Episode 33 胸ポケットには二次元嫁
昼間のガンマ線バーストに続き、夜中には原始ブラックホールの登場。一日に二度目の事象発生というのもショックだったが、それ以上に便器の中に飛び込んでしまったのが豪太郎の精神に激しいダメージを与えていた。無論、両親のヘンタイプレイについては言うまでもない。
バスタオルを頭にかけたまま部屋に戻った豪太郎を待っていたのは、不安そうな顔の痛子だった。いつもの天真爛漫な様子はすっかり影をひそめていて、どこか怯えているようにすら見える。
「ゴーくん……」
豪太郎は静かにベッドへ腰かけて、痛子と眼を合わせる。できるだけ刺激しないように優しい面持ちで。
「また事象が発生したですかぁ?」
豪太郎はゆっくりと首肯した。
「痛子のせいなのですぅ……」
消え入りそうなほどか細い痛子の声。
「痛子がゴーくんに無断で“スッキリ”してしまったからなのですよぉ」
いつになくしょんぼりしている姿に、豪太郎は怒る気にはなれなかった。
代わりに頭を撫でようとして手を伸ばしてしまう。
無論、いつものように触れることはできず、痛子の像が歪んだだけだった。
「なあ痛子……」豪太郎は可能なかぎり優しい口調を意識していた。「なんでそんなに“スッキリ”したがるんだ?」
「それは……」
痛子は答えかけて思わず口を閉じてしまう。
俯いてしまった痛子を前にして、豪太郎は返事を急がせなかった。一方でその理由について考えてしまう。
確かに“スッキリ”によって豪太郎の心が一時的に軽くなるのは事実だった。
しかし、単に豪太郎を喜ばせるというだけの理由で痛子がここまで執拗に“スッキリ”に拘るとも思えない。それはあまりにも不自然だ。ならば、なにか他に理由があるというのか。
「痛子はぁ……」
しばらくの沈黙の後で、痛子はようやく口を開いた。
「痛子は知りたいのですぅ」
「知りたいって、なにを?」
「ゴーくんのこと」
「……?」
視線を床に落として痛子は語った。
「痛子はゴーくんのすべてを知りたいのですぅ」
豪太郎は首を傾げる。
「だって、痛子オレのことほとんど知ってるじゃないか?」
痛子はブルンブルンと首を振った。
「ほとんどではダメなのですぅ。ゼンゼン物足りないのですよぉ。痛子はもっともっともっと知りたいですぅ。毎日まいにち、ゴーくんになにが起きて、ゴーくんがなにを思って、どう感じて……。痛子はゴーくんのこと、すみからすみまで知りたいのですよぉ」
「知りたいって、……それって?」
豪太郎はそこで思い出していまう。
痛恋人は最初に箱を開けたときに、持ち主の脳をスキャンするようにできている。
そのスキャン結果に基づいて、持ち主の潜在意識に沿う行動を取るのだ。
顕在的に考えていること、欲していることではなく、潜在的に求めているもの。
意識していなかった性癖や、押さえつけられていた欲望を露わにしていくのだ。
その結果、持ち主は精神的に揺さぶられながらも、痛恋人に惹かれていく。
そもそもが本人の心の奥底で眠っていた願望なのだ。
半ば強制的に表層へ引き摺り上げられた密かな願いが、持ち主の意識に差し出されていく。
その積み重ねによって、持ち主は痛恋人と心の深い部分で結び合ってしまう――秘密と快楽を共有する、分かちがたいパートナーとして。
しかし、通常の痛恋人であれば、脳スキャンは初回起動時の一度きり。
脳スキャンを繰り返さないという仕様になっているのだ。
しかし痛子は製品版ではない特殊なバージョン。
シリアルにDEVとあったので、開発バージョンと見て間違いないだろう。
市販品されているプロテクト機能が実装されていなくても不思議はなかった。
「そうなのですよぉ」
痛子は、豪太郎の胸の中を読んでいるかのように語った。
「“スッキリ”は脳スキャンなのですぅ」
つまり痛子はほぼ毎日のように脳スキャンを実行していたということだ。
持ち主である豪太郎をより理解するために。
豪太郎に起きた出来事一つひとつを把握し、その記憶を整理していく。
それは言わば、記憶の再構成であった。
しかし、それで豪太郎の気分がよくなることの説明にはならない。
そして、体が妙に重くなってしまう理由も。
「でも、なぜか“スッキリ”するとゴーくんがピンチになってしまうですよぉ」
「……」
“スッキリ”と事象発生の因果関係についてはよくはわからないが、結果だけをみればその通りだ。
しかし豪太郎にはひとつ考えることがあった。
「(……もしかして痛子はそう作られているのでは?)」
他の痛恋人とは違って、痛子は日常的に持ち主のことを知りたがる。
そのために脳スキャンを実行してしまう。
それは痛子の願望という以前に、設計?
だとしたら、痛子が不自然なまでに“スッキリ”したがるのも自然なことと考えられる。
そのようにできているのだとすれば――
しかし問題はその理由ではなく過程と結果である。
「“スッキリ”すると、痛子はどんな感じになるんだ?」
「痛子はよくわからないですぅ。ただぁ、痛子が痛子でなくなっている時間があるような気がするですよぉ。それも最近になって、その時間が長くなっているようなのですぅ」
もちろん痛子が人類絶滅の事象を意図的にもたらしているとは考えられない。
しかしそれがバグであるならば、つじつまは合う気がする。
“スッキリ”を連発することによって発生するバグ。そのバグが事象の地平面にアノマリーを刻みつけ、結果として人類絶滅に繋がりかねない事象が豪太郎に向けてピンポイントに引き起こされる。
豪太郎にはわかっていた。
ここで頼るべき相手は真実ちゃんただ一人であるということを。
しかし、それは痛子が今豪太郎と一緒であると知らせるようなものである。
豪太郎は唇を強く噛んだ。
「(……できるはずない。そんなこと、言えるはずない)」
どうしたらいいのか焦りだす豪太郎のすぐ脇では、しょんぼりとうなだれている痛子。
その弱々しい姿に、豪太郎は心撃たれるものを感じてしまうのだった。
不条理に湧き上がってくる、愛しさという感情。
守りたいという衝動。
痛子はしょせん、情報体にすぎない。
二次元境界面に記載されたビットの塊でしかないのだ。
その密度は1c㎡あたり10の32乗ビット。
それだけでもかなりの情報量ではあるが、ブラックホールの事象の地平面に記された1c㎡あたり66乗ビットという量に比べると格段に少ない。
それゆえに二次元という形態しか取れず、また人間が触れることもできない。
つまり、幻と同義である。
持ち主の深層心理が生み出した幻影を可視化しているだけなのだ。
でも、それでも。豪太郎は思う。
それでも痛子を手放したくないと、強く思ってしまう。
ともにいたいのだ。
痛子が実体を伴わないプロジェクションにすぎないと知りつつも、豪太郎は痛子とは離れたくない。今までのように毎日一緒に暮らしていたい。
シュレーディンガー計測器のおかげでリア充になってみても、心の空白を埋めることはできなかった。だが今痛子が隣にいるという状況になって、初めて豪太郎は実感することができたのだ。
既に彼女は、豪太郎にとってかけがえのない存在になっているのだと。
「痛子……」
驚いたように顔を上げ、不安げな眼を向けてくる痛子。
豪太郎は優しく微笑みながら、こう囁いた。
「痛子はオレが守るから」
「――っ!」
「守るから――」
もしこの場で痛子を抱きしめることができたら。
豪太郎は思わずにはいられなかった。
そうしたら、どれだけ痛子を安心させることができるのだろうか。
どれだけストレートに自分の気持ちを伝えることができるのだろうかと。
豪太郎は痛子に触れてみたいと思う。
自分自身のためでなく、痛子のために。彼女のためだけに。
翌日。
やけにテカテカしている一徹と凉子は自転車二人乗りでとっとと学校へ向かっていた。
どうやら昨日のプレイで愛が格段に深まったらしい。
高校二年生の豪太郎には想像さえしたくないことだったが。
しかしこの状況、豪太郎にはむしろ好都合だった。
「じゃ、オレたちも行こうか」
「はいですぅ」
豪太郎の声に応えるのは、痛子のはずんだ声。
状況としては非常に悪いのだが、それでも豪太郎はウキウキせずにはいられなかった。
「ゴーくんと登校♪ ゴーくんと登校♪」
痛子が奇妙なメロディーをつけて歌い出す。
「おう、おう、おう~♪」
それに合わせて豪太郎が合いの手を入れる。
痛子はインビジブルモードを起動したまま豪太郎の胸ポケットに入っていた。
0次元になって不可視状態になっているが、意識はそこにあり、会話も不自由なくできる。
声さえ聞かれなければ二次元恋人と一緒など、バレることはまずない。
豪太郎には策があった。
昨晩はそれ以降“スッキリ”をおこなわなかったが、いつまた事象が発生するともかぎらない。
ならば、速やかに対応できるように痛子を自分のすぐそばに置いておくことにしたのだ。
緊急事態が発生したら、サスペンドモードを起動し、その場をやり過ごす。
唐揚げパーティのときに真実ちゃんが命じた対策を、そのまま実行するのだ。
痛子とは合意済み。
もちろん、根本的な解決にはならないのは自覚している。
しかし、人類滅亡の危機を回避しつつ痛子と一緒にい続けるには、それ以外の方法が思いつかなかったのだ。
「い・た・こ♪」
「ゴーくん♪」
事態の深刻さとは裏腹に、傍から見たらバカップルとしか思えないような浮かれっぷりであった。
「うげッ!」
冷や水どころかバケツ氷水を頭上からブッかけられたような声を出す豪太郎。
校門で待ち構えていたのは真実ちゃんだった。
近いうちに来るだろうなと覚悟はしていたが、まさかの朝イチ校門待ち伏せである。
「わたしがここにいる理由は言うまでもないだろう」
人を圧する真実ちゃんの低い声に豪太郎はブルリと震える。
「その割に脳天気な顔をしていたが。……お気楽なものだな」
迂闊にも痛子とラブラブなデレ顔を目撃されてしまっていたのだ。
「き、気のせいですよ」
即答する豪太郎。当然、かなりムリがあるとわかっている。だがここはシラを切り通すしかないのだ。
真実ちゃんはゼンゼン信用していないという顔で豪太郎に問う。
「シュレーディンガー計測器は?」
豪太郎から計測器を受け取ると、真実ちゃんはディスプレイを注視した。
「相変わらずパフォーマンスレベルは大きく落ち込んだままか」
豪太郎は不安を押し隠すようにディスプレイに眼を向ける。できるだけ表情を真実ちゃんに見られないようにして。
「しかし解せない。なぜピーク値が現れてこないのか」
「……」
「パフォーマンスレベルは帳尻が合うようにできている。マイナスがあればどこかでプラスがある。なければならないのだ。しかし、現状マイナスしか出ていない。あり得ない状況だ」
故障では?というセリフが出かかるが途中で抑える。やぶ蛇になりかねない。
「一方で脳波は安定している。ずっとα波のままのようだ」
真実ちゃんは不思議がりながらも、油断なく豪太郎を見ている。監視するかのように。
「お姉ぇ?」
不意に放たれた豪太郎の声に、真実ちゃんの全身がビクリと震えた。
「真実お姉ぇ?」
真実ちゃんは「はうぅん!」と漏らしかけて慌てて口を両手で塞いだ。
ピクピクと震える肩と、にわかに赤く染まっていく耳たぶ。
辛うじて衝動を抑えつけるという、いっぱいいっぱいの表情だ。
「(……やっぱり!)」豪太郎は心の中で破顔する。(……お姉さん、『お姉ぇ』って呼ばれるのに弱いんだ!)」
豪太郎による“真実お姉ぇ”攻撃は予想通りの威力を発揮していた。
「はぅはぅはぅはぅ……」
なにやら激しく悶絶したようにフラフラと歩いていく真実ちゃんの後ろ姿を、豪太郎は無言で見守る。
相変わらず大きめのおしりがタイトスカートに締め付けられて窮屈そうだった。
あんなスカートでなければマシュマロのようにプワンプワンと揺れているに違いない。そんな妄想に侵食されていくのだが、豪太郎は痛子の声で現実に引き戻された。
「ゴーくん、今エロいこと考えたですよぉ」
「あ、いやぁ、そんなことは……、そんなことは!」
「痛子にはバレバレなのですよぉ」
インビジブルモード状態で胸ポケットに収まっている痛子。
彼女のジト目がやけにリアルに想像できてしまうのだった。だが、
「……」
ごくりという生唾を飲む音が周囲に響く。
豪太郎は、背中に強烈な視線を感じていた。
感じていながら、敢えてそれに気づかないよう振る舞う。
「(……振り返っちゃダメ、振り返っちゃダメだ)」
身を圧するほどの濃厚な殺意に震えないよう、慎重に歩を進めていく。
“真実お姉ぇ”攻撃の効力が思った以上に長続きしなかったことに、豪太郎は激しく動揺していたのだった。
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