第八話 終わりの始まり
「……くん」
右の肩が重い。
「……うくん」
右肩を揺らされている。
「しじょうくん」
右から、僕を呼んでいる。
僕は目を開けた。
眩しい。
部屋の電気がついている。
頭がぼーっとする。僕は低血圧だ。朝が弱い。朝も弱い。
「おはよ、四条君」
篠宮さんがベッドの右に立ち、僕を揺さぶり起こした。
「……今、何時?」
ベッドの左を向く。
4時18分。
「……おやすみ」
僕は目を閉じる。
「こらこら、二度寝しないの!」
「あと三時間……」
「起きないなら、あたしが王子様のキスで目覚めさせてあげようか?」
「うー……」
僕はしぶしぶ上体を起こした。篠宮さん、なんでこんなに早起きなんだ。
「ほら、早く行くよ!」
「……どこに?」
「いいから!」
篠宮さんは早く早く、とひっきりなしに僕を急かす。篠宮さんのVITはいくつだっけ。300台だったはず。僕よりゼロが一個多い。
「ほら、乗って!」
篠宮さんは僕に背を向けてしゃがんでいる。
「……乗るって?」
「おんぶしてあげるから、背中乗って! 間に合わなくなっちゃうから!」
「……なんでそんなに急いでるの?」
「いいからいいから!」
理由を聞いても、篠宮さんは同じことしか言わない。
篠宮さん、STRは高い方だったと思う。僕は軽いから、背負うくらい平気か。
掛布団をおしのけ、のっそりとベッドから降り立つ。篠宮さんの首にはギブスを固定するための三角巾が巻かれている。服装は病院服のまま。いつ制服に着替えるんだろう。
僕は篠宮さんの肩に手を乗せる。篠宮さんとの距離が近づく。
ふわり、と篠宮さんの匂いがする。昨日よりも、ずっと濃い匂い。
嗅覚をガツンと殴られ、急激に思考がクリアになる。
強烈だが、決して不快ではない匂い。寝汗のせいだろうか。昨日嗅いだのを3倍くらいに凝縮したような、甘ったるい匂い。篠宮さんのことしか考えられなくなる、麻薬的な匂い。
なのに、どうしてだろう。
僕には刺激が強かったはずの篠宮さんの匂いを嗅いでも、脈が乱れないのは。
脳が溶けそうになっていた篠宮さんの匂いを嗅いでも、心が動かないのは。
そうか。
僕はまたひとつ、諦めてしまったのか。
篠宮さんの首に腕を巻き付かせる。篠宮さんの背中と僕のお腹をぴったりくっつける。
こんなに密着しているのに、吐息が聞こえるほど傍に居るのに、何も感じない。
虚しい。
「私、ひとつ見つけたんだ。私が知ってて、四条君が知らないこと」
篠宮さんは楽しそうだ。
僕は?
…………まあ。
篠宮さんが楽しいなら、それでいいか。
「僕は病院の外には出られないよ。呼吸器もここにあるし、あんまり遠くには……」
「だいじょぶ! 病院の中だから! ……いや、外かな? 中かな? 分かんないや」
新手のなぞかけ?
言葉の意味も篠宮さんの思考も、寝起きの頭ではちっとも理解できない。
「まあいいや。じゃ、しゅっぱーつ!」
篠宮さんは左手を僕のお尻に当て、すっくと立ちあがる。篠宮さんは僕をゆさゆさと数回揺すり、丁度いいポジションを探す。
「キミ、結構軽いね。何キロ?」
「前に測った時は33とかだったかな」
「あたしより軽いの!? ……そりゃそうか。12歳って、小学生くらいだもんね」
「それより、急いでるんじゃ?」
「そうだった!」
篠宮さんは、病院ではよくあるタイプのスライド式のドアを、足を引っかけて器用に開けた。ほんと、器用だ。
「さて……四条君?」
「ん、なに?」
「エレベーターってどっち?」
急いでいるわりに、目的地までの道は分からないらしい。確かに、かなり大きな広い病院ではあるけど。
「ここは左にまっすぐ行って、突き当りを右、そのまま――」
「左ね。おっけーだよ」
篠宮さんはくるりと右を向く。
「そっちは右」
「ほえ? あ、ごめんごめん」
篠宮さんは180度回転。よし。
「じゃあ、分からなくなったらまた教えるよ」
「うん。よろしく!」
昨日までの僕ならとうに限界だったであろう、篠宮さんの匂いと体温。
もやもやした気持ちを抱えながら、僕は篠宮さんをエレベーターまでナビゲートする。
「この道を右」
「はーい」
篠宮さんは左を向く。
「そっちは左」
「ありゃ? ねえ、四条君」
「どうしたの?」
「右って、お箸持つ方じゃなかったっけ?」
「あのね、篠宮さん。普段お箸持つ方の手、怪我してるでしょ?」
「……あ、なるほど!」
右手が使えたなら、ぽんと手を叩いただろう。今は左手も塞がっているが。にしても、左手一本でよくここまで上手くバランスが取れるものだ。
そんなこんなで、僕らはどうにかエレベーターに辿り着く。
流石に両手無しでボタンは押せない。おでこで押せないかと模索し始めた篠宮さんの代わりに、僕が押した。
――一階です。
――ドアが開きます。
電子音に続き、ドアが開く。
中に入り、反転。
――ドアが閉まります。
階を選ぶボタンは一階から四階まである。
「何階?」
「四階だよー」
――上へ参ります。
目的地は、どうやら上にあるらしい。
病院の中でもあり、外でもある場所。
「もしかして、屋上?」
「あー、バレちゃった? 着くまで隠しときたかったな」
「ごめん。INTだけが取り柄だからさ」
「だねー。あたしと真逆だ。羨ましい……けど、どっちがいいとかじゃないんだよね。持ってるものが違うだけ。そうだよね、四条君?」
「252にしては、上出来だね」
「あはは、ひっどいなぁ。あんまり言うと怒るよ?」
篠宮さんはこれっぽっちも怒っていない。
「ねえ、四条君」
「なに、篠宮さん」
「あたしとキミで持ってるものが違うならさ、こうやって二人で一緒にいれば、最強じゃない?」
「篠宮さんが歩いて僕が道案内する、今みたいな状況のこと?」
「うん。どうかな」
悪くはない。いや、むしろ良い。互いに欠けているところを補える、それはパートナーとして理想と言ってもいい。
ただ一点だけ。『相手が僕でなければならない』という必然性に欠ける。INTが高い人なんて、僕以外にもいくらでもいる。例えば神原さんのように。
INTはともかくとして、僕が抱えているデメリットが大きすぎる。外出の際、篠宮さんに四六時中背負われるわけにはいかない。
「最強、って表現がバカっぽい」
「むー。ちょっと何回も言い過ぎだよー?」
今度はちょっぴり怒ってるかも。
「…………」
黙ってしまった。本当に怒らせちゃっただろうか。
――四階です。ドアが開きます。
エレベーターの機械音声が沈黙を破る。
「お、着いたね。また階段まで案内よろしく!」
「はいはい」
僕は再び篠宮さんを操る。
階段への道のりはまあまあ距離がある。到着までに3回曲がったが、篠宮さんは、今度は左右を間違えなかった。
僕の分の重さを感じさせない軽い足取りで、篠宮さんは階段を上っていく。
「そういえば、篠宮さん」
「んむ? どした?」
「なんで僕が屋上に出たことがないって知ってるの?」
篠宮さんは、僕がずっと病院に居たことを知っている。病院内は全ての場所に行ったことがあると思うのが普通だ。
素朴な疑問。ただし、明確な答えが返ってくるとは、最初から期待していない。単に何も考えていないか、考えがあったとしても話してくれるかどうか。
「ひーみーつ!」
やっぱり教えてはくれないみたいだ。
篠宮さんが階段を上り切る。白い壁に、白いドア。病院にしては珍しく、丸いドアノブがついたドア。
「四条君、お願い」
「了解」
僕はドアノブを捻る。
穏やかな風が僕らを通り過ぎる。
確かに、病院の敷地内ではある。が、同時に病院という建物の外でもある。
僕は数年ぶりに、外を見た。
暗い。まだ日の出前だから、当然だ。それでも少しばかり光はある。街の明かりだ。建物の明かりだ。早起きなのか、夜更かしなのか、それは分からない。
屋上は広い。建物が大きいから、これも当然。
落下防止の高いフェンスが四方を囲んでいる。当然だ。病院に自殺スポットを作るほど、医者は馬鹿じゃない。
篠宮さんは僕を乗せ、外の空間に出る。向かって右のフェンスに近づく。近づけば近づくほど、当然、眼下に広がる街並みが僕の視界を占める割合も高くなる。
僕は建物から目を背けた。
明かりのある場所では、人間が生活を営んでいる。
明かりは、そこで誰かが何かをしている証拠。
僕には行けない場所で、僕にはできない何かを。
こんなところに来て、篠宮さんは、一体僕に何を見せたいのか。夜景、ではないだろう。
そういえば、篠宮さんは『間に合わなくなっちゃう』とも言っていた。
「見せたいものって、もしかして、日の出?」
「正解だよ。察しが良くて、お姉さん困っちゃうなー」
「あのさ、篠宮さん」
「んむ?」
「今見てるのは西。太陽は東から出るんだよ」
「にゃふっ!? 察しが良くて助かった!」
今日何度目かの、くるりと反転。とててて、と篠宮さんは反対側のフェンスへ移動する。
「四条君、お日様昇るの見たことないでしょ?」
「実際に見たことはないかな。でも、知識としてはよく知ってる」
物語の中でも、あるいは心情を描写する際の比喩表現としても、太陽そのものや日の出、日の入りはメジャーな部類だと思う。だから、見たことがなくてもある程度想像出来る。実際、本を読むときにはイメージで補ってきた。僕が実物を知らないものについては、全部そう。例えばトランクケースなんかも。
「そっか。ちょっと残念。でも、せっかくここまで来たんだし、見てから帰ろっか?」
「だね」
僕は地平線の彼方に目を向ける。
地平線より下にある物を、極力意識しないように。
そして、何の前触れもなく、その時は訪れた。
「おー! よかった、間に合ったね! 四条君が気づいてくれて助かったよー」
少しずつ、しかし確実に、日輪が地平線から顔を出す。
乱立する建物のちっぽけな明かりを嗤うように、暗く止まった世界の時間が動き始める。暗闇はグレーに、そして各々が本来あるべき色に戻っていく。建物は白や、黄土色や、青や、赤に。街路樹は緑の葉と茶色の幹に。道路には黒の上に白い線が引かれ、銀の車がその上を通過する。
始まるんだ。今日が。
人と人の営み。
社会の歯車が回り始める音を聞く。
「しじょう……くん?」
誰にも平等に、その時は訪れた。
太陽は傘下の全てを照らす。生き物も、それ以外も、篠宮さんも、僕も。
僕は人間の社会の外にいる。
それでも僕は、篠宮さんと共に、同じ景色を見ている。
僕らを照らす日輪を見ている。
「ひゃっ!? つめた……し、四条君? なんで、泣いてるの?」
言葉が見つからない、なんて、陳腐な表現だ。
でも、それでいいんだ。無理に言葉にする方が、稚拙だ。
人生で何万冊も本を読んできた僕でも、この光景を正確に表現する言葉は、知らない。
事実は小説より奇なり、とはよく言ったものだ。
今まで文字やイラストでしか知らなかった朝日は、僕の想像を軽々と超えた。
「ねえ、大丈夫? ねえってば!」
僕は、神様なんて本当はいないと思っている。だって、不公平だ。僕とそれ以外の人達と、全然違う運命を与えられているから。
けど、天照大御神だけは、信じていいかもしれない。
陽の光だけは、誰にでも等しく降り注ぐ。
僕にも。
篠宮さん、ありがとう。
そう言ったつもりだった。
「な、なに? 聞こえないよ?」
喉が詰まる。声が上手く出せない。泣くと喉が痛くなるんだ。知ってる、けど、思えば最後に泣いたのも、5年以上前だ。病院生活に慣れてからは、悲しむ前に、傷つく前に、諦めてた。
でも、この涙は、過去に流したどれとも違う。
感動して泣くのは、生まれて初めてだ。
「あ……りが、とう。ありが、とう」
伝わるまで、何度だって繰り返す。
他に方法を知らない。どこにも書いてなかった。
「……ふふ、連れてきてよかった」
篠宮さんの髪が揺れる。黒と、それに混じる紫。肌はほんのりピンクに色づいている。
出来ることなら、ずっと。
このまま篠宮さんと、二人きりで居たい。
僕の知らないことを教えてくれた篠宮さんと、いつまでもこの場所で、この景色を眺めていたい。
「ほんとはさー、富士山から出るやつとか、そうじゃなくても海とか山とかで見せたかったよ。都会の真ん中じゃなかったら、もっともーっと綺麗なのに」
篠宮さんや、他の人たちにとっては、なんてことない風景なんだろう。ただの日常の一ページ。だって、昨日も明日も同じように、地球は自転している。
普通はたぶん、日常から離れた自然、例えば海辺や山頂など、特別な空間で見るからこそ、価値が高まるんだ。
だから、普通じゃない僕には、これで充分だ。
僕にとっては、充分すぎるほど、特別なんだ。
篠宮さんがいなかったら、僕は一生、この景色を見ることが無かった。ぞっとする。高いINTにかこつけて、世界の全てを知った気になっていた、数秒前までの僕に。こんな身近な情景さえも、見逃していた僕に。
「あたし、四条君の役に立てたかな」
頷く。大きく。
僕の顔は、篠宮さんからは見えていない。
でも、きっと、それだけで伝わる。
「よかった。本当に、よかった」
冷たい。
僕の腕に、水滴が一つ落ちる。
僕は気づかないふりをした。
景色を目に焼き付けようと、僕は塗れた瞳を袖に擦りつけ、嗚咽を飲み込んだ。
どくん。
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