第十六話 悲鳴、絶叫、怒声

 さーっと血の気が引く。

 最低。

 たった二文字の言葉が、ずっしりと重くのしかかる。

 僕は気付けば身を引いていた。


「ご、ごめん……本当に、ごめん!!」


 一日ぶりの篠宮さんに泥酔していた脳が、急速に回り始める。

 冷静に現状を分析する。



 明らかに正常じゃない精神状態の篠宮さんに、僕は無理やりキスをした。



 ああ、確かに、最低だ。

 僕は……僕は、取り返しのつかないことを――!!



「最低だ、あたし」



 ……なんで。

 なんで?

 なんでだよ!

 篠宮さんは何も悪くないのに!!


「最低だ……あたし、最低だよ。いくら夢の中だからって、していいことと悪いことがあるよ!!」


 そうか。

 篠宮さんはまだ夢の中にいる。目を覚ましていないんだ。

 王子様のキスも、夢の中に取り込まれている。

 僕の声は、想いは、篠宮さんには欠片も届いていない。


「篠宮さん、違うよ! 現実なんだよ!! 僕は篠宮さんの事が、本当に、本気で大好きなんだよ!!!」

「夢の中だからって、自分の好き勝手に四条君を弄んで、こんなの四条君に失礼だよ!!」

「僕の話を聞いて!!」




 後ろから、肩をぐっと掴まれる。


「時間だ」


 神原さん。

 タイムオーバー? このタイミングで!?


「少しだけ、あと少しだけ待ってください!篠宮さんが――」

「無駄だ。君が何を言っても、今の彼女には届かない」

「このままじゃ、篠宮さんが自分が悪いって――」

「これ以上喋っても悪化するだけだ。四条君。知っての通り、俺は心理学も心得ている。その俺が、絶対に無理だと言っているんだ。理解してくれ」

「僕はまだ、ありがとうって伝えられ――」

「簡単な診察はした。まだ詳細は不明だが……篠宮舞は、何らかの精神疾患を抱えている」


 精神疾患。

 心因性の病。


 嘘だ……と思いたい。けど、僕は実際に篠宮さんとたっぷり喋った。いつもと明らかにリアクションの違う、篠宮さんと。

 僕がどれだけ認めたくなくても、真実は変わらない。

 昨日の朝まであんなに元気だった篠宮さんは、今、心の病気に侵されている。


「僕のせい、ですか? 僕が、篠宮さんと一緒に……階段から落ちた、あの事故のせいですか?」

「言わせるな。違うと言ったら、信じるのか?」



 ――ああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!



 篠宮さんの絶叫が、脳裏に木霊する。

 腕を貫く激痛と、僕の発作。同時に二つの絶望を味わった篠宮さんの、悲痛な叫び。

 僕なんかよりずっとずっと深く、ずっとずっと真っ暗な絶望の牢獄に、篠宮さんは捕らわれているんだ。僕なんかがいくら手を伸ばしたところで、届くはずがない。


「続きは君の病室で話す。過度のストレスは不整脈を引き起こしうる。彼女に、これ以上見せたくはないだろう?」


 何を見せたくないか、神原さんは名言するのを避けた。


「……分かりました。篠宮さん」

「ひっぐ……ぐずっ……」

「また来るよ」


 篠宮さんは、両目を必死に擦りながら、一度大きく頷いた。

 ……まだ四週間ある。いつか必ず、篠宮さんの目を覚まさせるから。

 だから今は、待ってて欲しい。

 そこで待ってて、なんて、言いたくないけど。


「行くぞ」

「はい」


 神原さんは感情が顔に出るタイプだ。

 今の顔は、いろいろと、思い悩んでいるように見えた。




「先輩、四条さん、お帰りなさいませー」


 102号室に戻った僕らは、高木さんに出迎えられた。

 神原さんが露骨に顔をしかめる。


「高木君、今日は帰って休めと言ったはずだが?」

「私の事は気にしないでくださいねー。お二人の話を聞き届けたら帰りますから」

「俺を信用してないのか?」

「いいえ。ただの好奇心ですよー。神原さんが四条さんに何を話すか、後学の為に聞かせてもらえますよね?」


 な、なんだ? 指導の後とはいえ、空気が不穏すぎやしないか?

 二人でいるのはあまり見たことが無かったけど、こんなにピリピリしてたかな? と言うか、高木さんって神原さんを愛してるって言ってたよね? 全然そう見えないんだけど……?

 二人を横目に、僕は定位置に戻る。歩き疲れて足がパンパンだ。こんなに運動したのは久しぶりだ。別に今はどうでもいい。


「まあいい。で、四条君。早速本題だが」


 無駄を省いた切り替えの早さ。神原さんの事を知らない人でも、この人は仕事ができるんだろうな、という印象を受ける。実際は想像さえ超越するのだが。

 脇に高木さんが控えたまま、神原さんは構わず切り出す。


「篠宮舞の事は忘れろ」

「嫌です」


 何を今更。

 忘れるなんて無理だ。それに、篠宮さんと過ごした一日足らずの出来事全て、忘れたくない。僕にとって数少ない、一生の思い出だ。


「ふむ。即答とはね。君はもう少し、考えてから喋るタイプだと思っていた」

「考える余地がありませんから」

「なるほどね。自分で言うのもなんだが、俺は他人より賢いと自負している。がしかし、恋心という物は未だに理解できん」


 僕が篠宮さんに恋をしていることは、高木さんから聞いたのか。いや、神原さんならさっきの僕を見れば分かるか。


「どうして、ですか?」


 いずれにせよ、僕が篠宮さんに恋をしていると知っているなら、どうして、突然忘れろなどと言うのか。


「君が篠宮君に恋をしたところでどうなる。決して叶わぬ恋だと、理解できないわけじゃないだろう?」

「それでもいいです。篠宮さんとの思い出は、かけがえのないものです」

「どうやら説得は無理なようだな」


 無理と分かれば即座に引く。本当に切り替えが早いが、そのせいで神原さんの真意がどこにあるのか分かりにくい。我が道を行くという言葉を体現した人だ。少しは置き去りになるこっちの身にもなってほしい。


「ならば、篠宮舞の診察結果を教えておこう。第三者への情報漏洩は本来ならばご法度だが、今回だけは特別だ。

 確認されている限り、彼女は現実を夢と錯覚している。現実から目を背け、精神を守ろうとする防衛本能によるものと推測される。砕いて言えば現実逃避だ。詳細はまだ調査中。非常にデリケートな精神状態のため、最低でも三週間は面会謝絶。その後、右腕がある程度治れば、精神病院に移される。そちらは現状、四週間の見積りだ」


 腕の治療の為に、この病院にしばらくいなければならない。それは分かる。

 でも、篠宮さんのカウンセリングを並行することだってできるはずじゃないか?神原さんは心理学を心得てるんだから。


「この病院では治せないんですか?」

「うちに精神科はない。専門外だ」

「でも、神原さんなら――」

「既に面会謝絶が決定している。限られた一部の人間しか篠宮舞には接触できん。最後の一週間は会うこともできるが、篠宮君と深く関わりのある君ならともかく、初対面の俺が一週間だけ担当するくらいなら、最初から専門家に任せた方がいい。一日二日で治療できるものじゃない」

「神原さん、偉い人なんですよね?神原さんの権限で――」

「あまり言いたくはないが……君は言わねば納得しないだろう。四条君。そもそも君がレアケースなんだ」


 レアケース。その自覚はある。

 僕は6年もの間同じ病室で過ごしていて、専用の呼吸器まで手配されている。そして、週に5日は神原さん、2日は高木さんの世話になっている。しかも、治る見込みがない。下手すれば、いや、恐らく死ぬまでずっと、二人は僕の世話係だ。

 こんな患者、病院からすればいい迷惑だろう。


「君の父、四条正義の置いて行った大金……少なく見積もっても24年分、つまり君が30歳になるまでの入院費用。それがあるから大きな文句も出ていないが、本来、俺が君とずっと共にいること自体、かなり身勝手なことなんだ」


 じゃあ、もし僕がいなかったら。

 神原さんは、篠宮さんに手を差し伸べてくれるのだろうか。

 僕なんかでは、篠宮さんを助けられない。でも、神原さんが本気を出せば、すぐにでも篠宮さんを救えるはずだ。


 その為なら、命だって惜しくない。

 元々価値のない命が、篠宮さんの幸せに役立つなら、本望だ。


「神原さん」

「…………」

「僕を、殺し――」


 パアン、という高い音と共に、視界が90度回転する。

 右の頬、耳、こめかみの辺りに強い衝撃とヒリヒリする痛み。キーン、という耳鳴りの音。

 平手で叩かれたのだと、一瞬遅れて理解した。


「ふざけたことを言うな! 四条賢者!!」


 賢者。

 僕の名前。

 僕の大嫌いな名前。

 神原さんはけたたましい声で僕の名を呼ぶ。

 止めてよ。神原さんは、僕の事を誰よりも分かってるはずじゃないか。僕が名前にトラウマを持ってることだって。


「ただでさえ不安定な今、篠宮舞が君の凶報を聞いてみろ! 篠宮舞の精神は、今度こそ完全に崩壊する。二度と元には戻らない! そうなれば、全てが終わりだぞ!!」


 ――僕なんか、なんて言わないで!!

 ――もっと自分を大事にしてよ。四条君だって生きてるんだよ?なのに、あたしのことばっかり心配して、キミはちっとも自分のこと考えてない。

 ――どこが大げさなんだよ!少しは自分の心配してよ!!


 ……なんで。

 なんで、神原さんの姿が篠宮さんと重なるんだ?


「何故そんな簡単なことさえ分からん! 安易な自己犠牲は悲劇しか生まない。人は一人で生きてはいないんだ。喜びも、悲しみも、全て周りに伝播するものだと知れ!!」


 篠宮さんも、神原さんも、本気で怒ってる。

 僕なんかの、為に。




 あの夜。


――家庭も、親も、日常も、人生も!! 全部、ぜんぶ失った僕が、一体何を持ってるって言うんだよぉっ!!!


 僕の怒りが暴走して、篠宮さんをこれでもかと怒鳴り散らした時。

 篠宮さんは、笑ってた。


 ――嬉しい。

 ――どうして?

 ――四条君、自分の気持ち無視して、あたしのことばっかり考えてたと思ってたから。無理させてないかなって、ずっと思ってた。だから、嬉しい。本音で喋ってくれて。四条君の本音が聞けて。

 ――篠宮さんって、マゾなの?

 ――そういうのじゃないよ。でも、四条君の前だけは、そうかもね。


 篠宮さんは、笑ってた。

 今なら分かる気がする。

 怒られるってことは、自分の存在が相手にとって重要だと、認められてるってことだ。一緒に生きることを許されてるんだ。

 だから、嬉しいんだ。


「さて、改めて、答えを訊こう。」

「……確認させてください。面会謝絶が三週間。四週間後に移動なら、最後の一週間は会える。そうですよね?」

「ああ。それで?」

「それまでに、心理学を勉強します。三週間で勉強して、残りの一週間で、僕が篠宮さんに会って、治療します。僕が篠宮さんを元に戻してみせます!」


 INT900あれば医者になれる。僕のINTは1005。だから、今からでも本気で勉強すれば、心理学の分野のみなら充分に対応できるだろう。

 問題は、三週間という期限が定められていること。

 文句を言っても始まらない。絶対に間に合わせるんだ。INTだけが、僕の唯一の武器だから。


「全く……この結論に至るまでに、どうしてここまで回り道をしなきゃいけないんだろうな。俺には理解出来ないよ」


 神原さんはやれやれと、わざとらしく肩をすくめた。


「君の言葉なら、俺が言うより篠宮君に響くだろう。一週間でも充分な効果が出るはずだ。あいにく俺は忙しいから、マンツーマンで教えることは出来ないが、可能な限りのサポートはさせてもらう」

「お願いします。心理学の参考書と、それから筆記用具とノートと――」

「既に用意してある。今持ってくるから待ってろ」


 神原さんは言い終えると同時に体を動かし、一秒たりとも無駄にせず、速やかに病室を出て行った。

 ……いや、おかしいよ。何であらかじめ用意してあるんだ。

 僕の考えること、喋る前から分かってたってことか。……なんなんだ、ほんと。


「高木さん。神原さんってエスパーなんですか?」

「さあ、どうでしょうね?私にも分かりませんが、少なくとも悪人ではありませんよー」


 悪人かどうかは別に聞いてないんだけどな。


「……良かったです。では、私はこれで失礼しますね」

「良かった、って、何がですか?」

「いえ。こちらの話ですよー」

「やっぱり、指導の時に何かあったんですか?」

「さあ、どうでしょうねー」


 高木さんの頑強な笑顔は、僕には到底崩せない。

 僕は高木さんの背中を黙って見送りつつ、勉強道具の到着を待った。

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