Interlude 涼子と一徹が語るホログラフィック原理

※著者注:本章は理論的な説明が主となります。理系的な話は苦手という方は本章を飛ばして次のEpisodeへ進んでいただいて結構です。


「体質のせいとか言われても意味分かんないよ」

 混乱を隠せない豪太郎に向かって、一徹はふっと肩をすくめてみせた。

「ま、いきなりそんなコト言われて理解しろったってムリな話だよな?」

「それもそうね」涼子が頷く。「でもアンタにはきちんと説明しておくわ」

「ムリして理解しなくても構わねえ。今はな」

「……はあ」

 珍しくシリアスな顔をしながら、一徹はゆっくりと語り始めた。


「まずはブラックホールについて話した方がいいかな?」

 そうね、という涼子の同意を得て一徹は言葉を続ける。

「ブラックホールには無毛パイパソ定理ってのがあってな」

「なにそのルビ!!」

 シリアスな顔になったと思ったら、いきなりこれだ。

「なにって、パイパソだよ、パイパソ」

 豪太郎のツッコミに一徹はなんでもないかのように応じた。

「ちょ、ちょっと、お父ちゃん……!」

「なんだ?」

 涼子は急に声をひそめて耳打ちする。

「豪太郎にはまだ早いから……」

「んなこたぁねえだろ?」当たり前だろうとばかりに取り合おうとしない一徹。

「ていうか、オレもうボウボウだし。高校生だよ?」

「だから、そういう意味じゃなくって……」

 なぜか顔を赤らめ、股間のあたりを隠すように押さえる涼子。

「ほら、そういうのって、もっと大人になってから……ね?」

「言ってること、意味ゼンゼンわかんないけど……」

 さっきまでのヤンキーっぷりはどこへやら、急にしおらしくなった涼子はボソボソと一徹に囁いた。

「ちょ、ちょっと。意識したらへんにチクチクしてきちゃったじゃない……」

 期せずしてその小声を聞きとってしまった豪太郎はハッとする。気づいてしまったのだ。

「ま、まさか――ッ!! オレにはまだ早いとか、そういう的な意味?」

 股間部分を押さえたまま、涼子は不自然に体をくねらせた。

「ば、ばかぁ……。豪太郎にバレちゃったじゃないのよ! 恥ずかしいわね……」

「なに言ってやがんだ。オメエだってやみつきになるって悦んで……って、あれ?」

 すっかりジト目になっている自分たちの息子と相対した一徹と涼子。

 一方、カミソリ片手に嬉々としてプレイに興じる父親の姿を一瞬とはいえ想像してしまった豪太郎は、なんとも情けない気分になっていた。

「(……ホントこの二人、どこまで穢れやがれば気が済むんだか……)」


「ご、ごほん」

 気まずい数秒を過ごした後に、一徹は気を取り直して口を開いた。

「で、ブラックホールには無毛パイパソ定理ってのがあってな」

 お下劣なルビにツッコミを入れても話が滞るだけだと判断して、豪太郎は説明を待つ。

「ブラックホールってのはな、たった三つのパラメータで記述できるって言われてたんだ」

「三つのパラメータ?」

「ああ。質量、角運動量、あとは電荷。……たった三つだ。ありとあらゆる物質を呑み込んで、膨大な質量を持つ“星”の性質がそれだけで定義されちまうって考えられてたわけだな」

無毛ノー・ヘアっていうより、毛が三本……みたいな?」

 そう告げる涼子の頬は、まだ少し赤らんでいた。

「だがそいつぁは違えんじゃね?って考えた学者がいたんだな。ジェイコブ・ベケンスタインってヤロウだ」

「それってなにか問題でもあったの?」

「おおよ!」

「おおありね」涼子が続く。「というのも、無毛定理が正しいとすると、ブラックホールに呑み込まれた物質が持つ情報はどこに行くの?って話になるからよ」

「特に深刻だったのが、熱力学第二法則だな。無秩序性エントロピーは増大する傾向があるってぇ法則だ。ブラックホールがエントロピーまでなかったことにしちまったら、熱力学第二法則が根底から覆えっちまう」

「はあ」

「要するにだ」うんうんとう頷きながら一徹は語る。「無毛パイパソになるのはいいけど、剃っちまった毛はどうなる?って話だな」

「……いや、そろそろその下品な例え、やめない?」


 ブラックホールに飲み込まれた物質が持っていた情報はどうなるのか?

 理論物理学者にとって深刻な問題であったが、その重要性を最初から理解できた人間は少なかったという。

 なにより、もしブラックホールに情報が残されているのなら、それを示す痕跡があってしかるべきだった。しかしブラックホールの表面はほぼ0K、即ち絶対零度に近いと考えられていた。宇宙マイクロ波背景放射ですら2.7K。ブラックホールは宇宙全体の温度よりもさらに低いとみなされていたのだった。

 その論争にケリをつけたのはスティーブン・ホーキングだった

 彼は、ホーキング輻射という現象を突き詰め、ブラックホールに熱があることを数学的に証明してみせた。

 ただ、遠くから観測した場合、その熱が計測されないというだけで、実際にブラックホールの表面は灼熱状態と言ってもいい。それだけの放射がブラックホールの重力によって消耗されつくした残りカス――スカスカのエネルギーしか外側から観測されていないという話である。

 そして、ブラックホールの外側から観測している人間にとって、ブラックホールに落ち込む物質は永遠の時間をかけて中に落下していくように見える。ブラックホールの重力はあまりにも強すぎるために、光=光子さえもその表面=事象の地平面から脱出することができない。そのため事象の地平面で発生している出来事は、時間が止まったかのように見えてしまうのだ。この点に着目したのがレオナルド・サスキンドだ。

 物質が止まって見えるということは、超ひも理論的な考えからすると事象の地平面近くでプランク長の超対称性をもつ振動するひも=物質やエネルギーの最小単位が何重にも重なり合って事象の地平面=ブラックホールの表面を覆い尽くすようになる。そこは「拡張された地平面」として膨大な量の情報を蓄積していく。しかもそれら情報はホーキング輻射によってブラックホール内部には吸い込まれない。(ホーキング輻射によると吸い込まれていくのは対生成で生まれた反物質である。ちなみにこの反物質がブラックホールの蒸発をもたらしていく。)つまり、情報は失われることなくその表面に蓄積されていくのだと、サスキンドは考えたのだ。


「ようするに、ブラックホールの表面には情報がミッチリってワケだな」

「それで、その情報がどうなるのかって問題が発生するってことね」

「はあ」

「蓄積された情報は、一つ一つがプランク長のサイズだ。コイツをコンピュータでいうトコのビットとして考えると、プランク長ってのは10のマイナス33乗cmだから、1c㎡あたり10の66乗ビットの情報を持ってるってことになる」

「10の66乗ビットってことはね……」涼子は指を折りながら説明する。「仮に10テラバイトのハードディスクがあったとしたら、それを1兆個集めたグループを1兆グループにして、その塊を1兆塊にして、さらに1兆倍した上で1万倍にしてもまだまだゼンゼン足りないって情報量ね」

「そんなとてつもない情報が、たった1c㎡に詰まってるってコトだな」

「……」

「しかもブラックホールってヤツはそれなりにデケエ。例えば太陽の質量でブラックホールになると、直径3kmくらいになる。その何百万倍もの超大質量ブラックホールになると、当然表面積もケタ違いになるワケだ」

「(……いや、もうゼンゼンついていけねえよ!)」

 豪太郎は数学が苦手な文系脳の持ち主だった。一徹と涼子の話を理解しようとしても、体がそれを拒否してしまう。だが、それでも二人の話は続いていった。


「その情報こそが、オイラたちの実体――そう考えるのがホログラフィック原理だ」

「つまり、お父ちゃんもお母ちゃんも、みんな二次元情報体ってことね」

「人間が三次元だと思っている物体は、実は二次元境界面の映し出すホログラムのようなものだっていう考えだ。言い換えれば、存在すると思っているモノは次元を含めて幻でしかないってこったな」

「……はあ」

「おそらく超大質量ブラックホールの事象の地平面に記された情報がオイラたちの正体だが、その地平面は静的ではなく動的だ」

「つまり、ブラックホールが次々に物質を呑み込んでいる限り、常に変化していくってことね」

「だから変化が起こるし……、言い換えると時間が流れていって元には戻れない」

「……」

「で、ここからが問題なんだが」

「まだ続くの?」

「その二次元境界面を支配するのは量子力学の法則だ。そこでは常に量子的な揺らぎが発生する」

「量子的なゆらぎの効果で理論の整合性が失われてしまう“数学的エラーアノマリー”が避けられないってことね」

「“数学的エラーアノマリー”?」

「で、そのアノマリーこそが金剛丸家三人の共通した特徴ってことよ!」

「オイラたち全員が二次元境界面に発生したエラーってことだな」

 斜め上すぎる現実を突きつけられた豪太郎は、激しい眩暈に気が遠のいていくのだった。

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