第十九話 ファーストキス

 密着した身体が上体を持ち上げた拍子に擦れ、体温と共にのしかかる。

 甘い匂いは絶えず理性への攻撃を続け、冷静な思考を奪う。

 両の瞳を閉じ、ほんの少し傾けた美しい顔は、抗う意思を砕く。


 押し当てるようにそっと重ねた唇が、最後に残った理性をも呑み込む。

 僅かな隙間から漏れ出した水音が、思考を忘れた脳に反響する。


 緩急をつけ、数度触れる唇同士を愉しんだ後、さらに左腕に力を籠め、貪るように覆い被さる。

 上下の唇の間から、するりと舌が侵入する。

 口の中に広がるキシリトールの味。無抵抗をいいことに傍若無人に暴れ回る舌が淫らな音を立てる。追い打ちをかけるように、甘酸っぱいさらさらの唾液が少しずつ流れ込む。




 匂いも味も音も外見も唇や舌の感触も、どんな麻薬より強烈に僕の頭を狂わせる。

 五感の全てが篠宮さんに犯される。

 理性どころか意識まで飛びそうなほど、官能的で、そして幸福な時間。





 どっくん!!!


「んぐっ!んむ、んんんーっ!!」


 心臓が、今までに経験のない強烈な一拍を打つ。

 だが、唇は篠宮さんに塞がれているし、すぐそこにはギブスがあるし、そもそもSTRに差がありすぎる。

 動けない。

 抗えない。

 口の代わりに鼻で呼吸をしようとして、僕を駄目にする甘美な匂いを思いっきり吸い込んでしまう。くらりと意識が持っていかれそうになる。


「んっ、んむ、んんーんんんんー!!」


 どっくん!!どっくん!!どっくん!!!


 意識どころか、命さえも。


 いや。

 僕の全てで篠宮さんを感じたまま、篠宮さんのキスで逝けるなら、本望だ。





「ぷはっ!!」


 篠宮さんは僕から離れた。

 

 どっくん!!どっくん!!どっくん!!!


「ふあ、あ、あがっ……」


 酸素を求めているのか口づけを求めているのかもわからない、半開きの口。火照った唇の代わりに、冷たいプラスチックが押し当てられる。

 篠宮さんの左手が呼吸器を握っている。


「……あははっ。どう?最低でしょ?逃げられないようにしてから、自分勝手に初キス奪って……発作が起こるって知ってたのに、知らんぷりして自分が満足するまで続けて」


 篠宮さんは涙を隠して自嘲する。

 篠宮さんの気持ちを、僕はようやく理解した。


 どっくん!!どくん!!どくん!!


「こんな最低な女の子のことは、さっさと嫌いになって、忘れちゃえばいいんだよ。…………あたしは、キミに大好きなんて言われていい女じゃ、ない」


 篠宮さんは嫌われようとしている。

 自分がどれだけ傷ついても、ぱっくり開いた傷口を押し隠してでも、僕に嫌われたいと願っている。


 いっそ、嫌いになれたら、どんなに楽だっただろう。

 こんなに素敵なひとを、嫌えるはずがない。

 恋か愛か、あるいは両方か――僕の篠宮さんへの想いは、より一層深まった。


 どくん!!どくん!どくん!


「じゃあ、さよなら」


 篠宮さんは手を離し、ベッドから降りた。

 僕に背を向けたまま、靴に足を入れ、とんとんと爪先で床を叩く。



 篠宮さんは、自分の気持ちを犠牲にしてまで僕を拒絶した。自分が悪役になることで、二人で創った楽しい思い出を黒く塗り潰した。

 僕が二度と、篠宮さんを求めないように。

 僕が今までと同じ、篠宮さんのいない日常に帰れるように。


 どくん!どくん!!どっくん!!


「え……っ!?」


 カタン、と呼吸器のチューブが床に落ちる。

 僕は右腕を伸ばし、篠宮さんの左手を掴んだ。


 最低なのは僕の方だ。

 僕は、篠宮さんの自己犠牲を否定しようとしている。

 篠宮さんに、僕の事をいつまでも覚えていて欲しいと願っている。

 楽しい思い出のままで。

 だって、僕は、

 篠宮さんの事が――――







 篠宮さんと僕が、階段から落ちたあの時。

 エレベーターへの道を示す、右と左、ほんの数文字が言えなかったせいで、僕はここまで深く篠宮さんを傷つけてしまった。


 もう、二度と、あんな後悔はしたくない。







「……き、だ」


 どっくん!!どっくん!!どっくん!!!


「す……き、だ。だい、すうっ、きだぁっ!!!」


 僕のエゴを、篠宮さんに押し付ける。


「はあ、あっ、かはっ、ぐ、ふうっ……」

「ど、どうして…………こんな、ひどいことしたのに?あたし、これ以上キミにひどいことできないのに……それでも、まだ、好きだって言うの?」


 肯定だけなら言葉はいらない。首を動かすだけでいい。


 どっくん!!!


 篠宮さんの色気と酸欠にあてられた脳が大きく揺さぶられ、眩暈がした。


「四条君のバカ!!!」


 ま、まずい。

 早く、呼吸器、を、拾わないと。


「駄目なのに!! 嬉しくなっちゃ駄目なのにっ!!! 離れなきゃいけないのに!!! 無かったことにしなきゃいけないのにぃっ!!!」


 身体が思うように動かない。

 せ、せめて。

 篠宮さんの言葉だけは、聞かなきゃ…………


「あたしもう、四条君のこと、忘れられなくなっちゃったよおおおっ!!!」



 ガラガラ。


「四条君、今呼吸器を使っ……篠宮君、どうしてここに!?」


 遠のく足音――

 ……終わった、んだ。


「何処へ行く! 待つんだ!! ッ、今は四条君が優先か!」


 なら、もういい。

 久しぶりに……ゆっくり、休もう…………

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