第二十話 残酷な現実

 ゆっくりと目を開ける。

 白い蛍光灯と見慣れた天井が目に入る。

 今までと、ずっと同じ景色。

 これからも、ずっと変わらない景色。


 篠宮さんと会ってから、意識を失ったのはこれで二度目か。

 前回と同じように、篠宮さんが覗き込んで、声をかけてはくれないだろうか。


 考えても虚しいだけだ。


「目が覚めたか」

「……はい」

「あまり無茶をするな」

「………………はい」


 病室に、僕と神原さんがいる。

 静かだ。

 篠宮さんはいつも賑やかだった。

 よく喋り、よく笑い、よく泣いた。


 今は、一つもない。


 篠宮さんは退院してしまった。

 もう二度と篠宮さんには会えない。

 ……最初から、分かっていたはずなのに。

 どうして、こんなに……………………


「何があったか……」

「…………」

「を、聞ける状態ではない、か」

「……すみません」


 ――四条君のバカ!!!

 ――駄目なのに!!嬉しくなっちゃ駄目なのにっ!!!離れなきゃいけないのに!!!無かったことにしなきゃいけないのにぃっ!!!

 ――あたしもう、四条君のこと、忘れられなくなっちゃったよおおおっ!!!


 篠宮さんの最後の言葉を思い出し、喪失感に遅れて、自己嫌悪に襲われた。


 篠宮さんが幸せならそれでいい、なんて言っておいて、僕はあの瞬間、自分の事しか考えていなかった。

 篠宮さんは、僕に嫌われ、忘れられようとしていた。それと同時に、篠宮さん自身も、僕の事を忘れようとしていたんだ。でも、僕は篠宮さんに、僕の事を覚えていて欲しかった。

 あのまま何もせず、ただベッドと呼吸器に身を預けていれば、篠宮さんは、時間と共に僕の事を忘れて…………


 …………嫌だ。

 忘れられるのは、嫌だ。冷静になった今でも、それは変わらない。

 ……恋と愛は、矛盾した感情だ。

 どちらも、相手を好きだという気持ちに偽りはないのに。


 なんでこんなに上手くいかないんだ。



 思い返せば、僕の人生はいつも、上手くいかないことの連続だった。

 篠宮さんだけじゃない。

 僕の母親も、父親も、高木さんも。

 僕のせいで、苦しんでいる。

 僕が、苦しませている。


 僕なんか、生まれてこなければよかったのに。

 そう考えるのはこれで何度目だろう。

 もう、とっくに数えていない。



「例のごとく、他言無用だ」


 最小限の前置きで、神原さんは篠宮さんについて話し始めた。


「担当医によれば、腕の治りは想定よりかなり早かった。今まで活発に動き回っていたせいで治癒が遅れていたが、安静にしていたことで早まったらしい。精神疾患についても、時間が経つにつれて徐々に回復を見せたそうだ。精神疾患を自力で治すなど、あまり前例が無いことだが……恐らくは、約3週間前の四条君との会話が、特効薬になったんだろう」

「…………そう、ですか」

「だから、そんなに落ち込むな。君は十分、篠宮舞を救ったんだ」


 ……本当に、救えたのだろうか。

 最後の最後で、僕の余計な一言で、治りかけの心を抉ってしまった。

 恋も愛も、僕には難しすぎる。

 僕は、どうしたら良かったんだ…………



「全く。だから今朝、篠宮君に忠告したんだがな。四条君には会うな、と」


 …………ん?

 神原さんの今の発言、ちょっと引っかかる。


「……神原さんは、篠宮さんの事、知ってたんですか?」

「今朝までは知らなかった。知っていたら、まず君に伝えただろう。急に担当医から、今日退院だという連絡が来て、すぐに篠宮君と面会したんだ」


 神原さんは今朝、篠宮さんと会っているのか。


 ――四条君、今呼吸器を使っ……篠宮君、どうしてここに!?


 僕の記憶が確かなら、どうしてここに、って、言ってたけど。

 ああ、そうか。篠宮さんの退院を知らなかったからではなく、来るなと事前に忠告したからだったのか。

 ……今更それを知ったところで、何も変わらないか。


「恋愛感情だけでは、人は幸せにはならない。篠宮君には、難しい話だったかもな」


 篠宮さんはINTが低いのがコンプレックスだった。

 あんまりそういうこと、言って欲しくないな。冗談でも。

 注意する気力も残ってないけど。



「なあ、四条君。俺の研究を手伝ってみないか?」

「……?」


 あまりに唐突な話題変換だ。どうしたんだ、急に。

 いや、神原さんは、これが平常運転だったか。


「俺は今、いくつかの研究を並行して進めている。偶然にも、その中に心理学を生かせるものがあるんだ。きちんと心理学を勉強し直してからになるが、どうだ?」

「……どうして、今それを?」

「ベッドで寝ているだけじゃ、いつまで経っても前には進めないだろう?別の事をして気を紛らわせるのも、気分転換の一つさ」


 要するに、僕に助手になれってことか。

 篠宮さんの事を、これ以上考えないで済むように。


「……それ、神原さんにしかメリットないですよね?」

「論文が完成したら、四条君の名前で発表してくれたっていい。君はいずれ、俺をも超える頭脳を手に入れるかもしれないんだからな」 

「別にいいです。僕の知らない所で、僕の知らない人に称えられたって、何の意味もないですから」

「知ってる人が、一人いるだろう?」


 ……その言い方、ずるいな。ある意味、神原さんらしいけど。


 僕が勉強を止めた理由は二つ。親と離れ、誰の為にやる、という動機が無くなったこと。蓄えた知識の使い道がどこにも無いこと。

 神原さんはそれを一度に解決する方法を示してくれている。外の世界にいる篠宮さんの為、という動機。心理学の知識の使い道。


「今すぐとは言わない。気が向いたらでいいさ。良い返事を待ってるよ」


 本当なら、断る理由なんてない。

 今はひたすらにやる気が起きなくて、口では抵抗してるけど……結局、僕は神原さんの助手として、研究を進めることになるんだろう。

 神原さんには恩がある。6年間も僕の世話をしてくれた恩が。

 何らかの形で返したいとは、以前から思っていた。

 なら、丁度いいか。偶然、齧った心理学が使えるらしいし。




 偶然、か。

 思えば、篠宮さんとの出会いも、偶然の産物だったっけ。

 最初のきっかけは、神原さんの出張と、篠宮さんの入院予定期間がぴったり同じ2週間だったことだ。そんな偶然、中々ないだろう。


 ――たまたま入院期間と神原さんの出張期間が重なっていたので、四条さんに会わせるにも丁度いいと思っていました。


 高木さんの言う通り、本当に、狙ったかのような偶然だ。


 そして、二日目の朝、あの事件が起こった。三日目に、神原さんが帰って来た。

 神原さんが一日で帰って来たのは、偶然というよりある意味必然か。タイミングは最高だったけど。神原さんがいなければ、僕と高木さんだけで二週間過ごすことになっていた。その間、篠宮さんの精神状態について、何も知らないまま。

 神原さんがすぐに帰ってきてくれて、結果として本当に助かった。




 ……待てよ。

 なんだか、あまりに出来過ぎてないか?

 神原さんの出張の日数は、もちろん神原さんに教えてもらった。

 そして、神原さんは一日で、僕らにとって一番いいタイミングで帰って来た。

 一連の流れに、どこか作為的なものを感じるのは気のせいか?

 こんな偶然が……本当にあるのだろうか?


 いや、何を考えてるんだ。偶然に決まってるじゃないか。神原さんにだって分からないことはある、って、自分で言ってただろう。確かに、最初から心理学の勉強道具を用意していたり、妙に察しが良い所はあるけど――




 ――医療に携わる者として、患者の行動は予測せねばなりません。




 稲妻のように、高木さんの言葉が脳裏に閃く。

 ぞわりと背筋に冷たいものが走る。


 神原さんは、どうなんだ?

 医療に携わる、INTが1593もある、神原さんは……どこからどこまで予測していたんだ?

 もし、この状況が、偶然じゃなかったとしたら…………?


 ――怪我での入院でも、環境の変化等で精神面が不安定になる場合も多いのですから。患者が勝手にやった、では済まないのです。予測が出来ないのなら、四条さんの元に篠宮さんを連れてくるべきではなかった。


 高木さんの言葉の続きはこうだ。

 神原さんは……高木さんが僕の元へ篠宮さんを連れて来ることを、そしてその結果何が起こるかを、あらかじめ予測していた?

 いや、そもそも、神原さんは1日で戻って来たじゃないか。2週間分の仕事を、1日で片付けて……


 ――俺は今朝まで篠宮君の容態を知らなかった。知っていたら、まず君に伝えただろう。


 そんなに優秀な神原さんが、今朝まで篠宮さんの容態を知らなかった?

 常人の14倍、仕事のできる神原さんが?


 …………おかしい。何かがおかしい。


「神原さん」

「ん、何だ?」

「神原さんは……今の状況を、予測してたんですか?」


 ありえない。

 ありえないだろ、そんなの。

 いくら神原さんが優秀だと言っても、ここまでの出来事全てを予測することなんて出来るはずが……


 ない、とは言い切れない。

 神原さんに世間一般の常識は通用しない。神原さんなら……不可能では、ないのかもしれない。

 ……いや、待て。

 そもそも、全てを予測する必要はない。


 ――二週間分の仕事を一日で終わらせてきた。

 ――あらかじめ期間が決まってるってことは、元々こなすべきタスクの量が決まってるってことだ。そんな雑用に時間をかけるほど、俺は暇じゃないってことさ。


 神原さんなら、二週間分の仕事に二週間もかからないことなんて、行く前から分かってたはずだ。なのに、出発前に、僕にそんな台詞は一言もなかった。高木さんの反応を見るに、恐らく高木さんにも伝えていなかったのだろう。

 二週間という期間自体が、高木さんを誘導し、僕と篠宮さんを引き会わせるために用意した設定だったんじゃないか?

 神原さんは最初から、一日で帰ってくるつもりだったんじゃないか?

 自分の手で、場をコントロールする為に。


「質問の意図が分からないな」

「分からないはずないじゃないですか。神原さんのINTは1593もあるのに」

「それでも分からない事もある、と言っただろう?俺は全能の神じゃないんだ」


 でも、一体何の為に?

 目的は?

 そうだ、目的がどこにも――


 ――俺は今、いくつかの研究を並行して進めている。、その中に心理学を生かせるものがあるんだ。きちんと心理学を勉強し直してからになるが、どうだ?


 また偶然。

 これも偶然?

 いくらなんでも、都合が良すぎないか?


 ――俺はてっきり、君も勉強そのものを楽しめるタイプの人間だと思っていた。どうして止めてしまったんだ?



 まさか。

 まさか、まさか、まさか――!!



「…………神原さん」

「今度は何だ?」

「僕に心理学を学ばせるために……篠宮さんを、利用したんですか?」



 ――簡単な診察はした。まだ詳細は不明だが……篠宮舞は、何らかの精神疾患を抱えている。


 ――俺は今朝まで篠宮君の容態を知らなかった。知っていたら、まず君に伝えただろう。急に担当医から、今日退院だという連絡が来て、すぐに篠宮君と面会したんだ。


 神原さんが出張から帰って来た日の朝、僕の病室に来る前に、神原さんは篠宮さんに会っている。

 そして、今朝も。


 ――どこが大げさなんだよ!少しは自分の心配してよ!!


 ――だって……キミがどれだけあたしに優しくしても、私は、キミを置いて帰っちゃうんだよ?酷い話だと思わない?


 神原さんと会う前の篠宮さんと、今朝、神原さんと話した後の篠宮さんは、普通に会話のできる状態だった。


 ――あたしの夢の中だから、嬉しい事、いっぱいいっぱい言ってくれるんだよねぇ。現実じゃ、二度と会えないもんね。


 最初に神原さんと会った後、僕が307号室で喋った篠宮さんは、夢と現実を混濁していた。



 篠宮さんの様子が変わる前後の境目で、篠宮さんは、神原さんと会っている……!



「偶然だよ。俺は何もしていない」

「全部、偶然だって言うのか?嘘だ!そんなはずない!!」


 神原さんは、篠宮さんを診察したんじゃない。

 何らかの手段で制御したんだ。

 勉強を止めてしまった僕に、再び教材を手に取らせる為に。

 そう考えれば、全てが矛盾なく繋がる。


 確かに偶然の可能性はゼロじゃない。僕の推理は、状況証拠のみで成り立っている。

 でも、状況証拠もこれだけ重なれば……もう、疑いようがない。



 神原勇気は、僕の敵だ。



「神原さん、篠宮さんに何をしたんだ!!!」


 許せない。

 僕が勉強をする動機の為だけに、篠宮さんを弄んだのか?

 神原さんは、患者を、篠宮さんを、何だと思ってるんだ!!!



「無意味な問いだ」


 僕がこれほど憤っているのに、神原さんは平然としている。


「いいか、四条君。仮に俺が篠宮君に何か手を下していたとして、正直に言うと思うか?言うわけがないだろう。その問いでは、いずれにしても『俺は何もしていない』という答えしか出てこない」


 いつもと変わらない冷静な対応に、無性に腹が立つ。

 怒りを感じるのは、生まれてから2度目。


「それより、もっと視野を広く持て。もう既に、篠宮舞は退院した。いくら悪者を探したところで、過去は変わらない」



 いつもそうだった。

 神原さんとの会話は、僕の想像の斜め上に着地する。

 今回も。


 極めて冷静に、神原勇気は結論を述べる。





「もし俺が、本当に君の敵ならば……君は、気付くのが遅すぎた」

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