第十話 守るべきモノ
「ん、うう……」
ゆっくりと、目を開ける。
白い蛍光灯と見慣れた天井。
その背景に、ばっ!と誰かの顔が割り込む。
「四条君! 気が付いた!?」
目のレンズがピントを合わせると、篠宮さんの顔が鮮明になる。
頭が痛い。まだ寝足りないと脳が訴えている。同時に、目を瞑りたくない。ずっと篠宮さんの顔を見ていたい、とも。
ふわりと香る篠宮さんの匂い。ずっと背中で嗅いでいたからだろうか、なんだか安心する。
どうやら、僕は生きているらしい。
「篠宮さん、少しだけお待ちください」
高木さんの声だ。今日は、確か水曜日。神原さん……は、出張だっけ。
「ご自分の名前は思い出せますか?」
名前?
忘れるはずがない。
「……賢者」
「では、私は?」
「高木さくら、さん」
「どうやら、記憶に異常はないようですね。少しだけ、肩の荷が下りました」
高木さんと話している間、僕はずっと篠宮さんの顔を観察している。
たらんと垂れ下がり揺れる黒と紫の髪。時折瞬くぱっちり開いた瞳。すらりと流れるようなラインの目鼻立ち。みずみずしい唇。きめ細やかな肌。
蛍光灯が後ろにあるので逆光になっているのが惜しいが、それでも十分すぎるくらい、かわいい。何故だろうか、初対面の時よりも、はるかにかわいく見える。
恋は盲目、という言葉を思い出した。こんなにかわいい顔が見られるなら、盲目も悪いものじゃない。
「よかった……心配したんだからね」
心配?
そういえば、僕は何で寝てるんだっけ。
篠宮さんと一緒に早起きして、エレベーターで朝日を見に行って、僕の発作が――
そうだ、階段!
「僕なんかのことより、篠宮さんの腕は!?」
視線を顔から下に、三角巾とギブスに移す。昨日と同じだ。外見上は。
「四条さん、絶対安静です。声も、今は可能な限り抑えて。体の疲れもありますので、しばらく寝たままでいてください」
いつもより少し早口で、高木さんが僕に警告する。
「運が良かったです。ほんの二週間、入院期間が伸びただけで済みました。もっと大事になっていてもおかしくありませんでしたが」
高木さんの口調はいつも通り、のはず。
だけど、揶揄のように聞こえてなんだか怖い。
高木さん……もしかして、怒ってる?
「本来、神原さんが帰ってくるのと同時に退院の予定でした。なので、今日から数えておよそ四週間入院して頂くことになります」
骨折の場合、経過を見て、完治する前に退院になることはよくある。不自由でもいいから出来るだけ早く日常生活に戻りたい、入院費用がかさむので長居したくない、などの理由で。
篠宮さんの腕は、完治までにはまだかなり時間があった。
僕のせいで、さらに悪化させてしまった。
「じゃあ、篠宮さんは、四週間はここに居られるんだ」
…………いや、待て。何を言ってるんだ僕は。
篠宮さんの怪我が悪化したのに、どうして、嬉しいなんて……
「駄目だよ」
逆光の影で、篠宮さんは、瞳を潤わせて笑った。
「いくらバカなあたしでも、流石に分かったよ。あたしは、キミと一緒にいたら駄目なんだよ」
……え?
「もう、行くね」
「待って!」
篠宮さんは僕のベッドから離れる。
行くって、どこへ。
一緒にいたら駄目なんて、どうして。
どうせ入院するんなら、二人で楽しく過ごせばいいじゃないか。
「身体のことは気にしなくていいよ。それより、僕は篠宮さんともっともっと喋りたい。篠宮さんと喋ってるだけで、本を読むよりずっと楽しいから。だから――」
「静かにして」
冷たい。
違う。僕にとってはこれが普通。いつも一人でいる時は、もっと寂しいはず。
温もりを失った反動で、常温を冷たいと錯覚しているだけだ。
なのに、どうして。
心が凍え死ぬほど、冷たいと感じてしまうんだ。
「キミの言葉を聞いてると、一緒にいたくなっちゃうんだよ。あたしは間違ってないんだ、許されていいんだ、って、あたしはキミの隣にいてもいいんだって思っちゃう。キミの優しさに甘えちゃうんだ。……そのせいで、何度もキミを殺しかけた」
「だから、篠宮さんは気にしなくていいって」
「無理だよ!!」
今日も、昨日みたいな日を送れると思っていた。明確な根拠は無かったけど、たった一日で終わるなんて、露ほども思ってもいなかった。
まだ篠宮さんはそこにいるのに。篠宮さんが、恋しい。
人は、大切なものを失うまで、本当の価値に気付かない。
使い古された表現だ。何もかも失った僕は、その意味を十二分に理解していると思っていた。
嫌だ。
嫌だよ。
こんな形で終わるなんて嫌だ。
篠宮さんの温もりを失いたくない。
篠宮さんともっと会話を重ねたい。
篠宮さん。篠宮さん。篠宮さん!!
「ずっと、不思議だった。なんでキミは、キミを殺しかけたあたしにも、こんなに優しいんだろうって。バカだから、今までずっと分からなかったけど……やっと、分かった」
まだ、まだ篠宮さんはここにいる。
僕は力はないけど、言葉で繋ぎ止めることは出来るかもしれない。
「キミはさ。あたしに優しい分、自分に優しくないんだよ」
「だって、篠宮さんは僕なんかよりずっと――」
「僕なんか、なんて言わないで!!」
嫌われたくないと、思った。
嫌われなければ隣にいてくれるって、思っていた。
嫌われなかったから、篠宮さんは僕を遠ざけようとしている。
理不尽、だ。
「もっと自分を大事にしてよ。四条君だって生きてるんだよ? なのに、あたしのことばっかり心配して、キミはちっとも自分のこと考えてない。なんで僕なんかとか言うんだよ! あたしの腕のことより、四条君が酸欠で死にそうだったことの方が百倍大事だよ!!」
……そういえば、まだ、僕のことは聞いてない。
篠宮さんが無事なら、どうだっていいと思ったから。
「そんなに危険な状態だったんですか?」
「はい。篠宮さんの悲鳴に職員が気づいたので良かったですが、発見があと1分、いや、30秒遅れていれば、確実に脳に障害が残ったでしょうね」
そんなに、か。
でも、結局無事だったんだから、それでいいじゃないか。
それでいい、って言ってよ、篠宮さん!!
「これ、最初に聞いておかなきゃいけないことだよね?」
「大げさだよ」
「どこが大げさなんだよ! 少しは自分の心配してよ!!」
無理だよ。
だって、僕の命に、守るほどの価値はない。
なんとなく死ぬのが怖いから、本を読むだけの日々を惰性的に送っているだけ。
いくら知識を蓄えても、外の世界と隔離された僕には、その使い道なんてない。
僕なんか、居てもいなくても変わらない、虫みたいな存在だ。
価値が無いものは、守れない。
「四条君はあたしといると、自分の事を全部後回しにしちゃう。だから、あたしは四条君から離れなきゃ駄目なんだよ」
後回しにして当たり前なんだよ。
僕と篠宮さんじゃ、命の重さが違う。
僕の命より、篠宮さんの腕の方が、何万倍も大事だ。
いや。
ゼロを何倍したって、ゼロのままだ。
「さよなら」
僕はベッドから起きた。背を向けて歩き出した篠宮さんに、手を伸ばす。届かないと知りながら。
「いい加減にしなさい!!!」
びりびりと、空気の震えを肌で感じる。
轟雷のように、高木さんの怒号が空気を引き裂く。
「絶対安静と言ったはずです! 横になりなさい。今すぐ!!」
僕の腕を、高木さんが掴む。折れそうなほど強く。
痛い。
高木さんの細い指が、僕の腕に食い込む。
「で、でも――」
高木さんの顔を、今日初めて見る。
眼鏡の奥に吊り上がった目尻。固く閉ざした口。真っ赤に上気した頬。
燃えるように熱い、怒り。
ガラガラと、ドアを開ける音。
「篠宮さん! 行かな――」
「大声を出さないでください!!」
同じ音が、もう一度。
続いてほしいと願った日常は、一日も続かなかった。
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