Interlude 黒井玲が語るホログラフィック原理とアンチ物理学
※著者注:本章は理論的な説明が主となります。理系的な話は苦手という方は本章を飛ばして次のEpisodeへ進んでいただいて結構です。
マッドサイエンティスト感溢れる邪悪な瞳の持ち主――黒井玲はアンチ物理に興味がないと即答した豪太郎に向かって説明を始めた。豪太郎の意思はどうでもいいというのが、どうやらこの一団の総意となりつつあった。
「アンチ物理について理解する前に――」
玲は邪な眼を見開いて豪太郎を注視する。
「――ッ!!」
リアルで見た四白眼は豪太郎にとって初めてだった。
ごくりと生唾を呑んでしまった豪太郎は、もはやヘビに睨まれたカエル状態。
やけに粘つく汗が全身をじわりと這い回りだす。
「(……早く昼休み、終わらないかなぁ……)」
妙に血走っている白眼と低く響く不気味な声との重なりが、却って豪太郎の意識を玲に向けてしまう。
「ホログラフィック原理について話をしなければならない――」
「(……って、またホログラフィック原理?)」
正直豪太郎は引く。その話題は苦手なのだ。
「ホーキングやサスキンドの研究によって、ブラックホールの表面には想像を絶する量の情報が蓄積されていることが数学的に立証されていた。その密度は1c㎡あたり10の66乗ビット。どれだけコンピュータ技術が発達したとしても到達し得ない情報密度。けれどここで、その情報がなにをもたらすのかという疑問が出てくる」
「……」
「それだけの情報が、ただそこにあるだけでは収まらないはず。しかも人類になんらかの影響をおよぼすと考えるのが自然なのではないかと――」
「はあ」
「ところで――」
「近っ! 近すぎ!」
玲の顔がさらに豪太郎に迫っていた。息を全力でひそめても相手にかかってしまうくらいの距離だ。
玲は相変わらず豪太郎の眼を見据えたまま話を続けていく。
不自然に固定されて動かない四白眼が、否応もなく不気味さを煽ってくる。
加えて、目の下のクマが妙におどろおどろしかった
背後の空気が禍々しく歪んでいるような錯覚すらしてしまう。
「人類の正体は、何者かが作ったコンピュータのシミュレーションではないかという説がある。……知ってる?」
『知ってる?』という訊き方が妙にフレンドリーな気がしなくもなかったが、取りあえず豪太郎は首を横に振る。
「我々の存在自体がシミュレーションにすぎず、実体は単なる情報体であるという説――」
「はあ」
「問題は、人類がこの疑問を偽であると証明できないこと」
「……?」
「なあ、豪太郎」そこで割り込んできたのは父一徹。「テメエ、『マトリックス』って映画知ってるか?」
豪太郎は首を横に振った。「名前くらいしか聞いたことないけど」
「ま、そうだろうな」一徹は軽く笑った。「十何年も昔~しの映画だしな」
「それが、どうしたの?」
「『マトリックス』の中ではな、人間はカプセルみたいな装置の中で生まれて、その場所から一歩も動かないまま年老いて死んでいく。地球を支配する機械の電池として培養されてるんだな」
「へえ……」
「だが、ごく一部を除いて人類はそのことを知らない。全員、普通の世界に生まれ、育って、メシを食ったり酒を飲んだり。大きくなって毛が生えて彼女とかできちゃたりしたら当然セック……」
「お父ちゃんっ!」
母涼子の振るう刃渡り1mのハリセンが唸りを上げ、一瞬にして一徹の意識を刈り取っていた。
「それでね、ほとんどの人間は自分たちの世界を疑おうとすらしないの。だって、本当にそこに生きているって信じてるんだから。ちゃんと世界があって、自分が学校に行ったり、仕事をしたり……。でもそれって全部ニセモノ。機械が見せている幻にすぎないの」
「ずっと幻想ってことに気づかないまま?」
「そうそう」
「なぜなら――」玲が低い声で説明を再開する。「人間がなにかの存在を感じるのは、あくまでも脳を通してだから」
「う……うん?」
「そして脳はそこに伝わってくる電気的信号を介してのみ、事象を把握することができる」
「……」
「つまり、電気的な信号を改変することができれば、どのような情報を伝えることも可能になってしまう。例えば――」
玲がまた少し、ズイッと顔を寄せてくる。
「(……だから、近いから、近すぎだからッ!)」
女の子にここまで接近されたら、男子としてドキドキせざるを得ない。
だがこの場合のドキドキは、胸がキュンキュンするようなドッキドキではなく、足がすくむようなドッキンドッキンだったのだ。
「いまゴウの脳内に伝わる電気的信号を変えることができれば、私の存在を感じることはできなくなる」
玲は豪太郎のシャツの袖をつかみ、クイクイッと引っ張った。
「こうして引っ張られる感覚も、信号がなければ知覚されることはない。……反対に、触ってもいないのい触れられているという情報を作ることができれば、ゴウは私に触れられていると感じてしまう――」
「……ッ」
「感じてしまう――」
「――ッ!!」
「感じてしまう――」
1cm、1cmと玲の顔が近づいてきて、危うくチューしてしまいそうなほどの距離感になっていた。
「(……ヤバイ、ヤバイよ! ヤバイよこれ!)」
脈拍は急上昇。鼻息も抑えきれないほどに荒々しくなって制御不能。
豪太郎は、ここで奇妙な感覚に浸っていた。
邪悪この上ない玲が、なんだかむしろ素敵に感じられてしまうのだ。
当たり前の話ではあるが、クラスの女子とチューしそうなまで顔を寄せるという経験が豪太郎にはなかった。
二次元情報体の痛子とはまったく異なる“質感”がそこにあるのだ。
それだけで豪太郎の正常な判断力が奪われるのに十分なわけだが、相手が睦美であればここまでは動揺しなかったはず。
玲が間近にいることで、豪太郎は自身の内部から熱が発せられることを感じてしまう。心臓が荒々しく脈打ち、血流が激しくなっていく。結果として体感温度が急上昇するわけだが、それは睦美という外部要因による物理的な温度の上昇ではなく、あくまでも自身の反応によるもの。ある意味、健全な体温上昇であった。
玲のマットな黒髪とか、間近で見ると案外か細い肩とか、なにげに鼻孔をつく甘酸っぱい匂いとか、微かに頬にかる吐息とかが、豪太郎の脳に過剰なまでのジャンク情報をせっせと流し込んでいった結果、思わぬ効果が現れ始める。
――もう玲でいいんじゃね?
豪太郎は非論理的にそのような考えに傾いてしまう。
――ていうか玲がいいんじゃね?
それこそ、脳が感じる錯覚にすぎないのだが。
あるいは、DT故の過剰な幻想が生み出す反射とも言えるのだが。
さすがに接近しすぎていると思ったのか、玲はゆっくりと顔を離していった。
豪太郎は極限の緊張から解き放たれ、ようやく深い呼吸をすることができた。
距離が開くと再び玲の不気味さが勝ってしまい、豪太郎は即座に幻想から立ち直っていく。
「(……ふう、ヤバイヤバイ。あやうく『パス』に惚れちゃうとこだったよ!)」
「あくまでも電気的な信号を通してしかものごとを知ることができないというのなら、実体がなくても問題はないはず。この考えを進めていけば膨大なコンピュータの処理能力によって、人類一人ひとりに錯覚を持たせることも可能。人類それぞれが肉体を持つ人間として、存在しないはずの三次元空間内にいると知覚させ、ありもしない宇宙について考察させるということもできるはず」
「……」
「問題はそこまで巨大なコンピュータが存在し得るかということなのだけど――」
「う、うん……」
「人類が想像もできないほど発展した文明ではそれが可能かもしれない。でも――」
「でも?」
「ブラックホールの事象の地平面に積み重なった膨大な情報ならば、それもまた可能であると――」
「あるの?」
「あくまでも理論上の話……。ずっとそう考えられていた」
「……考えられて、いたんだ?」
「でも、それは単なる可能性ではなくなってしまった」
玲はふいに視線を移し、倒れたままの一徹、そして涼子を見やってから再び豪太郎を見据える。
「以前から物理法則を超越した人間の存在が確認されていた。彼らは人類の存在すら脅かしかねない事象を突発的に誘発してしまい、常に当局から監視されていた」
ハリセンの衝撃から意識を取り戻した一徹がゆっくりと首を振りながら立ち上がる。だが、いつものニヤけた表情はなく、どこかシリアスな面持ちであった。
「いつの日か彼らはこう呼ばれるようになっていた。“ワームホール体質”と。自身が存在する場所にワームホールを呼びだしてしまい、それが脅威となる事象をもたらしてしまうから――」
思わず息を呑む豪太郎。
豪太郎は昨晩、自身がワームホール体質であると聞かされたばかりだったのだ。
「そして、ワームホール体質の人たちを研究し続けた結果、科学者たちは一つの結論に到った。それはブレイクスルーとなる理論でもなければ数学的に明確な根拠によるものでもなく――。純粋な計測の積み重ねとそれらに基づく推論に次ぐ推論の集積。形態としては量子力学が確立された経緯に近い――」
かつてニールス・ボーアが量子力学についての概念を提唱したとき、その考えに激しく反発したのがかのアルベルト・アインシュタインだった。
時間や空間、そして重力について画期的な発想をもたらしたアインシュタインであったが、その理論はあくまでも古典物理学の範疇から離れることはなかった。
古典物理学の世界を支配するのは“因果律”である。
原因があって結果が生じる。それは必ず一致するものでなければならない。
実際、人間の眼に世界はそのように映る。
発射された砲弾は同じ条件であるならば必ず同じ軌道を辿る。それは何百回、何千回と繰り返しても条件が同じである以上、絶対に同じ結果にならなければならない。
しかし、それはあくまでもマクロの世界での話であり、実際は近似にすぎない。
原子レベルで見るミクロの世界ではまったく別のルールが存在し、支配するのはあくまでも確率なのだ。
例えば、単一の電子が存在する場所は確率的にしか予測できない。
すぐ目の前にある電子が、次の瞬間に火星に存在しているという可能性は決してゼロではないし、また一瞬であればそれが同時に二つ存在していることもあるのだ。
古典物理学の
だが、偉人は敗れた。
因果律を半ば否定し、あくまでも確率でしか語れない量子力学は正しいと認められてしまったのだ。
それは、アインシュタインのような単一の天才が成し遂げた奇蹟ではなかった。
何十もの才能が、一つひとつ発見していった計測結果と、それに基づく理論の積み重ねによってもたらされた結論なのだ。
その結晶たる“標準モデル”によると物質のもととなるフェルミオンは電子、ニュートリノ、アップクォーク、ダウンクォークの4種類がそれぞれ3世代で合計12。力を伝える素粒子は光子、強い力を伝えるグルーオン、弱い力を伝えるW粒子・Z粒子の4つ。そして欧州原子核研究機構(CERN)の大型ハドロン衝突型加速器(LHC)においてようやく存在が確認された、物質の質量を与えるヒッグス粒子。合計17の素粒子が認められている。
だがその17という数字に整合性はない。
またなぜフェルミオンに3つの世代があるのか。なぜ世代数が3であって2でも4でもないのかについてもまだ解明されていない。
しかしそれらは計測によって裏づけされている。
誰もその存在を否定することはできないのだ。
そしてそれは、アインシュタインのようにペンと紙による計算では決して得られない結論であった。
量子力学が確立していった過程と同じような経緯でワームホール体質の原因が究明されていったと、玲は語る。
「数え切れないほどの計測によってワームホール体質の原因は一つの方向性に収斂されていった。それは――」
「二次元境界面上の
そう言ったのは凉子。普段とは違って、妙に平板な表情だった。
玲はこくりと頷く。
「アノマリーでなければあり得ない事象をワームホール体質の人たちは平然と起こしている。しかも本人の意思とは無関係に。そう考えなければ整合性を保つことはできなってしまった。そして、そこから導き出された結論は――」
「この世界、いやこの宇宙は幻想に過ぎない。その実体は二次元境界面、恐らくは超大質量ブラックホールの事象の地平面に刻まれた、プランク長のビットの塊――」どこか神妙な顔付きで一徹が静かに語ると、
「――という考えね」凉子が続いた。
「ワームホール体質の人たちは、期せずして自らが二次元境界面上のアノマリーであると立証してしまった。それはつまり、人類の実体は情報体の塊でしかなく、今こうして触れている感覚でさえ、幻想にすぎないということ――」
玲は再び豪太郎の袖をクイクイッと引っ張る。
またしても豪太郎の精神は揺さぶられてしまうのだった。
「そこで人は考えた」だが、玲の話はここまでではなかった。「実体が二次元の情報体ならば、そしてアノマリーが物理学的な限界を超えてしまうのならば、人為的に物理法則を改変できるのではないかと――」
「え?」
「その発想がアンチ物理学といわれているもの」
「アンチ物理学――ッ!」
豪太郎の胸中に“アンチ物理規制委員会”という言葉が蘇る。
と同時に
「どうしたの豪太郎?」すかさずチェックを入れてくる凉子。「なになになに? 顔真っ赤にして! もしかして玲ちゃんに惚れちゃったの? 惚れちゃったの? キャー!」
浮かれる凉子に否定する言葉を出すことは豪太郎にできなかった。
真実ちゃんのあられもない姿を思い出していたなんて、とてもではないが言えるはずもない。
だが玲はそのままのテンションで話を続けていく。
それはある意味、強烈な自己主張と取れなくもなかった。
「物理法則を改竄することができれば、不可能が可能になる。例えば重力のパラメータを弱めれば自由に空を飛ぶこともできるし、重力を局地的に強めることが可能ならば核融合炉も実現できるかもしれない」
人類が把握している“力”は僅か4つ。
重力、電磁気力、弱い力、強い力がそれだ。
それらは絶妙ともいえるバランスを成し、その配合は奇蹟と呼んで差し支えないほどだ。
そしてそのバランスが少しでも崩れてしまうと、宇宙は存在自体を保つことができない。
もし重力が僅かでも弱ければ、宇宙は星を生み出すことはできず、結果として人類は存在し得なかった。
もし電磁気力が少しでも強ければ陽子と電子は+と-の電荷によって結び付けられてしまい、原子はその姿を保つことができなくなってしまう。
弱い力が強すぎれば星はあっというまに核融合を終えてしまうし、従って人類のような知的生命体が誕生する時間は与えられなかった。
強い力が強くなければ、クォークは陽子や中性子となることができず、人類が物質と見なしているものは存在することができない。
仮にそれら4つの力が二次元境界面上の情報にすぎないとしても、物理法則をいじるということは、それだけ危険極まりない行為なのだ。
「その危険性を排除するために設立されたのがアンチ物理規制委員会」
「そ、そうだったんだ……」
豪太郎はそこでようやく認識を改めることになった。
真実ちゃんの所属する組織は、豪太郎がなんとなく感じていたよりもずっと重い使命を背負っていたのだ。だからこそ、彼女は拳銃を所持し、いつでも豪太郎を
「もっとも、現時点では彼らが活躍するほどの危機的状況は生じていない」
「そ、そうなの?」
「物理法則は、極限まで詰め込まれた情報が生み出すある種の飽和状態」
「……?」
「完全に身動きが取れないくらいに凝縮されている結果なので、簡単には変更することができない」
「はあ」
「ただ――」玲は視線を一徹に向けた。「一つだけ例外が存在している」
一徹のどこか開き直った表情を正面から見据えた状態で、玲は語った。
「ただ一つだけ実現することのできたアンチ物理学。それが痛恋人システム」
「え?」
意外な言葉の登場に、豪太郎はポカンと口を開いてしまう。
玲は、邪悪な瞳で豪太郎を見つめながら唇を奇妙な形に歪めるのだった。
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