎になにが起こるかなんて、まっさきに分かるはずだったんだが」

「同じワームホール体質だから、見逃すはずなんてなかったのに……ね?」

「完全に別フェーズに移行しちまったみたいだな」

「お母ちゃんたちにできること、もうないかも」

 底のない不安に煽られて豪太郎は訊ねてしまう。

「じゃ、じゃあオレ、どうなっちゃうの?」

 すがるような豪太郎に、一徹と涼子は眼を閉じてみせる。

「スマン……」

「ごめんね」

 二人が上げた白旗。

 豪太郎は奈落の底に突き落とされたように意識が遠のいていった。


 その後どう過ごしていたのか、はっきりとした記憶が豪太郎にはなかった。

 ほぼ死に体となりながらも、どうやら放課後まで授業を受けていたようだった。

 その様子を記憶としてではなく、無意識に眺めていた像としてかろうじて脳裏に残っているという程度の不確かさだが。

 自分の足で帰ったのか、そうでないのか。

 はっきりしていることはただひとつ。今は自分の部屋に戻っているということだけだった。

「い、痛子!」

 ベッドに腰掛けて、豪太郎はようやく我に返って思い出す。

「痛子、サスペンドモード解除!」

 豪太郎のコマンドによって、痛子は姿を現わした。

 胸ポケットにいたゼロ次元の痛子は、線状になってから二次元へと広がっていく。

「い、痛子……?」

 スカイブルーのセミロングヘアと、明るい青色の瞳。

 小学校五年生を想定したほっそりとした身体。

 痛子の姿に安堵の息を漏らしかけた豪太郎だが、その悲痛な表情に息を詰まらせてしまう。

「ど、どうした、痛子?」

 やがて痛子はぐずぐずと泣き出していった。

「痛子はぁ……」

 痛子はポロポロと涙を落としていく。

 これまでまったく見せたことのない、ひどく頼りなさそうな姿。

 普段の天真爛漫さからは想像もつかない弱りようだった。

 豪太郎は、背後から鈍器で殴られたかのような衝撃を受けていた。

 慌てて眼を逸らしてしまうが、すぐに思い直し、オドオドと視線を戻す。

 力なく泣き続ける痛子に、豪太郎はどう声をかけていいのか見当もつかなかった。

 為す術もなく、立つ尽くすばかり。

 焦りの滲んだ豪太郎の荒い呼吸だけが、静かな室内に響いていた。


 長い時間が経って、ようやく痛子は口を開いた。

「痛子ぉ……、人格を否定されて気分なのですよぉ」

「――ッ!?」

 弾かれたように立ち上がる豪太郎。

「それって――」

「痛子、いらない子だったですよぉ」

「お、おい……。いったいなに言い出して……」

 掠れた声で訊ねようとする豪太郎。しかしうまく声が出せない。

 痛子はポロポロと涙を落としながら、しかし瞬きもせず豪太郎を見つめていた。

 予想外の深刻な状況。豪太郎はただ彼女の言葉を待つしかなかった。

「痛子、ずっとゴーくんを呼んでいたですよぉ。なのにゴーくん、少しも痛子のこと気づいてくれなかったですぅ」

「……ッ!」

「痛子、周りは見えていたですよぉ。みんなが話していたこともきちんと聞こえていたですぅ。でも、少しも動けなくて、体ぜんぶが押さえつけられてるみたいで、痛子の存在そのものが許されなくなってしまったみたいでしたよぉ」

「そんな……」

「痛子、自分が消えてしまいそうに感じたですぅ。だから、けんめいにゴーくんのこと呼んだですよぉ。いっしょうけんめいに両手を振って、気づいてもらおうとしたですよぉ。でもゴーくん、少しも気づいてくれなかったですぅ。痛子がいくら叫んでも、叫んでも、まるで痛子のことなんか忘れてしまったみたいにぃ……。痛子、死んでしまったみたいでしたよぉ。こんなふうに、痛子のこと、忘れられてしまうのかって、悲しかったですよぉ」


 頭の中が真っ白になっていた。

 自分が呆然としていた間、痛子はずっと苦しんでいたのだ。

 豪太郎に懸命に語りかけていたのに、そのすべてがされていたのだ。

 豪太郎は、すぐにでもサスペンドモードを解除すべきだった。

 痛子を一秒でも早く救い出していなければならなかったのだ。

 それなのに、肝心の痛子のことを忘れてしまって、ただただ怖れおののいていたばかりだったのだ。

 今この瞬間になって、豪太郎はそれがどれだけ残酷なことだったのか、理解することができた。

 存在そのものを否定するようなものだった。

 世界が動いているのに、自分の存在を感じてくれる者はただの一人もいない。

 周りからは完全にないものとして忘れ去られている状態。


 サスペンドモードで痛恋人が傷つくという話は本当だった。

 しかしそれは、単に痛恋人の行動を停止するというものではなかった。

 それはインプットを継続したまま、アウトプットのみをキャンセルするというコマンドだったのだ。

 結果、痛子の声は豪太郎に届けられず、またその意思も遮断されたまま。

 痛子は動いていた。声を上げていた。懸命に訴えようと身振り手振りを繰り返していた。

 それなのに豪太郎は彼女にまったく反応しなかった。

 彼女を、完全に無視した形になっていたのだ。

 まるで死せる魂がなにをどう訴えても、生者に通じることができないかのように。


 すっかり傷つき、自分はいらない子だと儚む痛子。

 豪太郎は必死に彼女をなだめようとするが、彼女は聞く耳を持とうとしない。

 小刻みに震え続ける細い肩。

 豪太郎は手を伸ばしかけるが、途中でやめてしまう。

 像を歪めるだけで、彼女に触れることなどできなしないのだ。

 その逡巡を察した痛子の双眸が、涙を流したまま見開かれる。

 豪太郎は、不安をそのまま顔に出してしまっていた。

 その迂闊さを豪太郎は激しく後悔する。

「痛子はいらない子なのですぅ」

「違う! 違うんだッ!」

 豪太郎は怒鳴っていた。

「痛子は、オレにとって痛子は――ッ!」

 だが、言葉が続かない。なにをどう言っていいのか、頭の中は真っ白のまま。

 それでも、豪太郎はある種の感情がわき上がってくるのを感じていた。

 場違いな気持ちだと分かってはいる。しかし、それでも腹の底からやり場のない憤りがこみ上げてきて止まらないのだ。

「オ、オレは、オレは――ッ!!」

 この理不尽な感情とどう対峙するべきか答えを出せないまま、豪太郎は頭を抱え、乱暴にベッドへと腰を下ろした。

「痛子がいらないなんて、ないッ! ゼッタイにないんだぁあああ――ッ!!」

 八つ当たりのようにそう喚き散らす。

「ないっていったら、ないんだよッ!」

「でもぉ痛子は……」

「そんなこと、言うな! 自分がいらない子だなんて、言うんじゃねぇよッ!」

 

 なぜ自分は怒っているというのか……

 そもそも悪いのはすべて自分自身なのだ。

 痛子が責められるいわれなど、なに一つないというのに。

 なのに、なぜ?

 押さえつけられない感情に振り回されたまま、豪太郎は痛子に困惑の表情を見せる。

 そんな彼に対して、痛子はどこか諦めたような笑みを浮かべるのだった。

 俯きがちに、か細い声を絞り出す。

「痛子、ガマンするのです。……ゴーくんのために」

「い、痛子……?」

 泣きながらムリして笑おうとする痛子は、どこまでも儚げで痛々しかった。

 そんな彼女を豪太郎は再び抱き寄せようとする。

 その腕は空を切り、痛子の像が歪むばかり。感触はまるで得られない。

「くッ……」

 豪太郎が強く噛んだ唇から、血が滲み出る。

 せめて抱き締めてあげることができれば。

 せめて頭を撫でてあげることができれば。

 その痛みを和らげることができるかもしれないし、

 苦しみを分かち合うこともできるかもしれない。

 なのに豪太郎にできることといえば、理不尽に怒鳴り散らすだけ。

「いったい、どうすれば! どうすればいいんだよぉおおおお――ッ!!」

 

 豪太郎は、まるでわかっていなかった。

 彼が本当にすべきは、まず自分自身の気持ちと真摯に向き合うことだったのだ。

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