第十五話 大好き

「どうして、ですか」


 瞳の奥にふつふつと燃える怒り。

 高木さくらは神原勇気を睨んでいる。


「殴ったことか?」

「篠宮さんの病室を教えたことに決まっているじゃないですか!!」

「分かってるさ」


 二人は屋上に来ている。8月18日の天気は曇り。夏の日差しこそ雲が遮るが、吹き付ける温風は過ごしやすいとは言い難い。


「何を焦ってる?」

「私の質問に答え――」

「落ち着け。全く、お前はいつもこうだ。四条君のことになると人が変わる」

「っ……そんなこと、ないです……!」

「本来ならばいいことだ。最近は患者を商売道具としか見ていない医者もそこら中に居る。高木君の、患者に親身に接する態度は称賛に値する。だが、今の君は、いかんせん冷静さを欠いている」


 神原勇気は柳に風とばかりに、高木さくらの剣幕を受け流す。


「視野が狭い」

「……なんですって?」

「高木君は、付きっきりで四条君を監視していたらしいな」

「はい」

「篠宮舞のアフターケアはどうした?」


 突風が吹き抜ける。

 神原勇気の一言で、攻守が入れ替わる。

 高木さくらの先程までの威勢が影を潜め、優しくも弱々しい、傷だらけの内面が露になる。神原勇気は高木さくらの変化を無表情で見届ける。


「ま、さか……篠宮さんに、何かあったんですか? だって、容態は四条さんの方が……」

「だから視野が狭いと言ってるんだ。己惚れるな。どれだけ自己犠牲を払おうと、一人の人間に出来ることには限度がある。君は見るべきものを間違えたんだ」

「そん……なっ……」


 高木さくらは生気を失った顔で、膝から崩れ落ちる。


「今は落ち込んでいればいい。立ち直るまでの時間はある」


 神原勇気は感情を殺した瞳で見下ろす。


「話は終わりだ。24分後に、307号室に向かう」

「止めに、行かないと。今、すぐ」

「駄目だ。高木君が反省する時間、冷静になる時間が必要だ」

「で、でもっ!」

「これ以上ミスを上塗りする気か?」

「う……っ」


 高木さくらは押し黙った。

 何をどのタイミングで言うのが一番効果的か、神原勇気は常に計算している。


「今のままでは、俺には一生勝てないぞ」




 エレベーターの位置は覚えている。

 だから、307号室への道中で苦戦はしない。

 問題はそこじゃない。


――分かんない!分かんない分かんない分かんない!!

――あたしバカだから分かんないよおおっ!!!


 ズキリ、と心が痛む。

 エレベーターを目指して歩くと言う行為自体が、僕の記憶とリンクし、光景をフラッシュバックさせる。

 本当なら、記憶を振り切るように、一気に駆け抜けてしまいたい。でも僕は走れない。だから、痛みに耐えながらゆっくり進むしかない。

 構わない。痛いだけなら、全然構わないさ。

 篠宮さんの為なら、僕はどんな犠牲も厭わない。



 四階、ではなく、今日は三階。


――あたしとキミで持ってるものが違うならさ、こうやって二人で一緒に居れば、最強じゃない?


 僕じゃなくて、例えば神原さんや高木さんだったら、最強だったのかもしれない。僕は、篠宮さんの足を引っ張るだけだ。

 …………。

 例え顔を合わせても、どれだけ篠宮さんが好きでも、僕は篠宮さんのパートナーにはなれない。

 構わない。今は、篠宮さんの為に出来ることをするだけ。

 それだけで、いい。



 僕が病院に来たばかりの頃、リハビリのためにしばしば病院内を歩き回った。

 結局ステータスの低さには勝てず、リハビリの成果は無かったが、病院の地図は頭の中に全て入っている。

 僕は古い記憶を頼りに、307号室に真っ直ぐ到着した。

 ドアに手をかけ、一度止まる。

 なんて声をかけるべきだろうか。

 おはよう……最初はこれで。次は?

 きっと、驚くだろう。そして、帰ってほしいとか、何らかの拒絶を示すだろう。

 次の言葉は……ありがとう、だな。まだ言えてなかった。

 最終結果だけ見れば裏目でも、僕は篠宮さんのおかげで、自分の目で太陽が昇る様を見ることができた。篠宮さんと一緒に見たあの景色は、僕の12年の人生の中で最大の宝物になった。

 篠宮さんは悪いことをしたと思ってるみたいだけど、僕は感謝してる。まずは、それをハッキリ伝えよう。

 そこから先は、篠宮さんの反応次第。見てから考える。



 ガラガラとドアを開ける。


『はーい、続いてのお店はこちらでーす! 連日長い行列を作り、巷で話題沸騰中の庶民派高級レストラン、ソロモンナイトフィーバーです! それでは早速中に入って行きましょう!!』


 ドアを開けた正面、脚にタイヤのついた可動式の台に、テレビが乗っている。

僕の嫌いなテレビが。

 天気は曇り。場所はいわゆる商店街。肉屋、八百屋、呉服屋、飲食店などが立ち並び、その中の一つに、ムカデのように人がぞろぞろと群れている――


 僕の耳から、目から、外の世界の情報が次々と押し寄せてくる。

 無理やり押し込まれるデータの波に耐え切れず、僕は思わず目を瞑った。

 止めろ。

 止めてくれ。

 何を聞いて、見て、知ったところで、僕は外には一生出られないんだ。


「だれ……?」


 有害な騒音に混じって、澄き通った声が聞こえる。

 病院の中で完結する僕の味気ない日常に、華を咲かせる唯一無二の存在。

 一日ぶりに気分が高揚する。


「篠宮さん!」


 嬉しくなって、僕は篠宮さんを脊髄反射的に呼んでいた。第一声は『おはよう』の予定だったのに。


「四条君……? どこ? どこにいるの?」


 目を開く。ベッドが左右に二つ、右には誰も、左に――いた!

 逸る気持ちを落ち着かせながら、僕はドアを閉める。焦らないよう慎重に歩を進める。本当は今すぐ顔を見たいが、発作を起こすわけにはいかない。近づくほどテレビの音が大きくなるが、どうだっていい。

 篠宮さんは病院服でベッドに座っている。普段の僕と同じように。そんな小さな共通点にさえ心が躍る。

 ギブスを嵌めたまま大人しくしている篠宮さんに、僕は初めて怪我人らしい印象を受けた。今までずっと、元気溌剌の擬人化みたいな感じだったから余計に。


「篠宮さん、おはよう」


 予定と少しズレたが、僕は篠宮さんに朝の挨拶を済ませる。

 拒絶されたら、僕が本当に感謝してるってことを、篠宮さんに伝えよう。一部分でも伝わればいい。それで篠宮さんが楽になるなら。


「あはっ……夢、みたいだぁ」


 篠宮さんは――とろんと眉を緩ませ、嬉しそうに笑っている。なんて破壊力だ。あまりにもかわいすぎる。きっと前世は天使か女神だったに違いない。

 ……あれ? てっきり、もっと僕を突き放すような事を言われると思ってたのに。

 拍子抜けだ。でも良かった。どうやら、僕の希望的観測は当たっていたらしい。神原さんは本当に、篠宮さんと会っても平気だって事を把握していたんだ。


「そうだよねぇ。夢、だもんねぇ」


 …………?

 夢だもんね、とは、一体どういうことだろう?

 やっぱり、篠宮さんの思考回路は僕には分かりにくい。分かりにくいからこそ、篠宮さんといると楽しいんだ。



「夢の中くらい、大好きな人と会ってもいいよねぇ」


 全ての思考が吹き飛んだ。


 だ……だ、大好き!?篠宮さんが、僕を!!?

 嫌われてはない、と思ってた。け、けど、そんなにいきなり言われたら、心の準備がまだ……!?

 体が燃えるように熱い。恥ずかしくて篠宮さんの顔が直視できない。ぼ、僕はどうしたらいいんだ!?さっぱり分からないよ!!


「四条君。声、聴かせて?」

「え!? あ、そ、そうだね、ええっと」


 ……だ、ダメだ。頭が真っ白になって何も思い浮かばない!

 どうしよう!?と、とりあえず、最初に頭に浮かんだ言葉を――


「僕も大好きだよ!!」


 ――――!?!?

 何を血迷ってるんだ僕は!?

 いくらなんでもいきなりすぎる!いや、篠宮さんもいきなりではあったけど、でも、でも!!


「そっか。ありがとう」


 ……あ、あれ?

 それだけ?


 篠宮さんの笑顔が、ほんの少し歪んでいる。

 どうしてだろう。

 篠宮さん。

 さっきまでとほとんど同じ笑顔のはずなのに、寂しそうに見える。


「ねえ、四条君?一緒に、テレビ見よう?」

「う、うん……」


 ともすれば発作に繋がりそうなほどの胸の高鳴りは、篠宮さんのリアクションの薄さでうやむやになってしまった。

 ちょうどベッドの、僕から見て左隣にある丸椅子に座る。

 テレビは篠宮さんの方に斜めに向けられている。


「夢だったんだぁ。こうして四条君と、のんびりテレビ見るの」

「そうなんだ。叶えられて良かったよ」

「うん。ありがとうね。なんだかほんとの家族みたいだねぇ」


 僕は篠宮さんと共に、改めてテレビの画面を見る。


『まだまだイケますよー! みくる、よく個性が無いとかキャラが薄いって言われるんで、まずは大食いキャラを目指してるんです! 芸能界は個性が全てみたいなとこありますからね!!』


 何故だろう。さっきまではアレルギーでも出たかのように拒絶していたのに、今は普通に見られる。篠宮さんのおかげだ。

 篠宮さんと一緒にテレビを見るという、外の世界で起こりうる日常の一部を、僕は疑似体験している。

 嬉しい……けど、やっぱり悔しい。

 退院したら、僕の代わりに別の誰かが隣に座るんだもんな。


『えー!? こんなにおいしいのにお安いですね! みくるの少ないギャランティーでもプライベートで通えちゃいますね!!』


 みくると言うらしい芸能人が店主らしき人物とをしている。赤とピンクのチカチカした衣装から、恐らくアイドルの類。料理は……パンのように見えるが、ナイフとフォークで食べている。少なくとも病院では出ないやつだ。


「あの子、かわいいねぇ」


 どこが。

 顔、声質、口調、仕草、どれを取っても篠宮さんには遥かに及ばない。


「あたしもあれくらいかわいかったらよかったのにねぇ」

「篠宮さんの方が、断然かわいいよ」


 ……本心からすっと出た言葉だけど、改めて思うと結構こっぱずかしい事言ってるな、僕。俗に言う、歯が浮く台詞ってやつだ。さっきの大好き事件でリミッターが馬鹿になってるのかもしれない。


「……うん。ありがとう」


 篠宮さんは、また寂しそうに笑った。

 どうしてだろう。原因が分からない。


「それにしても、嬉しいなぁ。ほんとは四条君、テレビ嫌いだもんねぇ。でも、夢の中でなら、こうやって一緒に見られるもんね?」


 やっぱりおかしい。

 篠宮さんの様子がおかしい。

 声質も口調も、僕の記憶の中の篠宮さんより、どこかふわっとしてる。

 発言の内容も、まるで、夢と現実を混濁してるようにさえ聞こえる。


 もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。

 篠宮さんは――夢と現実の区別がつかなくなってるのか?


「あたしの夢の中だから、嬉しい事、いっぱいいっぱい言ってくれるんだよねぇ。現実じゃ、二度と会えないもんね」


 どうやら、僕の仮定は当たっていたらしい。

 胸がきゅっと締め付けられる。

 寂しい。

 そうか。これが、篠宮さんも感じている寂しさか。

 こんなに近くにいるのに、篠宮さんが遠い。僕と篠宮さんの間に大きな隔たりがある。

 夢と現実の壁。

 いくら距離を縮めたところで、決して超えられない壁が。


 篠宮さんは、これが全て自分の夢の中の出来事だと思っている。


「夢じゃないよ」


 なら、やることは一つだ。

 篠宮さんを、『こちら側』に呼び戻す!


「篠宮さん、目を覚まして!」

「え? 嫌だよ。もっと四条くんと居たいもん。あたしの夢、もっと叶えて?」

「僕はここにいるよ!!」

「そうだよね。四条君はもう、夢の中にしかいないもんね」


 駄目だ。埒が明かない。

 時計を見る。

 10時21分49秒。

 30分の制限時間まで、あと5分くらい。

 どうする。時間は有限だ。

 篠宮さんを、夢から目覚めさせる方法は――



――起きないなら、あたしが王子様のキスで目覚めさせてあげようか?



 あの日の朝、篠宮さん自身が言っていた。

 迷っている時間は、ない。


 奇しくも、初めて篠宮さんに会った時と、ぴったり真逆の位置関係。

 ベッドに座っている篠宮さんから見て、右斜め前に僕は立つ。


「起きないなら、僕が王子様のキスで目覚めさせてあげるよ」

「…………?」


 篠宮さんが僕に触れたのは左手だが、篠宮さんの右腕のギブスにぶつかってしまいそうだ。僕は右手を伸ばす。

 こちらを向く篠宮さんの顎に、三本の指でそっと触れる。


「ひゃう!?」


 篠宮さんはびっくりして、目をぱちくりさせている。

 手に少しだけ力を籠め、僕の視線とぴったり合わせる。


「嫌なら抵抗していいんだよ?」


 魔法の言葉を添える。

 篠宮さんは精巧なガラス細工のように、完全に固まった。


 顔を近づける。

 篠宮さんの匂いに、脳が甘く痺れる。世界一かわいい顔が至近距離で僕を魅了してくる。

 おかしいな。とっくに諦めて、克服したはずなのに。

 でも、いくら篠宮さんがかわいくても、今はメロメロになってる場合じゃない。

 何とか理性を保ち、僕は目を閉じ、もっと顔を近づける。


 そして。

 ひときわ強い匂いの中、篠宮さんの頬に、僕の唇がそっと触れる。

 柔らかい。

 みずみずしくハリのある、もっちりとした肌。いつまでも、触れていたくなる。





 しょっぱい。


 瞼を持ち上げる。頬を伝う雫――涙?



「最低」

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