第十八話 おはようのキス
三週間という制限時間は、刻一刻と無くなっていく。
最低でも大学で6年、卒業後も一定の経験を積まねば一人前とは認められない世界。それを一気にまとめて履修しようとしてるんだ。上手くいかなくて当然、と言ってしまえばそれまで。
でも、僕はやり遂げなきゃいけないんだ。
「くそっ!!」
教科書の角をベッドテーブルに叩きつける。鈍い音が鳴る。僕のSTRでは、壊れるほどの力は出ない。
「時間が……時間が無いんだ……!」
篠宮さんの面会謝絶が終わるまで、あと二日。
なのに僕は、未だに心理学の一つもマスターできずにいる。
「付け焼刃でいい……でも、中途半端な知識じゃ、逆効果になる恐れだってある……」
教科書に当たっている場合じゃない。
僕は再び、開いたページに目を落とす。
ガラガラ。
ドアが開く音だ。
……もう食事の時間、か。
昼……いや、朝もまだだったか……?
「いつも通り、ミキサーにかけて、そこに置いてください。自分のペースで食べます」
ページをめくり、文字を目で追いながら、僕はひたすら読み進める。
「…………」
返事がない。今日の担当は高木さんだっけ?そもそも、今日って何曜日だ?日数は数えてたけど、曜日の感覚はとっくにない。
そんなことはどうでもいい、もっと読まないと。
「かっこいいね、キミは」
声の主が誰かを理解するまでに、4秒かかった。
最初に幻聴を疑った。僕までおかしくなってしまったのかと思った。
違う。
目の前に、立っている。僕の幻覚でさえなければ。
あれから何度も夢に見た、誰より可憐な顔。
黒に混ざる紫の髪、紺色の制服、右腕のギブス、真っ平らな胸――。
「し……篠宮さん……!?」
「こんなすっごいクマ出来るほど頑張ってたんだね。美味しいご飯もずっと我慢して……キミは、本当にかっこいいよ」
「なんで?どうして!?だってまだ面会謝絶のはずじゃ……!?」
まだ勉強は終わってないのに!焦って日数を数え間違えたのか!?
いや待て、目の前の篠宮さんは普通に日本語を喋ってる。精神疾患が治ってる?……だったら、やっぱり僕の幻覚?
「お別れを言いに来たの。あたし、今日で退院だから」
た、退院って!?こんなにいきなり!?
「腕はどうなったの!?まだ四週間経ってないよ!?」
「あたし、前より大人しくしてたから、治るのが早くなったんだって。それで、退院も合わせて早くなったの」
駄目だ、情報量が多すぎる!
お別れ、ってどういうことだ!?いやでも、それより先にこっちか。
「じゃあ、精神疾患は?夢からは覚めたの?」
「……四条君」
ずっとずっと、会いたいと想い続けて来たのに、どうして僕はこの瞬間まで気付かなかったのだろう。
篠宮さんの声が、冷え切っていることに。
篠宮さんの目に、光がないことに。
「目を覚ますのは、キミの方だよ」
……ど、どういうことだ。
今までの篠宮さんの発言の中でも、群を抜いて意味不明だ。
「四条君にとって、あたしはいい人で、優しいお姉さんなのかもしれない。でも、それは間違い」
「は? え……? 急にどうしたの?」
「あたしはそんなにいい人間じゃない。かっこいいキミと釣り合うほどの人間じゃないんだよ」
発言を聞いても、さっぱり分からない。
なにより、その話はとっくの昔に終わっている。
「いきなりどうしたんだよ! ステータスの違いは勝ち負けとか優劣の問題じゃないって、前に決着ついたでしょ!?」
――ごめんごめん。INTだけが取り柄だからさ。
――だねー。あたしと真逆だ。羨ましい……けど、どっちがいいとかじゃないんだよね。持ってるものが違うだけ。そうだよね、四条君?
――252にしては、上出来だね。
――あはは、ひっどいなぁ。あんまり言うと怒るよ?
屋上に向かうエレベーターの中で、そう結論付けたはずだ。
「それは覚えてるよ。数字は関係ないの。……キミがどれだけあたしに優しくしても、私は、キミを置いて帰っちゃうんだよ?酷い話だと思わない?」
「仕方ないよ。篠宮さんは僕と違って、怪我や心の病気を治して、社会に戻る為に病院にいるんだから。僕は篠宮さんが幸せならそれでいいんだ」
「……あたしバカだから、やっぱり、口じゃ勝てないね。いいよ。四条君の考えてること、全部間違いだって分からせてあげる」
篠宮さんは、僕の手から教科書を取り上げた。置きっぱなしのノートとペンもまとめて拾い、隣のベッドに放り投げた。
「ちょっ……な、何するの」
「ひみつ」
篠宮さんは僕のベッドテーブルを手際良く下げた。
そして、靴を脱ぎ、僕のベッドに登る。
篠宮さんは、僕と向かい合い、僕の身体に馬乗りになる。
「し、篠宮さん!?」
そのまま体を前に倒し、左腕をベッドについて体を支えた。
距離が近づき、疲れきった脳に篠宮さんの匂いが襲いかかる。
篠宮さんは人魚のように体を反らせ、僕に密着した。
「篠宮さ……っ!? ほんとに、どうして、こんなっ!?」
柔らかい。
制服越しとはいえ、脚の先から腰の辺りまで、篠宮さんのもっちりとした肌が圧をかけてくるのが分かる。じんわりと篠宮さんの体温を感じる。
雄の本能をいやおうなしに刺激され、声が上擦ってしまう。
押さえ込まれている、と気づいたのは、手遅れになってからだった。
僕のお腹に、固いものが当たる。
右腕のギブスだ。
「これでもう、抵抗できないでしょ?」
篠宮さんは、上目遣いで妖艶に笑う。
「四条君は優しいもんね。今動いたら、あたしの腕、壊れちゃうもんね」
どくどくと、心臓の高鳴りを感じる。
逃げないとまずい。このままじゃ確実に発作が起きる。
勉強疲れのせいか、久しぶりの篠宮さんに舞い上がったせいか、篠宮さんの予測できない行動のせいか、篠宮さんの魅力に翻弄されたせいか――あるいは、全て。
この瞬間の僕の思考速度は、あまりに遅すぎた。
篠宮さんの言う通り。
既に、逃げるという選択肢はない。
もっと言えば、選択肢なんてものがない。
僕はただ人形のように、篠宮さんの次の一手を待つしかできない。
「それじゃあ……四条君の初めて、貰うね」
篠宮さんは左腕を伸ばし、ぐっと体を持ち上げる。
篠宮さんの顔が、僕の眼前に一気に迫る。
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