Episode 34 守ると決めてはみたが……
危機的な状況にあるにもかかわらず、豪太郎は浮かれていた。胸のポケットに痛子を入れているからだ。そんな豪太郎に疑いの眼差しを向けてくるのは真実ちゃん。豪太郎による“真実お姉ぇ”攻撃も、効果は一時的なものでしかなかった。
「あいかわらずおっかないですねぇ、あのお姉さん……」
怖々と声を出す痛子に、豪太郎は「ああ」と応える。
できるだけ顔と口を動かさず、背後からそうと悟られないように。
校舎に入ってその強烈な視線から自由になったところで、豪太郎はようやく息をついた。
「ああ、緊張した……」
それでも油断せずに周囲を窺う。
真実ちゃんの姿はなかった。
豪太郎は誰も自分に眼を向けていないことを確認しながら、口を隠しつつ説明した。
「脳波を下げるのはもう慣れてるから。だいたいα波にもってくことはできるんだ」
「そうなんですかぁ。すごいですねぇ」
「で、精神状態がいいのに事象が発生してしまう。しかもパフォーマンス値は低いまま。きっとお姉さんは不思議なんじゃないかな。これが計測器の故障とか思ってくれるといいんだけど」
意図的に脳波を下げることで、事象発生は自分とは無関係という印象を与えることができるはずだと思ってはいた。実際に真実ちゃんもそれで引き下がってはくれたのだ。だが、それでも彼女からは激しい怒りの混ざった、強烈な疑念の眼を感じてしまう。
やはり不自然な印象を与えてしまっているのだろうか。
あるいは、端から信用されていないということなのか。
豪太郎の表情が自ずと硬いものになっていく。
もしかして、本当はとっくにつかまれているのか。
単にまだ実力行使には出ていないだけだというのか。
猛然と強まってくる疑念と不安に豪太郎は眩暈を覚える。
「い、いかん!」
豪太郎は左胸に手の平を当て、自分を落ち着かせるために大きく息を吸い込んだ。
決心したのではないのか!
痛子を手放さないと決めたのではないのか!
「痛子……」誰にも聞こえないような小さい声。
しかし、強い意思に支えられた声。
「オレは痛子を守るから」
痛子がはっと息を呑む音が、豪太郎には聞こえた気がした。
四時間目の授業中。
今度はなにが怒るのかと戦々恐々としていたため、授業内容はまったく頭に入っていない。
豪太郎は窓ガラスを叩く風の音にも体をビクリと震わせてしまうくらい、強度の緊張を強いられていた。
今のところ一徹と凉子が反応を示す兆候は見られていない。
だが、油断は厳禁。
恐る恐る教室内を見回すと、玲と眼が合ってしまった。
そういえば――豪太郎はそこで気がつく。
今日はまだ玲とは挨拶すらしていなかった。
薄情なことに豪太郎は彼女のことをまったく意識していなかったのだ。
無論、真実ちゃんのこともあってそれどころではなかったというのが実際なのだが、それにしても我ながら薄情だと反省せずにはいられなかった。
しかし、その玲はというとどこか嬉しそうなのだ。
まるで、これまでの恥じらいを忘れてしまったかのように豪太郎を注視している。
しかも眼が合っても逸らすどころか、却って嬉しそうですらあった。
豪太郎は首を傾げかけたが、そこで我に返る。
彼女には申し訳ないが、今は意識を向けている余裕がないのだ。
鈴木教諭の持つチョークが、カツカツと音を立て、黒板には方程式の解へ到る道筋が展開されていた。
昼食前の空腹時にもかかわらず、クラス中の眠気を誘うリズミカルな響きだ。
そんないつも通りの弛緩した空気の中、教室の扉が静かに開いていった。
「――ッ!」
そこに立っているのは予期したとおり真実ちゃん。
いつもとは違って、やけに落ち着いた振る舞いだ。
だが豪太郎はこの時点で泣きそうになっていた。
「(……ハ、ハンパねぇ……)」
彼女が纏う空間そのものが不自然にねじ曲げられ、渦を巻いているかのようだった。
豪太郎は慌てて視線を逸らそうとするものの、なにか得体の知れない力によって瞳を動かすことすらかなわなかったのだ。
――カツン、カツン、カツン――
低く硬質な音が豪太郎の意識に入り込んでくる。
真実ちゃんの顔は、一言で表現するならば真っ白であった。
完全に感情を排除した顔である。
彼女の中でなにかが限界点を超えてしまい、もはや表情として現わすことができない。
それ故に今の彼女からは微塵もその心中を察することができないのだ。
とはいえ、それに触れた瞬間どんな恐ろしいことになるのか、豪太郎は全身の皮膚で感じ取っていた。
真実ちゃんはゆっくりと口を開いた。
落ち着いた口調と低い声。
豪太郎にしか聞こえないほどの囁きだった。
「たった今、重力係数の変異が観測された」
ガタンと机を倒しながら立ち上がったのは一徹と涼子。
わなわなと唇を震わせ、言葉を外に出せないでいるのだ。
「現時点ではほぼ誤差の範囲内と言っていい。しかしこの変異が大きくなっていくとアンチ物理規制委員会は考えている」
「なんだって……?」かろうじて、絞り出すような声を一徹は出した。
「そして重力係数は今後、指数関数的に増大していくと予測されている」
「ってことは、もしかして……?」凉子は眼を見開いたまま、口をパクパクさせているばかり。
「その結果については、あなた方二人には説明するまでもないはずだが」
真実ちゃんはそう告げると、視線を豪太郎へ戻した。
「えっと……、いったいどのようなことが?」
恐る恐る訊ねる豪太郎に対して、真実ちゃんは無機質な顔のまま語っていった。
「この宇宙は、奇跡といっていいほど絶妙な相互作用のバランスによって成り立っている。人類が把握している力はたった四つ。重力、電磁気力、そして強い力と弱い力。そしてまだ解明はされていないものの、ダークマターやダークエネルギーもその存在が認められている」
「は、はあ……」
「これらエネルギーは緻密で繊細なバランスを成し、だからこそ今の宇宙はこの姿をしているのだ」
「……」
「例えば、電磁気力がほんの少し強くても、弱くても物質は存在しえない。電磁気力が強ければ、原子内の電子はエネルギー準位を保てなくなり、陽子と電子が結合して中性子になってしまう。原子のありようは陽子の数によって決まるわけだから、元素が元素でなくなってしまうのだ。また……、電磁気力が弱ければ、電子は陽子から離れてしまう。原子は原子核のみとなってしまい、やはり元素という形を取れなくなってしまう」
いったいお姉さんはなにを言いたいのだろうかという疑問をぐっと抑えて、豪太郎は無言を守る。
「これはほんの一例に過ぎない。同じように、重力の強さが変わってしまえば、宇宙はその姿を大きく変えてしまうのだ。具体的に言おう」
真実ちゃんは相変わらず無表情のまま、豪太郎を見据えていた。
「今、重力が強くなりつつある。この状態が続けば、宇宙はゆるやかな加速膨張をやめて収縮に転じていく。最終的にはビッグクランチと呼ばれている現象が発生する。時計が巻き戻されるようにこの宇宙はビッグバンのような状態に戻っていくのだ」
「……ッ!」
「とはいえ心配はいらない。その瞬間まで人類が生き残ることなどできはしないのだからな」
「……ッ!!」
「宇宙が破滅を迎える前に、人類は地球の重力に押し潰されてしまうだろう。地上にいるほぼすべての生命体はこの力に耐えきれないはずだ。そして、次に地球自体が自らの重みに潰されていく。直径が4万キロもあるこの惑星は急速に縮小していき、やがて半径9mmのサイズ、つまりシュバルツシルト半径を割るだろう。結果、地球はその質量を支えきれずブラックホールと化す」
「(……ひ、ひぇえええ!)」
「今は体に感じる異変はない」
やけに無機質に見えてしまう、真実ちゃんの瞳。
「しかし明日には確実にそれが起こるのだ」
「あ、明日……!?」
雰囲気に圧されて口を開けなかったクラスメートたちが、ここでようやく動揺を露わにする。
ざわざわと不安げな声が響く中、豪太郎は助けを求めるように一徹と涼子に眼を向けた。
「――ッ!」
意外にすぎる光景に豪太郎は眼を見開いてしまう。
一徹も涼子も、頭を押さえたまま俯いているのだ。
最悪、二人がなんとかしてくれるのではないかという楽観が豪太郎には確かにあった。
しかしそんな甘えは、たちどころになく消し去られてしまったのだ。
力なくうなだれる二人の姿は真実ちゃんにも驚きだったのか、彼女は釣られるように一徹と涼子を見ていた。
「ゴーくん……」
豪太郎にだけ聞こえるひそひそ声で痛子が話しかけてきた。
「ゴーくん、使うのです。今あのコマンドを使うですよぉ」
「で、でも……」
よそを向いている真実ちゃんから眼を離さずに、豪太郎は頼りない声を洩す。
「でももクソもないですぅ。いまやらないと元も子もないですよぉ」
痛子の言葉に促されて、豪太郎は決断に追い込まれていった。
「痛子、……ゴメン」
言ってから微かに唇を動かす。
“サスペンドモード”――と。
鉛のように重苦しい空気の中、真実ちゃんのケータイが震えた。
「一条だ」
真実ちゃんはそう応じた後で、口を開くことはなかった
端末の向こうで語られている内容はまったく聞こえない。
その静けさが教室内に不気味な不安を満たしていく。
時間にすればほんの数秒の出来事だった。
真実ちゃんはゆっくりとケータイを切ると、
「異変は解消された。重力係数は元の数値を示している」
級友たちがお互いに顔を見合わせた。
意味はよく分からないのだが、その雰囲気から、どうやら危機が去ったと感じたのだ。
真実ちゃんは音も立てずに踵を返すと、教室の出口に向かって歩き出す――と思えた。
ッゴッッッッン――ッ!!
無言のまま振り下ろされた拳。
叩き割られた分厚い合板。
ひしゃげたスチール製のフレーム。
床に飛び散った教科書、ノート、筆記用具。
豪太郎はその場でズルリと椅子から落ちてへたり込む。
すぐ目の前で、自分の机が真っ二つに破砕されたのだ。
鬼神の波動が豪太郎にのしかかっていた。
死の呪いを受けたかのように豪太郎は硬直したまま、身動きひとつ取れない。
「――ッ!!」
真実ちゃんの右手が荒々しく豪太郎の胸ぐらをつかみ、体ごと持ち上げていく。
小さい身体からは想像もつかない、有無を言わさぬほどの剛力だ。
息が苦しいと感じることすらままならない、まるで重機のような力が締め上げていく。
豪太郎の中で、なにかの感覚が強制的に閉じられた気がした。
思考を放棄した脳は、豪太郎に硬直を強いていたのだ。
「キサマのようなクズは……」
地の底から響いてくる怒りの波動が、豪太郎の全身を蹂躙する。
「キサマのようなクズは――っ!!」
真実ちゃんは顔を近づけて、豪太郎の耳にその言葉を告げた。
教室内にいる他の誰にも聞こえないように。
「……ッ!!」
手を離されると同時に、豪太郎は力なく崩れ落ちる。
真実ちゃんは静かに教室を後にしていった。
「だ、大丈夫……?」
何分も経過したあとで、ようやく口をひらいたのは大門くんだった。
心配そうな顔で近づいてきて、豪太郎を気遣ってくれる。
「あ……」
豪太郎は眼を見開いたまま、唇をわずかに震わせた。
言葉が出てこないのだ。
頷くことも、首を振ることもできない。
衝撃に全身が呑み込まれたままで、反応が一つもできなかったのだ。
豪太郎はかつてないほどの衝撃を受けていた。
無論、真実ちゃんの鬼のような恐ろしさもショックであった。
だがそれ以上に、最後に彼女が口にした言葉が、豪太郎を激しく揺さぶっていたのだ。
『キサマのようなクズは――っ!!』
真実ちゃんは告げたのだ。
『キサマのようなクズは、ゼッタイに救ってやる』――と。
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