Episode 26 地味で美形という、豪太郎にとっての理想像

 ワームホール体質ゆえに不安定なパフォーマンスを演じていた豪太郎に福音となったシュレーディンガー計測器。ニューロフィードバックは予想外の効果をもたらしていた。しかし心に余裕が生まれてしまった豪太郎は、そこで余計なことに気づいてしまうのだ。


「どうしたの金剛丸くん?」

 豪太郎の視線を感じた大門くんが訊ねてきた。

「いや、あのさ……」

 黒井玲をじっと見つめている大門くんに違和感を覚えたものの、はっきりとそのことについては訊きにくく、豪太郎は言葉を詰まらせてしまう。

 そこで苦し紛れにこんなことを言っていた。

「トイレ行かない?」

「うん、いいよ」

 なんだそんなことかと、大門くんはあっさりと応じてくれた。

 うまく切り抜けられたことにホッとしつつも、何気なく口に出した言葉の意味をそこで初めて認識するのだった。

「(……あれ? これって人生連れション……!?)」

 記憶のある限り、それは初めての主体的な連れションだった。

 しかも相手はクラス一のイケメン、大門くんだ。

 なんというか周囲からくる羨望の視線が、熱量を一気に上げたように感じられてしまう。あくまでも本人内部限定の錯覚でしかないのだが。

 実際のところは、あいかわらず大門くんが変なのにからまれてるな程度の受け止められ方でしかなかった。


 二人で男子トイレに入り、小用便器に並んで構え、用を足しながらどうでもいい会話で時間を埋める。

「(……これだッ! これこそが連れションッ!!)」

 あまりの感慨深さに、立ち上ってくる尿の臭いですら心地よく感じられる。

 傍から見ていると実にどうでもいいようなことなのだが、豪太郎にとってこれは大きな一歩だった。

 物心ついた頃からワームホール体質に翻弄されていた豪太郎には、休み時間に仲間同士で連れ立っていくトイレは憧れの対象ですらあった。しかし、突発的に超人的な能力を発揮する豪太郎は、イジメの対象にこそならなかったが、周囲からははっきりと浮いてしまっていた。積極的には関わり合いたくないという存在だったのだ。気軽にトイレに行こうなんて声をかけることはこれまで一度たりともなかった。


 小であれば用を足した後で手を洗わないという男子は結構な割合で存在するが、大門くんはきちんと洗う派であった。おまけにハンカチで手を拭くというおまけつきだ。

「(……ちゃんとしてるなぁ)」

 ハンカチを持参していなかったことを後悔しつつも、ズボンの尻で水気を取って廊下に出る。

 教室に戻る途中、話題も自然に出てきてくれた。

 昨日の唐揚げについて。睦美がなぜかタルタルソースを持参していた件について。そしてラブちゃんの料理スキルについて。

 しかし大門くんの表情がパッとしないので、慌てて話題をよそに移していく。

 そんな会話の回し方もナチュラルで淀みなく。

 まさに、シュレーディンガー計測器様々であった。

 そんなふうに弛緩した状態で教室に戻ってみると――


「なに……?」

 視界に飛び込んできたのは、正座している一徹の姿。

 相当ハデに殴られたのだろう。その顔は何カ所も真っ赤に腫れていた。

 しばらく経つと青あざになって、酷い見た目になること間違いなかった。

 その一徹の前で仁王立ちしているのは、確認するまでもなく母凉子だ。

 竹刀を床に突き立てた姿勢、威圧的な眼光。

 般若の相である。

「うっ、ブルル……」放尿直後にもかかわらず、背筋がブルリと震えてしまう豪太郎。

 我が母ながら実に恐ろしい。

「って、パス?」

 そのすぐ横で当事者ですといわんばかりに、立ち尽くしているのはサイコパス少女、黒井玲。

 相変わらずマットな黒髪が長すぎて鬱陶しいことこの上なかった。

 しかしいつもの邪眼はすっかりナリを潜めていて、迫力というか凄みがまるで感じられない。

「(……アイツでも困惑することがあるんだな)」などと考えてしまう豪太郎だった。


「なに? セクハラでもバレたの?」

 修羅場そのものという険悪な空気の中、敢えてのんきそうな声を出す。

 凍りついた雰囲気をほぐそうとするのは、なかなかの胆力を要することだった。

 昨日までの豪太郎には端から期待できない行動で、それだけでもシュレーディンガー計測器の効果がよく分かる。

 しかしその場がなごむ気配は微塵も感じられない。

 一徹は俯いた状態でピクリとも動かなかった。いや、動けなかったのだ。

 そして凉子も豪太郎を一顧だにせず、鬼の形相はむしろ険しくなるばかり。

「(……これは、いつもと違ってすっごくヤバイ感じ?)」

 豪太郎は思わず身構えながら、成り行きを見守るしかなかった。


「で――?」

 低音で凄みつつも声の震えが抑えきれない。

 普段とは明確に異なるマジギレっぷりにクラス全体が戦慄していた。

 カツンと竹刀の先端が床を打つ。

 たいした強さではないものの、静かな湖面を広がる波紋のように教室の隅まで音が響き渡っていった。

 その場にいる誰もが沈黙し、息を呑む。次の展開を見守るしかない緊迫の空気。

 逃げ出すことすら許されない、圧倒的な恐怖が場を支配していた。

 豪太郎の額からは、いつの間にかタラリタラリと粘っこい汗が流れ出ていた。

 自分とは無関係と思いつつも、シュレーディンガー計測器がなかったら失神、ヘタすると失禁していたかもしれない。


 ――カツン


 もう一度、涼子は竹刀の先を床にぶつける。

 声にならない悲鳴を上げて、一徹が全身を震わせた。

「で、なんでそんなバカ言っちまったってことなんだけど――」

「は、はい……、いや、そう言われましても……正直な気持ちを言っただけで」

「ぁあああん?」

「ひぐッ!」

 涼子の右足が一徹の後頭部をグイと押さえつける。

 ミシミシと音を立てながら床に食い込んでいく額。

「訊かれて素直に自分の好みは悪女系だと――」

「は、はい。……ふ~~じこちゃん、みたいな?」

「ボンキュボンで、なに企んでるのがわからないとこがそそると――」

「ひゃい……、とくにあの目つきの妖しさがもうサイコーって……」

「あああん――っ!?」

 ビシッという鋭い音が窓ガラスを激しく揺らす。

 激しく叩きつけられた竹刀は真っ二つに折れ、竹の繊維が節くれ立った断面を晒していた。

 涼子は折れた竹刀の裂け目を、正座したままの一徹の太腿に突き刺す。

「(……うげっッ!)」

 激痛に顔を歪めるものの一徹は声を上げることができず、制服のズボンから真っ赤な血が滲み出る。

「ソレってつまり、お父ちゃんの趣味ってことよね――」

 突き刺した竹刀をグリグリと押しつけながら涼子が訊く。

「ま、まあ、一般論……として?」

「ふうん――」

 涼子は表情ひとつ変えずに、折れた竹刀を地面に叩きつけた。

 跳ね飛ばされた竹刀が一徹の側頭部を強襲し、反射的にのけぞりそうになるが、後頭部を踏みつけたままの涼子はそれを許さない。

 周囲の誰もがこれ以上なく痛々しい表情で視線だけを逸らす。

 怒れるクールビューティの恐ろしさは、この時点でクラスメート何人かにかなりのトラウマを負わせていたに違いない。

「リアル峰不二子みたいな性悪女が好きって男子高校生が、この世界にどんだけいるかって話なんだけどさあ――」

「すいませんすいませんすいませんすいませんすいませんすいませ……」

 一徹の謝罪は途中で遮られてしまう。

 顔面が教室の床に完全に埋没していたのだ。

 というか呼吸ができているのか、生命維持という観点で豪太郎は非常に心配になっていた。


 涼子はそこでようやく一徹の後頭部から足の裏を離し、表情を緩める。

「玲ちゃん……」

 すぐ脇でオブジェと化していた玲を優しく抱きしめたのだった。

「ゴメンね、玲ちゃん。このバカが変な話吹き込んじゃって」

「で、でも」

 いつになくしおらしい玲は、か細い声で応えるのがせいいっぱい。

「オッサンの戯れ言を真に受けちゃったんだね」言いながら玲の頭をいい子いい子と撫でていく。「悪女がサイコーなんて、人生詰んでるオッサンのセリフなんだから。そんな男子高生なんていないんだからね」

「そ、そんなぁ……っ!」

「(……そこポイント!?)」

 玲は元ヤン・クールビューティの凶暴さよりも、むしろ今の言葉にショックを受けていたようだった。豪太郎にはそっちの方がよっぽどショックだ。

 そんな玲に追い打ちをかけるように涼子は続けていく。

「あと、アンチ物理学に詳しい女の子って、ちっとも悪女になってなかったから」

「……えっ!!」玲の顔に走った動揺。やがてションボリ顔になっていく。「違う……んですか?」

「うん。ゼンゼンなってなかったよ」むしろ明るい口調で涼子は言った。

「うううぅっ」

 下を向いてシュンとなる玲を、涼子は下から覗き込む。

「だから、そんなヘンなメイクやめちゃいなよ」

 そう言って化粧ポーチを開くと、メイク落としを玲の眼の周りに塗りたくっていく。

「あ、涼子……さん?」

 弱々しい抵抗を見せる玲をガッシリと押さえ込んで、涼子はその化粧を剥がしていった。

「あれ、メイクだったんだ」豪太郎の独り言を、

「気づいてなかったの?」実に呆れた口調で大門くんが返す。

「うん、やっぱりそうだ」涼子は納得したようにウンウンと頷いてからニッと笑った。「じゃ、ついでに寝不足もごまかしちゃおうね」

 今度はコンシーラーを取り出して、眼の下のクマを巧妙に隠していく。


 普段は邪悪な瞳に、はっきり浮き出たクマという不気味この上ないサイコパス少女だったはずの黒井玲が、

「って、別人ッ!!」豪太郎は思わずそう叫んでいた。

 邪眼メイクと寝不足によるクマで隠されていたのは、よく見ればこれ以上なく整った顔立ち。

 しかし、冴えない顔色と自信のなさそうな瞳がすべてを台無しにしていた。

 結果として彼女に輝きはなかった。皆無である。

 地味なお仲間に囲まれていたら、それだけで完全に埋没してしまうオーラのなさ。

 一言で表現するならば、地味美形。それも素材の良さを一欠片も生かしきれていない隠れムダ美人。

 だが、

「ていうか、めっちゃタイプだし――ッ!」

 周囲に人がいることなど完全に忘れてしまい、豪太郎は歓喜と感動に打ち震えながら絶叫。

 これこそが理想型。こんな彼女がずっと欲しかったのだ!

 すげぇすげぇと感動の声を連発する豪太郎。彼の気づかないところで、大門くんの表情がみるみる引き攣っていくのだった。


「じゃ、ついでに」

 涼子はニマッと笑うと玲の髪に手を伸ばしていった。

「これも取っちゃおっか」

「あ……っ!」

 玲の反応を上回る速度で、そのマットでやたら長い黒髪をつかみあげる。

「ってズラ!?」

「ウィッグよっ!!」

 豪太郎のズラ発言を鬼の形相で否定する凉子。

 しかし豪太郎がその迫力に怯むことはなかった。

 彼の意識は、玲の髪に向けられていたのだ。


 超がつくほどツヤッツヤな黒髪は前下がりのショートボブ。

 輝くキューティクルが生み出す光の輪は、マジ天使かと思えるほど。

「って、これってッ!」

 感嘆の声を洩らしながらも、豪太郎の脳内が激しく動き出す。

「(……えっと、これって、これって、これってぇええええええええ――ッ!?)」

 フル回転する記憶領域。

 海馬からもたらされていくる直感が告げている。

 これこそ、ずっと探していたなにかなんじゃね?と。

「(……えっと、小惑星じゃなくて、ドッペルゲンガーじゃなくて、チュパカブラじゃなくて、ビッグフットの襲来じゃなくて……)」

 これまで自分に降りかかってきた悲劇の数々を思い出していく。

「(……陽子崩壊じゃなくて、宇宙ひもの超接近じゃなくて、太陽の裏にあったもうひとつの地球じゃなくって、ホーマーシンプソンの大量発生じゃなくて……)」

 一通り思い出してから、ようやくそこに辿り着く。

「く、黒塚公園ッ! そうだ都立黒塚公園だ。宇宙から来た謎の病原体まみれのぶっといミミズみたいな塊をキャッチしたときの~~~~~~~~~!?」


 瞬間、玲の双眸をじわっと涙が広がっていった。

「やっと……」

 玲はか細い声を震わせながらも、正面から豪太郎を見つめる。

「やっと、思い出してくれた」

 つっと流れ落ちる綺麗な涙。

 玲は泣きながら、それでも嬉しそうに笑ってみせるのだった。

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