第十七話 勉強

「突然だが。2分の1足す3分の1足す6分の1は?」

「え? 急にどうしたの?」

「いいからいいから」


 これくらいなら暗算でいい。

 6÷2=3、6÷3=2。

 3+2+1=6。

 6/6=1。


「1です」

「正解」

「神原先生、なんでそんな小学生レベルの事?今やってるの、中学二年の参考書だよ」

「まあまあ、最後まで話を聞きたまえよ。では、2分の1足す3分の1足す9分の1は?」


 最小公倍数は18。

 18÷2=9、18÷3=6、18÷9=2。

 9+6+2=17。

 17/18。


「17分の18です」

「うん、正解」

「で、結局何が言いたいの?」

「四条君、君は、こういう問題を知ってるかね?17頭の馬がいて――」

「3人兄弟の長男は2分の1、次男は3分の1、三男は9分の1で分けたいけど、このままじゃ分けられない。だから、1頭借りて18頭にして、結局最後に1頭余るから返す。ってやつだよね。わりと有名」

「時に、四条君。君はこの問題、及び答えをどう思う?」

「どう……って? 綺麗な解答だと思うけど」

「至極模範的な感想だ。では、この問題に隠されたトリックには気づいたかな?」

「トリック……もしかして、『そもそも分数の合計が1にならない』ってこと?」

「いぐざくとりぃ!」


 神原先生は僕より楽しそうだ。なんだか僕まで楽しくなってくる。だから、僕は神原先生が好きだ。


「富を配分するとは、限られた資産を分け合うことだ。だが、合計が1にならないのでは必ず余りが出る。全員で指示通りに配分するという暗黙の了解自体が、最初から破綻しているんだ」

「言われてみれば、確かに問題の前提条件に違和感があるね。考えたことなかったなぁ」

「そうだろうそうだろう。人は用意された答えに飛びつく習性がある。一つの答えに拘らず、視野は常に広く持て。それも、一度辺りを見回すだけでは不十分だ。知らない答えがあるかもしれないし、途中で答えが変わるかもしれない。常識なんてものは、時に自由な思考の妨げにしかならないこともある」


 いつも通り、神原先生の雑談は僕の想像の斜め上に着地する。

 これもいつもの事だが、先生は異様にご機嫌だ。勉強は楽しいものだけど、神原先生は僕以上に勉強を楽しんでいる節がある。実際、僕以上に知識を持ってる先生にとって、勉強は何より楽しいんだろう。


「一つの答えに拘るな。勉強だけじゃなく、人生の教訓として覚えておくといい」




「……懐かしいな」


 夕食の時間になり、大学生用の心理学の教科書を一旦置いた僕に、神原さんが声をかけた。


「君が高校三年まで、全ての教科書を『読み終えた』のは、今から半年ほど前のことだったか」

「ええ。そうですね。……あれから、教材に手を出すことはありませんでしたが」

「理由、聞かせてもらえるか?俺はてっきり、君も勉強そのものを楽しめるタイプの人間だと思っていた。どうして止めてしまったんだ?」


 神原さんの質問に――と言うより、あの神原さんから質問が出たこと自体に、僕は驚いた。


「神原さんにも、分からないことがあるんですか?」

「四条君。世の中ってのは、分からないことがあるからこそ楽しいんだよ。少なくとも俺にとっては、この世界はまだまだ楽しいことに溢れている」


 そう言えば、恋心は理解できないって言ってたっけ。神原さん、確かに仕事ばかりで恋愛には疎そうだ。高木さん、苦労するだろうなぁ。


「僕の勉強は、元を辿れば、親の為にやっていたことでした。その理由が無くなって……僕は、何の為に勉強してるのか、分からなくなってしまって」


 親の喜ぶ顔が見たい。

 まだ何も知らなかった頃の僕は、それだけで勉強に臨んでいた。

 自分のせいで親が離婚し、父親にまで見捨てられるなんて、これっぽっちも思わなかった。


「神原さんとの勉強は楽しかったから、しばらく続けてはいました。でも、知識を蓄えたところで、使い道がどこにもないんです。それに気付いてからは、最初から娯楽のために作られた漫画や小説の方が、僕には魅力的に見えてしまって。高校三年までで、ちょうどキリも良かったですし」


 僕の話を、神原さんはいつになく真剣に聞いている。

 置いた教科書に目を向けたまま、神原さんは一言口を開く。


「自分の為、ではいけなかったのか?」

「それって、結局何もしてないのと一緒じゃないですか。誰も知らない所で、誰も知らない人間が、誰も気付かないまま死んでいく。今の僕は、最初から死んでいるようなものです」


 篠宮さんと出会うまでは、このまま孤独に死ぬものだと思っていた。

 神原さんや高木さんが老いる前に、自分から命を絶とうとさえ思っていた。


 僕のちっぽけな世界は、篠宮さんに少しだけ押し広げられた。

 その少しが、僕にとっては天地が狂うほどの衝撃だった。


「もっと早くから医者になる勉強をしていれば良かったですね。今は、後悔しかありません。僕のINTが誰かの役に立つかもしれない日が来るなんて、昨日までは思ってなかったですから」

「それは結果論だな。過去は変えられないが、未来は変えられる。嘆いている暇はないぞ」

「はい。分かってます」


 気持ちを引き締め直し、僕は大きなマグカップを握った。




「四条さん、おはようございます。朝ご飯の時間ですよー」


 土曜日。日付は8月21日。

 高木さんは以前と同じように、朝食のワゴンを引いてやってきた。


「おはようございます。もう少ししたら食べますね」

「はい。ちょうどいい所まで終わらせたら、休憩にしましょうねー」


 ベッドテーブルの上にノートとペンが置いてある。が、あまり使っていない。僕は元々あんまりノートを取らない。DEXのせいで文字が汚いのに加え、思考速度に手を動かすスピードが追い付かないんだ。だったら最初から全部脳内で処理した方が手っ取り早い。

 大学生用のテキストを入念に読み込みながら、僕は高木さんに指示を出す。


「その間に、全部あれに入れておいてください」

「あれ、とは……そのミキサーのことですか?」


 元はテレビが置いてあった机の上に、大きめのミキサーがどっしり鎮座している。神原さんに頼んで持って来てもらったものだ。


「食べる時間が勿体ないので、食事は全部それで済ませることにしました」

「…………」


 高木さんは動こうとしない。あれ、どうしたんだ?


「四条さん」


 高木さんのスイッチが切り替わった。


「あまり根を詰めすぎては持ちません。元々身体の強い方ではないのですから、休息をきちんと取らないと、必ずどこかでガタが来ます」

「高木さん、お願いします。僕にはとにかく時間が無いんです」

「食事は栄養補給の役目もありますが、病院内では数少ない娯楽の一つです。蔑ろにしてはいけません」

「だからって、朝昼晩で合計二時間も三時間もかけてられないです。これが一番早いんです。食事を楽しむ必要も余裕も、今の僕にはありません。時間を全て勉強に費やす覚悟くらい、とっくに出来ています」


 今まで通りの食事だと、あまりに時間を浪費する。今までは、時間が余ったところで、読む本が一冊増えるくらいだった。が、今は違う。時間そのものに価値がある。


「……分かりました。四条さん、少しお時間を頂いてもいいですか?」

「いいですけど、何を?」

「せめて味だけでも分かるように、複数のミキサーを用意してきます。少々お待ちください。その間は勉強を進めておいてください」

「そこまでしなくていいですよ」

「時間も減らさず、最低限娯楽としての意義も保つ。折衷案としては上々だと思いますが?」

「……まあ、高木さんの迷惑でないなら」


 僕が何気なく言った一言に、高木さんはスイッチを戻した。


「迷惑だなんて、一度も思ったことはありませんよー。私にとって四条さんは、我が子のようなものですからね」


 僕にとっても、高木さんは母親のようなものだ。6年もずっと一緒にいる、大切な家族の一員だ。


 ……6年、か。

 僕はもう、本当の両親よりも、高木さんと神原さん、二人と共にいる時間の方が長いんだな……。



 30分後。


「お待たせしました」


 高木さんが持ってきたミキサーは、蓋や持ち手がピンクの花柄だった。


「あれ、一つですか?複数用意するって話では?」

「とりあえず現状はこれで。……まだ家電量販店が開いていなかったので、私物を持ってきました。お昼の前には数を揃えておきます」


 ほんの少し抜けているのが、実に高木さんらしい。神原さんと話していると、度々優秀すぎて怖くなるが、高木さんの凡ミスを見ると少し安心する。

 人間離れした神原さんと、ある意味人間らしい高木さん。二人はちょうどいいバランスを取っている。


「とりあえず今朝はミキサー2つとカップ5つで何とかします。もう少しだけお待ちください」


 静かな病室に、ミキサ―の中で食材が細かく砕かれる音が響いた。





「…………」


 厨房の奥。

 高木さくらは銀色のシンクに立ち、2つのミキサーをスポンジでゴシゴシ洗っている。隣では、大量の仕事を押し付けられた旧式の食器洗浄機が唸りを上げている。最新型なら少しは静かだろうに。いや、今は雑音でも無いよりマシか、と高木さくらは頭の片隅で考えていた。

 頭の中で反響するのは、四条賢者との会話、そして神原勇気との会話。



――あなたと私では、覚悟が違います。


――愛を抱くとは、相手の為なら自分の全てを投げ打っていいと覚悟すること。

――命を失わせる罪と比べれば、職を失うなど、些細な問題でしかありません。


――証明してみせますよ。高木さんも、篠宮さんも、何も間違ってなんかいなかったって!

――時間を全て勉強に費やす覚悟くらい、とっくに出来ています。



「……神原さんの言う通りですね」



――医者も看護師も、患者が健康な身体を取り戻して仕事や生活に復帰する、そのイメージの基盤になる。だから俺達は、患者の見本かつ理想であらねばならない。

――安易な自己犠牲は悲劇しか生まない。人は一人で生きてはいないんだ。喜びも、悲しみも、全て周りに伝播するものだと知れ!!



「私は、四条さんの見本になってしまった。自分の身を顧みず、自己犠牲を以って相手に尽くさんとする私の姿を、四条さんは理想としてしまった」



――僕を、殺し……



「ごめんなさい」


 涙がスポンジの上に落ち、溶けていく。

 誰にも見られていないなら、笑顔を繕う必要もない。


「私がもう少し早く、気付いていれば……」


 高木さくらのか細い声は、食器洗浄機の轟音に掻き消された。

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