第九話 上げて、落とす

 どくん!


「があっ……!?」


 至福の時間に、鋭く走るノイズ。


 心臓が跳ねる。

 息苦しい。

 発作。

 不整脈と過呼吸。


 そんな、どうして、このタイミングで急に!?



――無理は禁物ですよ。激しい運動だけではなく、例えばとか、大声で笑うことも、過呼吸やそれに伴う不整脈に繋がることがあります。呼吸の乱れがそのまま発作になりますからね。

――分かってますよ。何度も聞きましたし、絶対に忘れません。



 

 絶対に忘れないと、あれほど心に決めていたのに!


 どっくん!!


 落ち着け、落ち着いて息を――


「うっぐ、あ、ぐうっ……」


 喉が痛い。上手く、息ができない……!?


「し、四条君! もしかして、また!?」


 頷く。声で返事ができない。

 これは、本当に、まずい。


 どくん!どく、どっくん!


 怖い。

 こんなところで、死ぬのか、僕は?

 生まれて初めて、こんなにも感動しているのに……それがきっかけで、死ぬ?

 理不尽にも、程があるだろうが……!


「あ、はあっ、ひうっ、ごっほ、げほ、げほっ!」


 せめて。

 せめて、篠宮さんの前でだけは、嫌だ。


「帰ろう! 102号室、でいいんだよね? 四条君、頑張って!!」


 頷く。

 顔に向かい風が当たる。篠宮さんが走っているんだ。


「ドア、閉めなくてよかった……」


 右手はケガをしている。左手は僕を支えている。篠宮さんは両腕ともに塞がっている。

 篠宮さんは慌ただしく階段を下りる。一段ごとに、小刻みに体が揺れる。

 慌てないで、転んだら危ない――


「はあ、う、くふう、がぁ……っ」


 駄目だ。声にならない。


 四階。


「四条君、エレベ……!!」


 どくん!!

 みぎ。

 たった二文字だけ言えればいいのに、僕は、声を出せない。


「……だ、大丈夫。心配しないで。来た道を逆に戻ればいいだけ……だもんね? い、いくら私がバカだからって、ついさっき通った道、くらい……」


 篠宮さんは強張った頬で、挙動不審にきょろきょろと首を回す。道は左右に一つずつ。


「え、えっと……逆に行かなくちゃいけなくて、右はお箸を持つ方で、でもあたしはケガしてるからその逆で……あ、あれ?」


 篠宮さんだから、じゃない。誰だって、パニックになるだろう。

 篠宮さん、ごめん。本当に、ごめん。


「とにかく! 走り回ってればいつか着く、よねっ!!」


 篠宮さんは左に、エレベーターと逆の方向に踏み出した。

 壁と床と天井が、凄まじい勢いで後ろに流れていく。

 全力疾走。僕という大きな荷物を背に乗せたまま。


「エレベーター、エレベーターは、どこ?」


 篠宮さんは、曲がり道を右へ、左へ、がむしゃらに突っ走る。


――あたしとキミで持ってるものが違うならさ、こうやって二人で一緒にいれば、最強じゃない?


 そっちじゃない、と、何度心の中で叫んだだろう。その度に、胸が締め付けられる。篠宮さんはこんなに必死になっているのに、僕は篠宮さんに負担をかけるだけで、案内の役目さえ果たせないなんて。


「どこ? どこ!? どこなの!!?」


 篠宮さんは、縦横無尽に間違った道を進み続ける。

 篠宮さんの体温が上がっている。汗がだくだくと溢れ、病院服に染み込む。いくらSTRが高いからって、33キロある僕を背負ってるんだ。足にかかる負荷は尋常じゃない。でも、篠宮さんは一瞬たりとも休もうとしない。僕の為に。一秒でも早く、僕を助けるために。


「分かんない! 分かんない分かんない分かんない!!」


 どくん!!

 苦しい。

 無情に過ぎていく時間と共に、精神も、肉体も、やすりで削られるように、がりがりとすり減っていく。


「あたしバカだから分かんないよおおっ!!!」


 どうして。

 どうして僕は、一番必要とされている時に、何も出来ないんだよ!

 僕のVITと、篠宮さんのINTが足を引っ張り合ってる。

 最弱の組み合わせじゃないか、こんなの。


「はあ、はあ……あ、あれ……? どうして……」


 いつの間にか、元の場所まで戻ってきてしまった。

 屋上から降りて来た階段が目の前にある。


「……階段、か」


 隣に、さらに下へ続く階段も。


 駄目だ。

 篠宮さん、疲れてるじゃないか。

 ただでさえ僕を担いでの強行軍なのに、階段なんて、危ないに決まって―― 


「しっかり掴まってて!」


 ふわりと、一瞬体が宙に浮く。重力に対する抗力がなくなる。

 だん、と大きな音と衝撃。

 凄まじい勢いで、僕達の身体は位置エネルギーを失っていく。


 一段、いや、二段飛ばし!?

 無茶だ、もし、足でも踏み外したら――


 だん。

 だん。

 だん。

 だん。


 踊り場で半回転。


 だん。

 だん。

 がすっ。


「きゃあっ!?」



 人間の脳は、自分の身に命に関わる危険が迫ると、一時的に、著しく処理速度を上げる。まるでスローモーションのように、ゆっくり動く世界。

 過呼吸で上手く補充できない、血中に残ったなけなしの酸素を振り絞り、僕の脳はフル回転する。



 前のめりに落ちる、僕達の身体。

 後ろ手に回し、僕に添えられた篠宮さんの左手に、強い力を感じる。

 篠宮さんは、あくまで僕を庇おうとしている。

 次に、篠宮さんは、首に下げた三角巾から、ギブスを引き抜く。

 ギブスごと、折れているはずの右腕を、一切の躊躇なく前に。

 着地の衝撃を、その腕で受け止めるために。



 僕に、出来ることは、ない。



 床に叩きつけられる。右腕一本に、落下の勢いを乗せた篠宮さんと僕の体重が、全てのしかかる。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」



 確かに、地面に落ちる衝撃を感じた。

 それでもなお、僕は、ずっとずっと落ち続けている。ぽっかり空いた底のない大穴に。絶望という深く終わりのない穴の中に、今も落ち続けている。

 永久に続くかと思われた、暗くどす黒い絶望の、底が見える前に。

 僕の意識は闇へと消えた。

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