第9話
「ねえ、さっきから黙ってるけど、どうしたの?助手って答えたのをなぜと聞いたの、そんなに難しいことだった?」
案ずるヒビキに、俺は正直に応じる。
「別に、難しいことなんかじゃないんだけどな」
「難しくなくても、答えにくい問題なんだね」
「…そうだな」
俺は、言葉を探して自分の
けれどああ…やはり心をうまく表せるものなど、どこにもない。
「敢えて言うならあの人の世界ではもう、俺が今の俺じゃないから…だろうか」
ヒビキは首を傾げる。
「たとえ相手がどんな風に変わっても、目の前にいるのは自分であることに違いはないんだから、堂々としていればいいのに」
きっと、お前ならばそう言うだろうと思っていた。
真っ直ぐなそれは誇らしく、けれど今はほんの少しだけ寂しい。
「…その人が生きて、そこに在るだけでいいと思っているのは嘘じゃない。だが、どれほど愚かしいと解していたって、零れ落ちていくものがあれば嘆いたりしちまうもんなんだよ、人間ってやつは」
生きていてくれ、願いはいつだってそこに確かにあり、ただそれだけで本当は何も望むものなどないはずなのに。
今を忘れ過去へと向かう火狩博士とは決して交わらぬ時間に、自分だけが置き去りにされるような痛みを感じるのは、なぜなのだろう。
それぞれのゾーンに塔の責任者を配し、俺が作業に集中できるようにと、ヒビキを含めた六基の工程管理を一手に引き受けていた火狩博士は、全行程の三分の一、おおよその基幹部の完成を見届けた後、まるで自分の役割はここまでだと肩の荷を下ろしたかのように、急速に己が人であることさえ忘れて行った。
やがて介助用アンドロイドに協力させても、俺自身がプログラムを組む手をしばしば止めなければならない状態となり、苦渋の選択としてターミナルケア施設の門を叩いた。
何もかもを忘れた者を抱えるのは決して楽ではないはずだが、世界を変えた英雄の入所を、施設は
博士は今、手厚すぎるほど大事にされている。
介護や医療を受けられること自体が貴重となった世界では、本当に幸運なことだ。
道端で人知れず朽ちることもなく、飢えも寒さもない、そんな穏やかな暮らしそのものが、今を生きる人々の幸福だ。
…そう、幸せなはずなのに。
なぜだろう。
どれほど己にそう言い聞かせてみたところで、満たされないのは。
「博士に忘れられてしまったのが辛かったの?たとえ忘れられてしまっても、博士はちゃんとそこにいるのに。まるでもう、どこにもいないと言われているみたいに聞こえるよ」
だが、聡いがゆえに人の身には痛い。
施設の者たちがとても良くしてくれていることを知りながらも、博士の背を見送るたびに、彼の本当に居るべきところはそこではないんだという叫びたいほどの衝動と、罪悪感に駆られるのは…
なぜなんだろうな。
「確かに、お前の言う通り俺は願いを叶えた。そこにこそ意味はあったのだから、見届けてもらえただけで良しとすべきなんだろう」
手を、離さざるを得なかった。
救えぬ一人と救える世界。
どちらを選ぶのが正しいかなど、比して問われるまでもないとわかっている。
それでも迷う俺が間違いなのか、それとも選択をせねばならぬこと自体が誤りなのか…多分、正しい答えなどありはしない。
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